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サン・セバスティアン映画祭:『ブラインド・スポット』。「長回し」で一本撮り切りは、快挙か愚挙か?

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
女優賞を受賞したピア・ティエルタ。横顔だけで無言、圧巻の演技も長回しゆえ

この映画はいわゆる「長回し」で撮られている。長回しとはカットを入れず1つのシーンを撮り切るテクニックのこと。

例えば、主人公が目を覚ましベッドから起き上がり妻にキスをし顔を洗ってトイレに行きシャワーを浴び着替えをし新聞を読みながら朝ごはんを食べ歯磨きをし身だしなみを整え車に乗って通勤するという、シーンがあるとする。これを長回しで撮るとまあ小1時間は使ってしまい、90分の作品だと上映時間の3分の2近く消化してしまう。

話は全然進まないしフィルムの無駄だ。

よって、普通はカットを入れ「目を開ける」「伸びをする」、「蛇口を捻る」(背景でシャワーの出る音)、「妻との会話」、「ネクタイを締める手のアップ」、「車庫の扉が開いて車が出る」などの映像を断片的に入れて、残りははしょる。これで十分何をしているか伝わるし、観客は退屈しないで済むし、撮影時間とフィルム、上映時間の節約にもなる。

長回しとは何か? どんな効果があるのか?

長回しには日常感を演出したり(現実にはカットは存在しないので)、切迫感を高めたりする効果がある。

例えば、迷路のような狭い通路を歩く主人公をカメラが追っていき、次々に出会う相手に挨拶をするシーン。『グッド・フェローズ』での地下のレストランへ降りていくシーン、『突撃』での塹壕内を歩くシーン、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』での劇場の舞台裏シーンでは、長回しが効果的に使われ、躍動感と迷走感を高めている。

さて、サン・セバスティアン映画祭(2018年9月開催)の公式コンペティション作『ブラインド・スポット』は、一本丸ごとこの長回しで撮られている。カットも時間の省略もない。よって、102分の上映時間はそのまま物語の中で流れるリアルな時間である。

お話よりも何よりも、まずは「よく撮ったなー」というのが感想だ。

全編撮り切り=ノーミス。困難極める撮影現場

セリフをとちったり、カメラマンがつまずいたり、マイクが雑音を拾ったりすれば、普通は「はい、カット。やり直し」となる。で、その数秒なり数分なりのシーンだけをやり直せば済むのだが、全編長回しだとこうはいかない。100分までノーミスでも101分に誰かがミスをすれば全部が水の泡、すべて最初から撮影し直しである。

しかも、物語の舞台は、学校→帰り道→家の中→パトカー内→病院→タクシー内→自宅と移っていく。主人公が車に乗れば、カメラマンも音声スタッフも同じ車に乗り込んで撮影を継続しなければならない。迫真の名演技の最中、窮屈な車内でスタッフが機材をぶつけてノイズが入ればアウト、主人公がカメラフレームの外に出てしまえばアウトである。

病院内でも緊急搬送入口→廊下→控え室→エレベーター内→手術室と登場人物は動き、撮影スタッフもそれについて行く。主人公を追うばかりでは話が進まないので、廊下ですれ違いがてらスイッチしてカメラが医師を追いかけ始め、物語に重層感を持たせる、という手も使われている。

つまり、無数の人間がミスを犯し得る要素は無数にある。にもかかわらず、102分間ノーカットというのは102分間ノーミスでやり遂げたということである。

ツヴァ・ノヴォトニー監督によると3テイク撮ったらしいが、その裏でのリハーサル回数、撮影やり直し回数はいかほどだったのだろう。

脇役の手法が主役に。長回しは監督の自己満足?

こういう大変な作業だから全編長回しの作品はめったにない。手法は脇役に過ぎない。カットで話が伝えられるなら別にいいじゃないか……。

――そんな手間をかける必要が果たしてあるのか――という、長回しの存在意義を問う疑問に、監督はぶつからざるを得ないからだ。

ヒッチコックの『ロープ』(上映時間80分。ただしフィルム交換による見えないカットはあり)が「実験的」と呼ばれるのは、手法に対する称賛ではあるが、作品の中身に対してではない。

また、『バードマン……』も長回しでの全編撮り切りだが、こちらはデジタル的なトリックが使われている。上映時間=物語の時間ではなく、119分の作品なのに物語内では数日が経過している。つまり、見えないカット=時間的省略があるわけで、主人公が楽屋の鏡を見て振り返ると数時間経っている……といった不自然さを切れ目なく、見た目上は自然につなげている。

一本丸ごと長回しの作品は、その撮影の困難さゆえにどうしても中身よりも手法の話が先になる。ブラインド・スポット(=盲点)という題名の意味もまずはカメラの動き方で表現されている。

では、『ブラインド・スポット』に一本丸ごと長回しの必然性はあったのか?

退屈な日常からの暗転。長回しの必然性

私はあったと思う。日常の中にひそむ悲劇、たった102分で暗転してしまう人生の危うさ、というメッセージを伝えるのに、一本丸ごと長回しという手法は有効だった、と考える。

例えば、冒頭の帰宅途中の娘によるおしゃべりに中身はなく物語上の意味もない。が、逆にそれゆえに、十代の会話なんてそんなものだろうというリアルさ、何でその後そうなっちゃうのという不条理さ、が際立つ効果を生んでいる。

長回しだからこその十数分間の退屈なおしゃべり――。これを不要と見るか、嵐の前の静けさと見るかで長回しの必然性と、『ブラインド・スポット』への評価は変わってくるだろう。

主演のピア・ティエルタは女優賞を受賞した。車内で横顔を延々と映すだけという、長回しならではのシーンでの無言の感情表現を見れば、納得できる。『食べて、祈って、恋をして』にも出演した女優による初監督作品でノルウェー映画とマイナーではあるが、特殊手法に挑戦した野心を買いたい。ぜひ日本で公開してほしい佳作である。

女優賞を受賞するピア・ティエルタ(右)。FOTO:Montse Castillo
女優賞を受賞するピア・ティエルタ(右)。FOTO:Montse Castillo

(サン・セバスティアン映画祭提供の公式予告編はこちらのVIDEOにあるが、ストーリーを先回りして知ってしまうと、長回しによる物語との同時進行感を楽しめないので注意)

写真提供/サン・セバスティアン映画祭

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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