この男女平等の世に厳然としてある「女の映画」。『家族のように』を称えるべきか? 軽蔑すべきか?
この男女平等の時代に、女が理解できないことがあるかどうかはわからないが、男が理解できないことは確実にある。それは子供を持ちたいという欲求である。それも、跡取りが欲しいとか、木村の名字を絶やしたくないとか、二人の愛の証が欲しいとか、孫の顔を見せてあげたいというような「社会的な欲求」ではなく、「生理的な欲求」の方である。
子供が欲しいという生理的欲求
私の親友に「とにかく子供が欲しい」と言う女性がいる。
彼女は父親となる男性を探していたが見つからず、40代前半になって精子提供者を探して人工授精することに決めた。子供の父親はドナーであり、人種、瞳や肌や髪の色、身長と体重、健康状態、学歴、職業など大まかなプロフィールはわかっても、どこの誰かは永遠に明かされることはない。つまり、父が誰であるかは重要ではなく、自分の子供であることが重要であるわけだ。
子供のいない私は、かつて恋人が欲しがるなら持ってもいいと考えたことはあるが、誰の子でもいい、子供であればいい、と思ったことはない。親友と話していて、子供を持つ欲求の種類とレベルの違いを感じた。冒頭で「生理的な欲求」と形容したのは、生物としての本能というか、心と体が欲しているという印象を受けたからだ。
サン・セバスティアン映画祭で脚本賞に輝いた『家族のように』は、代理出産によって子供を持とうとする女性マレナの物語である。
マレナは出産者でも卵子提供者でもなく、関係の壊れた夫は精子提供者でもない。つまり、彼女は生物学的にはまったく関係のない子を自分の子供にしようとしている。
代理出産と人身売買の微妙な境界
これ、舞台となるアルゼンチンでは違法行為である。
通常代理母による出産はそれが合法の国(ロシアやウクライナなど)で行われ、事前にエージェンシーを通し実績のある診療所の手で弁護士を雇い契約書を交わすなどの周到な準備をするのだが、マレナがそんなことをした形跡はない。むしろ、首都ブエノス・アイレスから数百kmの辺境の村の貧しい女性を代理出産者に選んだのは法の監視が届かないから、つまり違法を承知での行為だろう。38歳の医者である彼女は確信犯なのだ。
彼女は法とか夫とか代理母とかを無視しエゴイスティックに行動する。それを正当化するのは、どうしようもない強い欲求に突き動かされているから、というエクスキューズだけだ。
私はそんなマレナに共感できなかった。
“子供がどうしても欲しかったのだから法に触れても仕方がない”とも思えなかった。マレナは代理母にお金を払う。それは出産の肩代わりをしたことに対する当然の報酬であり、合法的な代理出産でも出産前後のすべての費用+報酬は、子供をもらい受ける側が負担するのが常識なのだが、どうしても“子供を買っている”ようにしか見えなかった。私の目は合法性とかモラルとかで曇ってしまい、マレナを色眼鏡でしか見られなくなっていたのだ。
脚本賞の脚本が納得できないのは…
この作品が脚本賞に選ばれているということは、マレナの動機や行動に説得力があったということだろう。私が“どうしてそこまで子供にこだわるの?”とか“ 頭がおかしいんじゃないの?”とちんぷんかんぷんだったところを“狂おしいほどの母性”とか“願望達成のために犠牲をいとわない強い女性”と解釈した、ということなのだろう。
私を呆れさせたこの作品を私の親友が見たら、主人公に大いに共感し感動したかもしれない。
わからない映画が駄作とは限らず、駄目なのは書き手の頭の方なのかもしれない。サッカーほどではないが「男の世界」である映画ジャーナリズムの世界で、私がつまらなかったから紹介しないというのはこの作品には公平ではないのかもしれない。理解不能だからこそ裏に何かあるはずなのだが……。