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「いだてん」この回を見なかった人はもったいない。宮藤官九郎、魂の「戦争」と「志ん生」

木俣冬フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人
大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」39回より 写真提供:NHK

大河ドラマ「いだてん」あらすじ

日本ではじめてオリンピックに参加した金栗四三(中村勘九郎)とオリンピックを東京に呼んだ田畑政治(阿部サダヲ)を主人公に、明治、大正、昭和とオリンピックの歴史とそれに関わった人々を描く群像劇。第二部・田畑編、ついに完結。東京オリンピックは中止になり、戦争が本格化、学徒動員で小松勝(仲野太賀)も新妻・リク(杉咲花)を残して満州へ(38回)。戦争から逃れるために圓生(中村七之助)を伴って満州に慰問に向かった志ん生(森山未來)。そのまま終戦を迎えるが、日本が負けた途端、日本人は虐げられて…(39回)

現実の世界ではIOC がマラソン会場を北海道に移したらどうかと言い出したとかで、IOC、「いだてん」を見てるんじゃないかと思ったりして。「誰のためのオリンピック」と田畑が言ってたのを見て、そうだ、そのとおりと思ったんじゃないかなんてことを妄想して楽しんでいる。

週刊文春で宮藤官九郎が最も書きたかった話が39回と書いていた。「笑いと救い」について書いた回であると。ああ、それを待っていた。このレビューではずっとそこを追いかけてきたから。宮藤官九郎が書く「戦争」の物語に「笑い」がなければ、ほかの作家でも良かったはずだと思うから。

第38回「長いお別れ」演出:西村武五郎

38回は、亡くなった嘉納治五郎(役所広司)の志をついで、田畑(阿部サダヲ)がオリンピック開催に奔走するが無念にも東京オリンピックは中止になる。

開戦と同時に箱根駅伝も中止、その後、やたらと長い名前で復活。そこで走った小松勝も学徒出陣していく。

庶民の娯楽・落語も禁止演目が制定された。それを「禁演落語」という。53種のうち31種が廓噺だったとか。史実ではこの53種のなかに「居残り佐平次」や「明烏」「品川心中」「疝気の虫」など、志ん生の得意の落語がかなり入っていた。

「おかみの顔色をうかがって芸人なんてやってらっか」とふてくされる志ん生に対して三遊亭圓生は、

「これくらい葬ってもネタには困りませんよ」と余裕を見せる。圓生は、のちに志ん生と並ぶ人気落語家になる人物で、その芸や性格は志ん生とは対称的だ。

鬱々とした空気のなか、黒坂(三宅弘城)は、なぜただで金栗を下宿させていたのか明かす。それは「楽しい」から。どんなときでも金栗の明るさが場を救ってきたと言うのだ。

小松が出陣するときも、子供たちが「ばってん、ばってん」と囃し立て、暗い空気を吹き飛ばす。

「オリンピックやってればこんなことにならなかった」

こんなふうに“明るさ”が救いになる。だが、明るさがその後の悲しみを一層大きくしたりもする。作劇とはそういうもので、さんざん笑わせたあと、ドーンっと奈落につき堕とすこともあるし、その逆でさんざん暗いものを書いたあと、笑って終わらせるものもある。

「いだてん」の場合、完全なるフィクションではなく史実に基づいたドラマだから、どこにどう悲劇と喜劇を混ぜていくか、フィクション以上に作家の腕の見せ所となる。

史実も多く交えた「いだてん」のなかの大きなフィクションは、金栗四三の弟子であり、震災で陸上の夢を叶えることなく亡くなった女性シマの娘リク(杉咲花二役)の夫となる小松の物語だ。

38回では、この小市民たちのささやかな明るさが、社会の大きな闇に飲み込まれていく。

雨の中、学徒動員を国立競技場で行うのを見送りながら、田畑は「オリンピックやってればこんなことにならなかった」と悔し涙にくれ、オリンピックを必ずやると誓う。

第39回「懐かしの満州」 演出:大根 仁 渡辺直樹

39回の舞台はほぼ満州。小松は満州に行き、そこで、慰問に来ていた志ん生と運命の出会いをする。ワープステーション江戸の近現代エリアを満州の街に飾り替えて撮影されたようだ。ワープステーションでは数週間に及ぶ「いだてん」ロケが行われ、その間、毎日のように飾り替えを行って撮影していたそうだ。役に立つワープステーション江戸。

「円生と志ん生」という名作がありまして

このレビューの初期に、志ん生に関する書籍のひとつとして、井上ひさしの戯曲「円生と志ん生」を挙げたことがあるが、戦争と志ん生を書くにあたって宮藤官九郎もこの名作「円生と志ん生」は意識していたらしい。チーフ演出家の井上剛がインタビューで語っている記事を見た。

「円生と志ん生」は性格も芸風も対称的なふたりが満州に慰問に行き、終戦を経て様変わりした満州で、日本に打ち捨てられた人たち(主に女性たち)と出会っていくお話。彼女たちの人生を聞きながら、志ん生たちは常に落語のことを忘れない。落語が彼らの人生なのだ。落語とは笑いとはいったい何なのか、井上ひさしは書く。では、宮藤官九郎にとって落語とは笑いとは何なのか。39回は、いわば宮藤官九郎版「円生(「いだてん」だと圓生)と志ん生」だと思って見た。巨匠・井上ひさしの名作に、後輩演劇人である宮藤官九郎がどこまで迫れるか。そこに私は興味があった。

志ん生と円生と小松と森繁

39回「懐かしの満州」は、オリジナルの登場人物・小松勝のエピソードも加わって、いわば「志ん生と円生と小松」であるうえ、森繁久彌(渡辺大和)まで出て来てエピソードがツメツメ。史実と創作がぎゅうぎゅうで、ややダイジェストのようにも見えて、いささかもったいなく感じるほどだった。

金栗演じる中村勘九郎の弟と説明するのも野暮と思うが、圓生演じるのは中村七之助。彼がとても良くて、歌舞伎の女形に定評あるからこその女性の声音や所作がすばらしいし、それ以外の語りも聞かせる。宮藤官九郎の初監督作「真夜中の弥次さん喜多さん」(05年)に主演しているだけはあって宮藤の世界にしっくりハマる。

「志ん生の『富久』は絶品」の謎が解けた

長らくミステリー仕立てになっていた「志ん生の『富久』は絶品」という志ん生の弟子・五りん(神木隆之介)の父・小松が満州から投函した絵葉書の謎がついに明かされる。

志ん生と圓生のところに小松が訪ねて来ると、オープニングの前奏(ファンファーレ)が高らかに鳴って、比較的淡々と史実と民衆の生活を描いてきた「いだてん」がここに来て、いわゆるドラマティック(劇的)になる。

小松が沖縄に行くことになり、そこで戦死かと思わせて、行かずに生き残りほっとする。その後、町中で中国人に銃殺されそうになったところを、その人物から小松が絵葉書を買ったことで生きながらえる。小松、死なないの? と思いきや、終戦を迎えたところでアメリカン・ニューシネマのラストみたいなことが……。志ん生の「富久」を、走りのプロである小松と、金栗四三(中村勘九郎)の実体験によって、「浅草」から「芝」に変更して視聴者をうるっとさせた後の衝撃たるや……。

小松の最期は一瞬無駄死にように見える。が、戦争で亡くなったことにしなかったところに作り手の意地を見た。沖縄に行かず、敵味方両方に追われている逃亡兵となった(死ぬのがこわいから逃げろと言う分隊長役が大人計画の村杉蝉之介)ため、もはや追い詰められていた小松が、最後まで走ることを選んだという死に様を描いたのだ。彼は自分で最後を決めたのだ。しかも、自分の走りの体験を、志ん生の「富久」に活かして、それを観ることができた。どうせ死ぬなら好きなことをして、最後にああ、楽しかった!と思って死にたいではないか。せめて。

雨の中、無残に死んでいる小松にかけより嘆く志ん生。でも名前を忘れていて、「富久」の久蔵でいいか、と言う。小松だって志ん生を圓生と間違えていた。名前が曖昧であることの哀愁、そして、その匿名性が人知れず亡くなっていった無数の人たちのことでもあるように感じさせる。

先達の作家・井上ひさしは「円生と志ん生」で戦争をどう書いたか。

井上ひさしの戯曲「円生と志ん生」では終盤、円生と志ん生が修道女と宗教と落語について語るシーンがある。修道女は、人間とはやがて死ぬものだから、生きるとつらいは同義語であるといい、落語家はその悲しみを笑いに変えると言い、笑いを知らない修道女に、落語の触りを語って聞かせる。ものすごくいい話なのだが、井上ひさしはクリスチャンだったこともあるし、ややお説教くさいところもないとはいえない。そういう意味では、宮藤は「笑いとは●●である」みたいなことを書かずして、登場人物の生きる姿を通してなにかを感じさせるものになっていた。

井上ひさしは「円生と志ん生」の中で、人が疲れ切ったとき、口当たりのいいニセの救世主が現れると警告している。たやすく感情を高ぶらせ、SNSで切り取りやすいいい感じのセリフ、いい感じの場面、音楽は要注意なのだ。「いだてん」ではたいていそういうことを慎重に抑制してきたと思う。

ロシア兵に追われて全速力で走って逃げる小松。このときの小松が何を思っていたか。「富久」のように「家に帰りたい」と願っていたか、走って走って、自分の走りを、志ん生に走り方を教えたときのようにその身に改めて実感しただろうか。ほかのことを考えていたかもしれない。もはやどっちでもいい、小松の“生”の煌めきだけがそこにある。

だからこそよけいに死が悲しい。死なずにすんだほうがいいに決まっている。くるしみを笑いに変えることが人間の力であるはずが、その笑いや楽しみ、命まで根こそぎ奪っていくのが戦争だ。「いだてん」はそこまで書ききった。

地獄のなかで「いだてん」の救いはーー

美川(勝地涼)だ。(ここで、ファンファーレ鳴ってほしい)

不死身で神出鬼没のおもしろキャラで、本筋にあまり関係ないにぎやかしとしてみごとに成立してきた彼が、満州にもいた。前からずっと書いているが、この人、何もしてないのに、生き延びている。そして、この人がいると楽しい。面白い。最高じゃないか。「いだてん」は戦争のあった日本の近代史を描くという命題があり、そこにオリンピックも盛り込むというアイデアがあり、さらに落語を盛り込むというアイデアもあり、いろいろやらなきゃならないことがいっぱいのなかなか大変な仕事のなかで、政治になんにも影響されず、したたかに生きている人物・美川を描き続ける。それこそが宮藤官九郎にしかできないことだ。

さて、これまであまり書かれることのなかった戦時中の話を描き、のこり8回、最終章となる。いよいよ64年、念願の東京オリンピックへ。「面白いことをやらなきゃいけない」と田畑が予告で叫んでいた。

ドラマもますます面白くあれ(笑えるものが面白いものという意味ではありません、念のため)。

渡辺直樹とは何者か?

39回の演出は、大根仁と渡辺直樹。渡辺直樹とは何者か? NHKの広報スタッフに尋ねたところ、数多くの映画に関わっている優秀な演出家で、「いだてん」には企画段階から関わっていた外部スタッフ。時が来たらきちんと紹介されるらしい。おそらく「山田孝之のカンヌ映画祭」の助監督などをやっている方であろう。塚本晋也作品のスタッフ・林啓史の起用に次ぐ知る人ぞ知る才能を起用しているところも「いだてん」のいいところだ。

第四十回「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 演出: 井上剛 10月27日(日)放送 あらすじ

1959年。東京オリンピックの招致活動が大詰めを迎えていた田畑(阿部サダヲ)は、東京都庁にNHK解説委員の平沢和重(星野源)を招き、来るIOC総会での最終スピーチを引き受けるよう頼みこむ。断る平沢に対し田畑は、全てを失った敗戦以来、悲願の招致のために全力を尽くしてきた自分の「オリンピック噺」を語って聞かせる。それは、戦後の食糧不足の中、浜松で天才・古橋廣之進(北島康介)を見出すところから始まる―

今度こそ東京にオリンピックを招致するため田畑が奮闘。オリンピック・金メダリストの北島康介の演技に注目したい。

20日はラグビーでお休み、27日が待ちきれない。

大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜」

NHK 総合 日曜よる8時〜

脚本:宮藤官九郎

音楽:大友良英

題字:横尾忠則

噺(はなし):ビートたけし

語り:森山未來

出演:阿部サダヲ 中村勘九郎 / 星野源 松坂桃李 麻生久美子 安藤サクラ 徳井義実 / 

神木隆之介 荒川良々 川栄李奈 / 松重豊 薬師丸ひろ子 浅野忠信 ほか

演出:井上 剛、西村武五郎、一木正恵、大根 仁ほか

制作統括:訓覇 圭、清水拓哉

「いだてん」各話レビューは、講談社ミモレエンタメ番長揃い踏み「それ、気になってた!」で連載していましたが、

編集方針の変更により「いだてん」第一部の記事で終了となったため、こちらで第二部を継続してお届けします。

第一部の記事はコチラhttps://mi-mollet.com/search?mode=aa&keyword%5B%5D=%E3%81%84%E3%81%A0%E3%81%A6%E3%82%93%E3%80%9C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E5%99%BA%EF%BC%88%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%81%97%EF%BC%89%E3%80%9C

フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人

角川書店(現KADOKAWA)で書籍編集、TBSドラマのウェブディレクター、映画や演劇のパンフレット編集などの経験を生かし、ドラマ、映画、演劇、アニメ、漫画など文化、芸術、娯楽に関する原稿、ノベライズなどを手がける。日本ペンクラブ会員。 著書『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』『ケイゾク、SPEC、カイドク』『挑戦者たち トップアクターズ・ルポルタージュ』、ノベライズ『連続テレビ小説 なつぞら』『小説嵐電』『ちょっと思い出しただけ』『大河ドラマ どうする家康』ほか、『堤幸彦  堤っ』『庵野秀明のフタリシバイ』『蜷川幸雄 身体的物語論』の企画構成、『宮村優子 アスカライソジ」構成などがある

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