『ファイト!』『アザミ嬢のララバイ』……名曲続々で中島みゆき音楽劇化する昼の帯ドラマ『やすらぎの郷』

帯ドラマ劇場『やすらぎの郷』(テレビ朝日 月~金 ひる12時30分  再放送 BS朝日 朝7時40分~) 

脚本:倉本聰  

出演:石坂浩二、浅丘ルリ子、有馬稲子、加賀まりこ、草刈民代、五月みどり、常盤貴子、名高達男、野際陽子、藤竜也、風吹ジュン、松岡茉優、ミッキー・カーチス、八千草薫、山本圭ほか

『慕情』『ファイト!』『アザミ嬢のララバイ』がドラマを彩る

倉本聰が描く、昼の帯ドラマ『やすらぎの郷』は、少子高齢化社会の現代日本に生きる老人たちを主人公に、戦後から現代までの日本の問題も盛り込んだ社会派な面もありながら、猥雑さもたっぷり取り入れたエンターテインメントとして、放送開始から人気を得ている。

かつてテレビ界に多大な貢献をした人(テレビ局に勤務していた人以外)だけが入れる老人ホーム〈やすらぎの郷 La Strada〉に入居している老人たちの群像劇は、現実とドラマをリンクさせたり(7月21日放送の80話では、文春、新潮、ポスト、現代と週刊誌が実名で出てきた)、ミステリー調になったり、イケメンを出したりと、サービス精神満載。それが、ここのところ、音楽ドラマの様相まで呈してきた。元々、中島みゆきが、倉本の書いた台本を最終回まですべて読んで作ったという主題歌『慕情』が、ドラマのテーマをみごとに集約して、シーン、シーンで視聴者を泣かせてきたが、最近、中島の過去のヒット作も登場しはじめたのだ。

14週(7月10日~15日)では、余命わずかの人間の、現役時代の思い出の曲として、『ファイト!』(83年)が歌われ、その人物が亡くなった時には、レイクエムのようにも使われた。

さらに、16週(7月17日~21日)では、中島のデビュー曲『アザミ嬢のララバイ』(75年)が、主人公・菊村栄(石坂浩二)の老いらく(?)の恋を盛り上げるように流れる。

元々、中島の楽曲は詩情にあふれ、劇的で、たくさんのドラマを盛り上げることに寄与してきた。その最たる例が、『3年B組金八先生 第2シリーズ』(81年 TBS )で、生徒が警察に捕まるときにかかった『世情』(78年)だ。あまりにも盛り上がり、いまなお語り継がれる名場面となり、パロディ化も多くされている。この演出の妙味を極めて巧く取り入れている作品のひとつに、マギー(モデルじゃないほう、作家であり俳優である)や長谷川朝晴などが所属する演劇ユニット・ジョビジョバ(02年に活動停止したが今年17年に再起動)の舞台がある(ジョビジョバの公式サイトによると、94年から『世情』がかかるネタをはじめたとある)。

 

後半戦、ますます冴える倉本聰の脚本

中島みゆきは、『やすらぎの郷』で、音楽面で寄与するだけにとどまらず、倉本聰と共にカメオ出演までしている。倉本聰×中島みゆきの強力タッグで、ドラマの屋台骨は盤石だ。

音楽と合わせて、倉本の筆は、さらに冴える。

序盤は、スターや、売れっ子脚本家という富裕層のリタイア後を描くドラマのような雰囲気があったが、15週でようやく、無名のスタッフにスポットを当て、彼らの功績を称えるエピソードを描き、決して、富裕層だけのドラマではないことを示した。

しかも、テレビを支えてきた無名のスタッフ(美術スタッフとタイムキーパーの夫婦)の亡くなり方が、妻が亡くなった翌朝、寝ている間に夫が亡くなるという、誰もがうらやむような見事な幸せの形を提示したことと、かつて大スターだった、及川しのぶ(有馬稲子)の認知症が進む姿を描くことで、有名人も無名人も、老いて死ぬ時にはなんら差のないことを描いた。

18日(火)の77話では、

「かつて有名だったもの、無名だったもの、すべてを平等に闇にとかして、やすらぎの郷は再びいつもの平成な日常を残酷に取り戻した」

と菊村が語る。“すべて平等”ということは、有名人が下降し、無名人が上昇するという、大逆転でもある。我ら庶民としてはとても痛快だ。

実は、『やすらぎの郷』がはじまった時、Twitterで私はこうつぶやいたことがあった。

業界のトップクラスが労られ、映像界の片隅で名も知られないまま貢献した貧しい人たちはとりあえずスルーらしい。高齢富裕層のドラマ「やすらぎの郷」。名もない庶民を描いてきたはずの倉本聰先生はいったいどういうおつもりなのか。でも往年の大女優勢揃いだからいいか。  

出典:@kamitonami  4月6日

 

だが、昨年のうちに台本を書き上げていた倉本は、そんな一視聴者の批判など、織り込み済みだったのだ。

おそらく、テレビ朝日で初めて創設された、昼の帯ドラマという枠で、勝負をかけるにあたり、いきなり無名の人間の物語を描くよりも、往年のスターが勢揃いする華やかなもののほうが話題になる。実際、それで、序盤は盛り上がった。マガジンハウスから女優8人の若き頃の写真集まで出版されたほどだ。

舞台『流されて』のタイトルに秘められたもの

そして、ようやく3ヶ月過ぎてドラマがすっかり認知されたときに、満を持しての、無名の人々のエピソードをもってきたのだろう。

有名、無名の価値を等価にして、精神的に更地化された〈やすらぎの郷〉では、今度は、老人たちの恋がはじまる。しかもそれは、何10歳もの年の差の恋だ。81歳のマロ(ミッキー・カーチス)と、35歳の、やすらぎの郷の職員・信子(常盤貴子)の“「肉欲を超越した純精神的な」恋”を皮切りに、菊村までが、かつて、最愛の妻・律子(風吹ジュン)を一度だけ裏切ることになった女性・直美の孫で、彼女にそっくりの大学生・アザミ(清野菜名)に心が揺れはじめるというのが80話(7月21日〈金〉)。

恋をするって行為には年齢制限あるんでしょうかね

ないよねそういう定年制みたいの

いくつになっても色気ってもんは命あるかぎりついてくるよね

出典:76話 マロのセリフより

菊村が、アザミとコンタクトをとるために、ガラケーを使って、やったことのないメールをはじめることは、文字通り、ガラパゴス化した人間たち(老人)の逆襲に映る。

倉本は、亡くなった野際陽子演じる井深凉子や、なんとなく蜷川幸雄を思わせる名前の演出家・蒜川秀樹を茄子の呪い揚げ(恨みのある人物を茄子に見立てて揚げる呪いの儀式)の刑に処すことで、なんとなく言葉にしにくい死というタブーを、笑いに転化させているようでもある。まるで、すべての価値観をひっくり返すことで、老人の存在が社会のマイナスに思われていることの認識の変化を起こそうとするように。『やすらぎの郷』が生まれた理由は、ドラマが若者優先になって、高齢層のためのものが少ないという理由だったのだから、ピッタリではないか。

その想いの表れは、お嬢(浅丘ルリ子)が、蒜川演出で出演予定だった舞台『流されて』のタイトルに感じる。内容は全く違うが同名の、昔のイタリア映画『流されて』(74年)は、富裕層の人妻と労働者階級の男が、ヨットで島に流されてふたりきりになり、威張っていた人妻が男の性的魅力に屈して立場が逆転するというストーリーで、これは男女の立場逆転のみならず、世界の逆転とも考えて観ることができるものだった。

なぜ”アザミ”なのか

思えば、有名であろうが無名であろうが、富裕層であろうが貧乏人であろうが、今の日本では、老人は一様に、忘れられて、邪魔者扱いにされている。菊村も、お嬢も、マヤ(加賀まりこ)も、姫(八千草薫)も、みんなみんな、過去の輝かしい思い出にすがるしかない孤独な弱者だ。

そう思った時、デビュー以来ずっと、弱者や孤独を歌ってきた中島みゆきの歌が、やっぱり響く。

『アザミ嬢のララバイ』は、アザミの祖母が、かつて菊村に対して日陰の女だった意味もあるように思う。なんとも皮肉めいたというか恨みがましい名前にも思えるが、中島はデビュー時、『アザミ嬢のララバイ』の歌詞カードで、この曲を「不安な状態から逃げたくて作る」とし、アザミとは「一見針に包まれて強そうであるが、実際は菜の花や桔梗よりももっと弱い花ではないか」とコメントしている。そうすると、どうしても、夜のお仕事をしている女性のイメージが強いこの歌も、もっと普遍的に思えてくる。

若者の立場から考えたら、高齢者のほうが増えていて、それを支えないとならないのは大変だから(年金もたくさんもらってるし)、高齢者たちを弱者だとかマイノリティーだとかとして捉えることには、やや無理がある気もしないではないが、アザミのように、強そうに見えて脆いのだ、という観点で考えたら、老人も若者もなく、だからこそ、『やすらぎの郷』は高齢者以外にも支持されているのだと思う。

ひとつだけ、ツッコませてほしいのは、マロと信子の年の差が〈やすらぎの郷〉の住人やスタッフ間でやいのやいの言われているが、年の差よりも、まず、従業員(信子)が入居者(マロ)に手を出すというほうが問題ではないのか。この施設では、そういう規約は作ってないのか。これもまた、常識や制度を超えることのひとつなのかもしれないが、今のところ、誰も咎めてないことが謎である。これに関しても、ゆくゆく言及されるだろうか。