「ホシノから中日に来ないかと…」ドジャース歴代最多勝の故ドン・サットンが現役最終年に東京で語ったこと
メジャーリーグで通算324勝をマークしたドン・サットンが1月18日の夜、就寝中に息を引き取ったとMLB公式サイトが伝えた。享年75歳。サットンといえば、筆者がメジャーを見始めた頃のロサンゼルス・ドジャースのエースだが、個人的に忘れられない思い出がある。
ホテルのロビーに現れたまさかの”大物”
1988年11月某日、筆者は東京都内のホテルにいた。そこは日米野球のために来日していた「大リーグ・オールスター・チーム」の宿舎。その頃の筆者はまだ学生であり、スパーキー・アンダーソン監督(デトロイト・タイガース)をはじめ投手ではオーレル・ハーシュハイザー(ドジャース)、デービッド・コーン(ニューヨーク・メッツ)、グレッグ・マダックス(シカゴ・カブス)ら、野手ではポール・モリター(ミルウォーキー・ブリュワーズ)、カービー・パケット(ミネソタ・ツインズ)、バリー・ラーキン(シンシナティ・レッズ)など、そうそうたるメンバーから、あわよくばサインをもらおうと考えていたのだ。
当時は、NHKがBS試験放送でメジャーリーグの録画中継を定期的に行うようになったばかり。シーズン中には総合テレビで作家・山際淳司氏(1995年死去)の司会による「大リーグアワー」が毎週月曜日に放送されていたものの、今と比べれば“大リーグ”のファンは日本には決して多くなかったと思う。
その時代は日米野球の選手宿舎であってもロビーへの出入りは自由で、めったにない機会を逃すまいと数少ないファンがホテルに集まるのが常だった。そんなコアなファンに混じって筆者もホテルのロビーで待機していたところ、来日メンバーに名前のない”大物”が目の前に現れた。その人こそ、つい2年前にメジャー通算300勝を達成し、この年の8月にドジャースを解雇されたばかりのドン・サットンだったのだ。
サットンは気さくにサインの求めに応じると、少し手持ちぶさただったのか、筆者との雑談に花を咲かせ始めた。聞けば、来日は米国に向けて放送される日米野球の解説者としてだという。その時点では現役引退を表明していなかったので、今後のことを尋ねると、彼は驚くようなことを口にした。
「実はホシノからチュウニチに来ないかと誘われていてね…」
ホシノ、チュウニチ…。英語に交じっていた日本語のワードは、もちろん今は亡き星野仙一氏であり、監督としてこの年のセ・リーグ優勝に導いた中日ドラゴンズのことである。この1988年は、前年までメジャーで6年連続2ケタ勝利をマークしていたビル・ガリクソンが読売ジャイアンツに入団し、大きな話題となっていた。既に43歳とはいえ、今度はメジャーの300勝投手が日本に!? そう思った矢先、彼はにやりと笑った。
「でもチュウニチには行かないと思う。メジャーリーグで23年も投げて、もう疲れたからね」
投手として米野球殿堂、アナウンサーとしては球団殿堂入り
その話が本当だったのか、それとも日本のファンへのリップサービスだったのか、今となってはわからない。ただ、星野氏はドジャースの会長補佐だった「アイク」こと生原昭宏氏(1992年死去)を通じて同球団と太いパイプを築き、この1988年にはドジャースのキャンプ地、フロリダ州ベロビーチで中日キャンプを実現させている。そのキャンプ地で、8年ぶりにドジャースに復帰したサットンとも顔を合わせていた可能性があり、信ぴょう性のありそうな話ではあった。
結局、サットンは翌春になって現役引退を表明。その後はアトランタ・ブレーブスやワシントン・ナショナルズのテレビ・ラジオ中継で解説者やアナウンサーを務めるなど、放送ブースに活躍の場を移した。
現役時代は最多勝やサイ・ヤング賞とは無縁だったものの、メジャー23年で21回の2ケタ勝利と抜群の安定感を誇ったサットンだが、なんといっても印象に残るのは、現在も球団記録の233勝を挙げたドジャース時代。ドジャースで着けていた背番号20は永久欠番となり、1998年に選ばれた米野球殿堂でも「LA」マークの帽子をかぶった姿でレリーフになっている。
一方で、引退後に長きにわたって中継に携わったブレーブスでは、2015年にはアナウンサーとして4人目の球団殿堂入り。2002年に腎がんと診断されて左の腎臓を摘出し、翌年には肺の一部を摘出してからも、放送ブースに座った。
振り返ってみれば、引退後も含めて幸せな野球人生だったのかもしれない。最後も苦しまずに逝けたのなら、それもある意味幸せなことだろう。そうは思いながらも、昨年から続くメジャーリーグを見始めた「あの時代」のスタープレーヤーの逝去には、やはり悲しみを禁じ得ない……。