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野球人として新たな道へ足を踏み入れた武道者のようなイチローの心境

菊地慶剛スポーツライター/近畿大学・大阪国際大学非常勤講師
フロントとしてチームに帯同することイチロー選手(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 マリナーズが現地3日、イチロー選手の解雇と即時のフロント入りを発表した。今後は「チーム会長補佐」としてチームに帯同するものの、シーズン中の現役復帰はないとのことだ。速報を報じているMLBネットワークでは「事実上の現役引退」と解説している。

 先月22日にギレルモ・ヘレディア選手をマイナーに降格した時点から、誰もがこの日が来るのを予測していた。ジェリー・ディポトGMが予告していた通りヘレディア選手は5月1日にメジャーに復帰していたが、結局マリナーズで“外野手5人制”を採用するのは無理があった。同GMがイチロー選手の存在感、チーム内に及ぼす好影響を断じようとも、戦力面を考えれば5人の中で外せる存在はイチロー選手しかいなかった。

 今回の結果を招いたのは、イチロー選手がチームが求めるような結果を残せなかったからだ。すでに開幕前に本欄でもレポートしているように、スプリングトレーニング途中にマリナーズと契約した時点で、負傷離脱したベン・ギャメル選手が復帰してくるまでの間に皆を納得させるだけの成績を残すしかないという状況だった。それができなかったから、イチロー選手ではなくヘレディア選手をマイナー降格した際、地元メディアからチームの判断が批難を浴びることになったのだ。

 昨年マーリンズに在籍していた際も開幕から不振が続き、イチロー選手に対する風当たりが強くなったことがあった。だが当時はシーズン開幕後に起用法が極端に変わり、それに対応できなかった部分が大きかった。実際シーズン後半にはしっかり打撃を立て直し成績を残している。しかし今回は事情が違う。短期間で結果を残すことが求められ、それを果たすことができなかった。言い逃れできない状況だ。

 最終的にマリナーズはイチロー選手を25人枠から外すことを決断したのだが、あくまで彼のクラブハウスの影響力を考慮してフロントの椅子を用意した。普通に考えれば温情的措置ということになるのだろう。ただマリナーズ復帰会見で「最低でも50歳まで現役」を宣言していたイチロー選手にとって本当に幸せなことなのだろうか。

 通常通りイチロー選手にDFA(25人枠から外す措置)をしておけば、イチロー選手本人が望めばウェーバー終了後にマイナー契約を結び、プレーする機会を与えられたはずだ。またチームを離れることになったとしても、FAとしてNPB復帰や独立リーグで現役を続けることもできた。逆にマリナーズは、今シーズン中の現役復帰の道を完全に奪ってしまったと見えるからだ。

 そんな疑問を氷解させてくれたのが、イチロー選手の記者会見だった。その清々しささえ漂う表情から発した「野球の研究者でいたい」という言葉に、現在の彼の心境が凝縮していた。マリナーズに対する深い愛とともに、すべての状況を受け入れたからこそ発することができた言葉だったのだろう。この瞬間からイチロー選手は現役選手としての枠を離れ、“野球道の求道者”になったのだ。まさにディポトGMが語っている“ダライ・ラマ”という形容が相応しいだろう。

 イチロー選手が会見で話しているように、ここ数日は自分の置かれた環境を噛みしめながらいろいろなことを考え続けたのだろう。その中で届いたマリナーズからのオファー。今シーズンもこのまま現役を続けたいという思いがあるなら、そのオファーを受け入れる必要もなく、前述通りNPBや独立リーグの道を選ぶことができたはずだ。それを踏まえた上でマリナーズ残留の道を選択した。もちろんそこには今シーズン現役を続ける機会を与えてくれたチームへの恩返しもあった。

 今回の決断は、イチロー選手の野球人生の中でも最も重いものだったはずだ。剣道や柔道などの武道で例えるならば、試合に勝つために強さばかりを追い求めていたものが、真剣勝負の試合から身を引いて今後は武道という奥深さを追求する道を選んだようなものだ。これまで同様に武道を続けたとしても、それに向き合う姿勢はまったく異なるものになってしまう。ディポトGM、代理人のジョン・ボッグス氏ともに、来シーズンの現役復帰の可能性について否定していないが、たとえ再び現役としてグラウンドに戻ってきたとしても、現在のような心境に至ったイチロー選手はこれまでと同じというわけにはいかないだろう。

 以前から感じていたことだが、イチロー選手は野球界において宮本武蔵のような孤高の武士ではなかっただろうか。宮本武蔵は真剣勝負の場から身を引いた後は、静かに自分と向き合いながら『五輪書』を認(したた)めた。会見のイチロー選手の様子を見ながら、たぶん“命をやりとり”する場に戻ってこないように思えたのは自分だけではないだろう。だが達観したイチロー選手が今後歩んでいく野球道も実に興味深くて仕方がない。彼は野球界でどんな『五輪書』を描いていくのだろうか。

スポーツライター/近畿大学・大阪国際大学非常勤講師

1993年から米国を拠点にライター活動を開始。95年の野茂投手のドジャース入りで本格的なスポーツ取材を始め、20年以上に渡り米国の4大プロスポーツをはじめ様々な競技のスポーツ取材を経験する。また取材を通じて多くの一流アスリートと交流しながらスポーツが持つ魅力、可能性を認識し、社会におけるスポーツが果たすべき役割を研究テーマにする。2017年から日本に拠点を移し取材活動を続ける傍ら、非常勤講師として近畿大学で教壇に立ち大学アスリートを対象にスポーツについて論じる。在米中は取材や個人旅行で全50州に足を運び、各地事情にも精通している。

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