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相撲の神様の思し召し

加藤秀樹構想日本 代表

土俵上での女性の救命行為が議論を呼んだ。少し違う視点でこの問題を考えてみたい。

私には、女性が土俵に上ったことに対する批判の多くが、今の日本の随所で起こっていることを象徴することのように思えた。それは理念とか原理とか目的と、それを達成するためのきまりや方法との取り違えだ。抽象的な言い方になるが、型と形式の取り違えと言うこともできる。

私は大相撲にまつわる伝統や宗教的意義については素人だが、土俵を「神聖な場所」として、そこには限られた人しか上れないというのは、それはそれでいいのではないかと思う。

その土俵上で一人の人が生死の際にいる。

それを、周りに大勢の人が居ながら手をこまぬいているなら、それこそ神聖であるべき場所を穢す、神を畏れぬ行いだろう。

かりに、女性が穢れをもたらすおそれのあるものとして土俵には上がれないという伝統を認めるとしよう。

しかし、それは土俵を神聖なものとして敬うという理念とか、目的を達するために従うべききまり、ルールだ。女性を土俵に上げないということが最終目的ではないはずだ。これが冒頭に述べた「取り違え」だ。

実はこのてのとり違えが、今の日本社会には大変多い。例えば、町づくりの事業について行政から補助金をもらう。税金を使うわけだから使い方に制約があったり、報告をしなければならないのは当然だ。しかし、その制約や報告書作成に縛られて、本来の目的であった町づくりのことが十分できない。結局税金の無駄使いになるといった声はよく聞く。

企業でも同じことが多くある。不祥事の防止やコンプライアンス重視は大事なことだ。しかし、そのための細かいルールやマニュアルを作ったり、大量の文書作成をすることが日常の目的になっている。その一方で、いざという時に問題を防げないといったことが珍しくない。

日本文化は「型」を重んじてきた。茶の湯であれば、くり返しの稽古で型を身につけることで、美しい所作やその背後にあるもてなしの理念を身につける。武術も同じで、型を身につけることで、自在な身のこなしができるようになる。つまり日々の身の処し方、行為により型を身につけることを通して、理念や目指すべきものが自ずと分かるようになる。そうすると、その理念や原理に基づいた行動が日頃からとれるようになる。

日々の行為がなく、きまりやルールを読んでそれに従うだけでは形式を追うだけになり、本来の目的や目指すことが見えてこない。それでは、いつまでたっても形式を追うことから出られない。

くり返しになるが、今の日本には、本来の目的や原理、原則を忘れて、形式だけ整えようとすることがとても多い。森友・加計問題も同様だ。公共の利益とか国民のためという原理、原則からすると自ずとどうすればよいか明らかなはずだが、そこをはずして形式ばかり整えようとするから、文書改竄まで起きる。それに対して公文書管理のルールだけ厳格化しても、もともと文書がなかったことにするとか、手続きが面倒になるばかりだろう。

土俵の上でのあの出来事は、日本人みんなが日々の行いを通して「型」を身につけ、目指すべきことと、そのための手段とをわきまえて行動せよという、相撲の神様の思し召しかもしれない。

構想日本 代表

大蔵省で、証券局、主税局、国際金融局、財政金融研究所などに勤務した後、1997年4月、日本に真に必要な政策を「民」の立場から立案・提言、そして実現するため、非営利独立のシンクタンク構想日本を設立。事業仕分けによる行革、政党ガバナンスの確立、教育行政や、医療制度改革などを提言。その実現に向けて各分野の変革者やNPOと連携し、縦横無尽の射程から日本の変革をめざす。

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