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ブラック校則はなぜ存在する?~弁護士が校則指導をやってみて感じたこと~

神内聡スクールロイヤー・兵庫教育大学大学院教授
(写真:milatas/イメージマート)

ブラック校則はなぜ存在する?

学校にとって校則はいつの時代でも議論の的ですが、最近はいわゆる「ブラック校則」と呼ばれる理不尽な校則が話題になっており、文部科学省も、必要かつ合理的な範囲を超えた校則が存在していないかどうかを確認するように教育委員会に求めることになりました。

地域によっては既に校則の抜本的な見直しに取り組んでおり、子どもの人権や主体性を育む視点から校則の見直しを求める声も高まっています(拙著『学校弁護士 スクールロイヤーが見た教育現場』でも、ブラック校則の実情を紹介しています)。

ブラック校則の代表例でもあるような、「下着の色を指定し、かつ教師がそれを確認する」などの、誰がどう考えても必要性も合理性も見当たらないような校則指導が現実に存在しており、しかも長年にわたってそれを改善できていない学校現場の問題が批判されなければならないことは当然ですが、問題はなぜこうした理不尽な校則が制定されたのか、その背景事情です。

例えば、よくある「髪型の規制」については、「髪型を派手にすると非行に関わりやすくなる」「オシャレに熱中して勉強がおろそかになる」といった懸念がそうした校則につながったことはまだ想像しやすいですが、「下着の色を指定し、かつ教師がそれを確認する」という校則の制定事情は、正直なところよくわかりません。

仮に教師が保護者であれば、自分の子どもをこうした校則のある学校に通わせたいのかも疑問です。しかも、教師は昔から他の業界よりも比較的女性が多い職業です。それにもかかわらず、こうした校則が制定され、かつ長年にわたって存在しているという現実は、日本の学校組織や教師文化自体の問題点と言えるのかもしれません。

学校はなぜ校則を制定できる?

法律上ではっきりとした根拠が規定されていないにもかかわらず、なぜ学校は校則を制定し、子どもたちの自由を制約できるのでしょうか。

法律論では従来から様々な学説があり、校則裁判でよく引用される最高裁判例も存在していますが、社会科学的な見地から考えた場合、公教育と学校制度、成年と未成年の区別、教員の児童生徒に対する懲戒権と安全配慮義務、集団を前提とした教育活動といった法制度の下では、学校が校則を一切制定できないと考えるよりも、それぞれの学校の実情に応じて、その制度目的を達成する上で必要かつ合理的な校則を制定する権限を与えるほうが機能的であると考えられます。

では学校の目的とは何でしょうか。様々な考えはありますが、私自身は、①学力を身に付ける、②学力以外で社会に出て役立つスキルを身に付ける、③児童生徒の安全を守る、という3つの目的が最低限あると思います。

こうした目的を達成する上で必要かつ合理的な校則であれば直ちに違法とまでは言えないと考えられます。

「許されない外見」をどこで「線引き」すればいい?

しかし、憲法をはじめとする法律論の建前は、他人に危害を加えない限り、最大限個人の自由を尊重するという危害原理に立脚しています(ただし、危害原理は「判断能力のある人間」の間で成立する原理でもある点には注意を要します)。

もしそのような考えに立つならば、他人に危害を加えるわけではない髪型や服装などの外見を校則で規制することはできないと考えるのが筋です。

では、例えば、ある中学校でA君が金髪でタトゥーを彫って登校し、同じクラスのBさんが「怖くて学校に行けなくなった」というケースではどう考えればよいでしょうか。

A君の外見はBさんにとって恐怖心を与えていますが、それはあくまでもBさんの主観を基準にした判断です。むしろ、個人の自由を尊重する考えに立てば、BさんこそA君の自由を尊重するように指導しなければならないかもしれません。しかし、教育現場にあっては本当にそれでよいのかは議論の余地があるでしょう。

仮に、A君の外見は校則で規制すべき対象だというのであれば、「どこまでが規制されるべき外見で、どこまでは許される外見なのか」という「線引き」が必要になりますが、果たして簡単に線引きできるものでしょうか。

校則に危害原理を徹底するとしても、現実にはこうした「線引き」が必要となるケースが生じることも想定しておかなければなりません。

弁護士が校則指導をやってみて

実のところ、いつの時代でも「校則は理不尽だ」と考えるのは生徒ならではの特権でもあります。「既存の価値観に抵抗する」のは若者の特権であり、校則に抵抗することはある意味で象徴的な行為だからです。若者からすれば、年配層から「最近の若いモンは…」と言われること自体に、実は価値があるのかもしれません。

私は教師という立場で実際に学校で校則指導を実践しているという、日本でも大変珍しい弁護士なのですが、かくいう私も中高生時代は校則が大嫌いでした。校則違反で何度も注意されたこともあります。

その私自身が実際に教師になってみて、今度は校則に基づいて生徒を指導しなければならない立場になり、校則について生徒と違った立場から考えるようになりました。しかも、弁護士でもあるので当然憲法や判例の知識もあるし、法律論の理想と教育現場の現実との葛藤に毎日のように悩みました。

生徒指導という仕事が教師にとってとても大切であると同時に、とても難しくてセンスが必要であることも実感しました。自分が担任するクラスがだらしなくて、校則指導が下手だと他の先生から注意されたこともあります。

前述のように、法律論の建前は「他人に危害を加えない限り、最大限個人の自由を尊重する」危害原理です。また、生徒を指導するならば適正な手続きと基準が必要だと考えることも法律論です。

一方で、現実の教育現場には家庭でのしつけや愛情不足など、様々な理由で自律心が決定的に不足している生徒も確かに存在しています。ルールを緩めればすぐにだらけてしまう生徒もいます。教師としては、このまま社会に出たらおそらく苦労してしまうであろう生徒を見過ごすわけにもいきません。

いろいろ悩んだ末に自分なりに定立した校則指導の基準は、

1.成績がちゃんと取れていて、遅刻欠席せずに学業を頑張っているならば、生徒の自律心を信じて厳しく注意指導はしない

2.教師の前では教師にとって不快な外見をするが、就職活動の面接官の前ではそうしないならば、その合理的な理由を説明させる

というものです。

1.は「進学校では校則が緩く、そうでない学校は校則が厳しい」という現象とも関連します。また、社会に出れば「結果」が最も大切です。どんな外見をしていても仕事で結果を出せる人は評価されるし、仕事で満足に結果も出せない人が外見だけ目立とうとしても誰も評価してくれません。生徒の本業は勉強なので、勉強でちゃんと結果を出していれば外見はそれほど問題になりません。

2.は相手に敬意を払う大切さです。これも社会に出たら必要なスキルです。教師と生徒の関係は決して上司と部下のような上下関係ではありませんが、友達のような対等関係でもありません。「教える-学ぶ」関係では、互いに不快な外見をしないように気遣う必要があります。もちろん、教師は生徒から敬意を払われるためにも、全力で教育活動に取り組まなければなりません。

前述した学校の目的によれば、私の生徒指導の基準の1.は①「学力を身に付ける」、2.は②の「学力以外の社会で役立つスキルを身に付ける」目的を達成するためのものです。

自分が実践していない校則論を学校に求める難しさ

スクールロイヤーを導入すれば、確かに違法な校則指導を抑止できる可能性はあります。

ただ、私自身は弁護士としても教師としても、生徒の自律心を信頼してできる限り生徒の自由を尊重した校則であるべきだと考えていますが、あらゆる学校でそうすべきと断言することはできません。

なぜなら、指導が困難な生徒や複雑な家庭環境の生徒が多い学校で、法律論が示すような理想的な校則指導を実践できるかと言えば、私自身にそうした経験も自信もないからです。

仮に指導が難しい学校で校則を緩めたら、長期的には生徒の自主性や自律心が育まれるかもしれませんが、短期的には様々なトラブルが発生するかもしれません。そうしたトラブルの責任を負わなければならなくなるのは、日々指導が困難な生徒と接しながら苦闘している現場の先生たちです。

責任を負わなくてよい立場から自分が実践したこともない理想の校則指導を学校に求めることは、法律論としては妥当かもしれませんが、教育論としては決して妥当とは思えません。

そのため、弁護士が校則批判をする際には、自分自身が実践可能な校則論なのかも慎重に考える必要があると思います(そもそも強制加入団体の下で会員個人の自由が決して尊重されているとは言い難い業界にいる弁護士が、学校の校則を批判できるだけの実質を備えた職業なのかは大いに疑問の余地があります)。

また、「校則のせいで教師の生徒指導の負担が大きくなる」という意見もありますが、こうした意見の背景にはそもそも生徒指導が苦手な教師が増えているという実情にも注意する必要があります。校則指導はともかく、いじめの加害行為のように、教師は時には教育の専門職として児童生徒を適切に注意指導しなければなりませんが、それには生徒指導の経験を積むことも必要です。

校則と教師の負担を論じる場合は、必要不可欠な指導すらできない教師が増えてしまうリスクも検討すべきだと思います。

個人的には、民主的な手続きにのっとって教師と生徒が互いに理解できるような校則を制定していくやり方が最も理想的だと思います。

しかし、同調圧力を排して民主主義が適切に機能するためには相応の知識や判断能力が不可欠であり、大人の民主主義であっても容易ではないのですから、あらゆる学校で民主的なルールメイキングが機能するかどうかは難しいところです。

昔も今も理想の校則論はたくさん提唱され、実践されてもいますが、前提となる学校の実情や生徒の能力などが異なる場合であっても再現可能な実践例は決して多くありません。

また、校則の議論では、学校と家庭の役割分担や教師の法的責任の視点も不可欠です。本来は家庭が担うべき指導を学校がしなければならなくなった中で、司法判断によってどんどん拡大する教師の法的責任を回避するために必要以上に予防的な厳しい校則が制定されるようになった側面は否定できないからです。

ほとんどの教師は生徒に対して責任を負う教育者の立場から、生徒の教育にとって必要かつ合理的な校則とは何か、悩みながら生徒と日々接しています。

「下着の色を指定し、確認する」ような理不尽な校則は直ちに廃止されるべきですが、様々な学校で再現可能な理想の校則の実践例を増やすことも必要だと思います。

スクールロイヤー・兵庫教育大学大学院教授

スクールロイヤー。日本で初めて法曹資格を持つ教師として活動し、現在は教職大学院で「チーム学校」や外部人材の効果検証、教師文化、法教育等の研究活動を行う。また、教師の経験を活かし、学校現場に詳しい弁護士として様々な学校のスクールロイヤーを担当する。専門は学校経営論。高校では公共・世界史の授業や部活動顧問等を担当。東京大学法学部卒業、同大学院教育学研究科修了。専修教員免許(中学社会・地理歴史・公民)を取得。著書に『学校弁護士 スクールロイヤーが見た教育現場』(角川新書)、『スクールロイヤー 学校現場の事例で学ぶ教育紛争実務Q&A170』(日本加除出版)等。

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