「主権者教育」という言葉にひそむ多様性の否定~日本の政治教育の課題~

(写真:アフロ)

先日、文部科学省に設置されている主権者教育推進会議が最終報告である「今後の主権者教育の推進に向けて」を発表しました。同会議は、選挙権年齢が18歳に引き下げられたこと、成年年齢が18歳に引き下げられることに伴い、子どもたちがこれまで以上に主権者として必要な資質・能力を確実に身に付けていくことが必要という認識の下に、2018年に設置されました。

この会議が設置される以前からも、主権者教育という言葉はさかんに使用されていましたが、最近では校則の問題などを議論する際にも主権者教育という言葉を使用した見解も見られます。

私も教員としては「現代社会」という主権者教育と最も関連する科目を教えている立場なのですが、発表された最終報告の内容に関してはどうしても腑に落ちないことがあります。それは「主権者教育」という言葉を使用しているにもかかわらず、日本国籍を持たない子どもたちへの配慮が全く欠けているからです。

「主権者」=「有権者」?

現在の日本の選挙制度では永住外国人を含む日本国籍を持たない者は参政権がありません。外国人の参政権を認めるかどうかに関しては当然賛否両論があります。しかし、外国人に参政権を認めないことと、そうした選挙制度の下で「主権者教育」という言葉を教育現場で使用することとは、別に議論する必要があります。

そもそも「主権者」という言葉は非常に多義的で、その対象については古くから様々な考え方が提唱されています。最高裁判所は、外国人参政権の是非が争われた著名な裁判で、憲法の国民主権の原理における「国民」とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味すると解しています。もちろん、「主権者」の意味を広く解釈し、参政権の有無に限らず、広く政治に参加する主体として「主権者」という言葉を使うことも可能です。しかし、本質的には「主権者」という言葉を参政権と全く切り離して考えることは困難で、このことは主権者教育推進会議自体も設置趣旨に選挙権年齢の引き下げを挙げていることからも明らかです。

そう考えると、少なくとも18歳になったとしても選挙権を持つことができない子どもたちにとっては、現状では「主権者教育」という言葉には複雑な気持ちを抱かざるを得ません。ここでの問題は外国人に参政権が認められていないことではなく、「主権者教育」という言葉がこうした政治的にマイノリティな子どもたちに対して、一種の差別的なニュアンスを含んでいること、もっと言えば、「主権者教育」という言葉は、グローバル化が進み、国籍においても多様性が進んでいる現在の教育現場の現実に対応できていない言葉であるということです(校則に例えれば、地毛が様々な髪色の人種も含めて多様な生徒が存在する今日の学校で、黒髪を強制する校則と似ています)。

「主権者教育」という言葉を使用する必要はある?

私自身は教えているクラスに外国籍の生徒が何人もいるので、以前から「主権者教育」という言葉を使用していません。このことは拙著『学校弁護士 スクールロイヤーが見た教育現場』でも紹介しています。また、私に限らず、公民科の先生方に聞いてみると、やはり外国籍の生徒が相当数いる現実から「主権者教育」という言葉を使用するのに慎重な先生が多いです。一方、政府が以前に作成した政治教育の教材である『私たちが拓く日本の未来』の教師用指導資料では、ほんの少しだけですが、留意点として外国籍の生徒が在籍する学校での政治教育について触れています。

「主権者教育」という言葉を使いたい人たちの思惑はともかくとして、現場の先生たちは創意工夫して有権者になれない外国籍の子どもたちに配慮した政治教育を実践しています。例えば、請願権や情報公開制度は民主主義社会において重要な法制度ですが、これらの権利や制度は「何人も」行使ないし利用することができます。そこで、模擬請願などの教育活動で、国籍にかかわらず政治的教養を育む実践を行っている先生たちもいます。中でも、兵庫県教育委員会が作成した「参画と協働が拓く 兵庫の未来 ~政治的教養をはぐくむ教育の充実に向けて~」では、参政権と国籍についての言及や外国籍の生徒が存在することの丁寧な分析と、「生徒の国籍や年齢に関係なく、政治を無理なく身近なものとして感じられる、『多文化共生社会の実現』を目指した『模擬請願』活動」の実践案を紹介しており、非常に参考になります。私も授業では模擬情報公開請求や直近の国政選挙結果のデータ分析など、選挙権の有無に深く触れることなく政治的教養を身に付ける授業を試行したりしています。

実は主権者教育推進会議の最終報告でも、主権者教育の目的を「単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせること」と理解する見解を示しています。こうした目的においては有権者であることは必ずしも意識されていません。つまり、現状では参政権を連想させる「主権者教育」という言葉をわざわざ使用する必要性に乏しいのです。

「主権者教育」以外の言葉で政治教育を進める-「市民教育」の普及

海外の政治教育でも「主権者教育(Sovereign Education)」という言葉はそれほど一般的ではありません。それに比べると日本の政治教育は、むしろリベラルな立場の論者が有権者になれない子どもたちへの配慮を欠く「主権者教育」という言葉を積極的に使用している傾向がある点で異質とも言えます(例えば、日本弁護士連合会は「あるべき主権者教育の推進を求める宣言―民主的な社会を担う資質を育むために―」を発表するなど、積極的に「主権者教育」という言葉を使用しています)。

個人的にはわざわざ解釈に議論のある言葉を使用せずとも、シンプルに「政治教育」という言葉を使用すればよいのではないかと思いますが、強いて「主権者教育」に代わる言葉として候補になるものとしては、海外でもよく使用されている「市民教育(Citizenship Education)」が挙げられると思います。民主主義を支える市民性を養うことは、国籍を問わず地球規模での人類の課題を解決していく上でとても大切なことであり、今後は市民教育という言葉が日本でも定着していけばよいと思います(ただし、Citizenshipという言葉も権利性の有無と無関係ではなく、解釈に議論がある言葉なので使用する際には注意が必要です)。

日本の政治教育の課題-政治的中立性ばかり議論していてよいのか

これまでの日本の政治教育の議論では、大半の時間を政治的中立性に費やしています。今回の主権者教育推進会議でも議論の中心的なテーマは教育現場での政治的中立性でした。

しかし、本当はもうそんなテーマばかりを議論する状況ではないように思います。私は以前にどのような政治教育を希望するかを有権者になった生徒に対してアンケートしたことがありますが、その結果最も多かったのは「投票にいってもどの政党に投票すればよいかわからなかったので、各政党の違いを教えてほしい。」といった回答でした。1人しか当選しない小選挙区制なのに多くの政党候補者が乱立する状況の中では、結局、有権者となった生徒が最も知りたい情報は、各政党の違いなのです。「投票しようと思ったら、候補者が多すぎて決められず投票できなかった」と答えた生徒もかなりいました。これは生徒に限らず多くの有権者にとっても同様の悩みであり、日本の民主主義自体の課題です。

また、主権者教育推進会議の方向性もそうですが、現在の政治教育の主要な目的は「若者の投票率を向上させる」ことにあります。しかし、この目標設定自体、本当に妥当なのかを検証する必要があります。なぜなら、少子高齢化が進んだ日本の「シルバー民主主義」の下では、たとえ若者が全員投票に行ったとしても、高齢者が全員投票に行けば、多数決では有権者の絶対数が多い高齢者にかなわないからです。

政治教育はやりっ放しではなく、その効果の検証も重要です。確かに、欧米の教育現場では日本よりも活発な政治教育が行われているかもしれません。しかし、昨今の欧米の主要な選挙結果を客観的に考察する限り、その効果が認められるとは必ずしも言えないような現象も普通に見られます。

今回の記事で触れた外国人参政権についても、人口減少と移民の増加という今後の日本社会の現実に直面する中で、一昔前の日本の現状認識に基づく議論でよいのかという問題があります。ちなみに、戦前の大日本帝国では、朝鮮人・台湾人であっても日本内地に居住する男性には参政権が認められていたのですが、私の授業ではこの点にも触れて、今後移民が増加する日本社会での選挙制度についても生徒に考えてもらっています。

著名な教育哲学者の言説でも知られているとおり、学校での政治教育は民主主義の実践にとって不可欠の大切なものです。だからこそ、日本における現実の民主主義の課題にも目を背けずに子どもたちの政治的教養を育む政治教育が必要だと思います。