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集団的自衛権行使を容認しない人々- 官邸前では、多くの人が反対を叫び続けている。

伊藤和子弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長

■ クーデター的な解釈改憲

集団的自衛権の行使容認を憲法解釈の変更により認めてしまおう、という閣議決定が本日なされるという。

自民、公明両党は今朝の安全保障法制整備に関する協議会で、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を容認する閣議決定案について正式に合意したという。

思い出してみれば、集団的自衛権行使に関するの議論は、今年の5月始まったばかりだ。

安保法制懇という首相の諮問機関が提言を出したのを受け、5月15日に安倍首相が集団的自衛権に関する憲法解釈を変更することを示唆した。

http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html

それからまだ2か月も経過していない。

ところが、政府は、「集団的自衛権」行使容認に関する閣議決定を本日、7月1日にはしてしまうのだという。

民間企業の小さなプロジェクトだって、こんな短期間では意思決定できないだろう。

しかも国民は全く蚊帳の外、意見を聞かれてすらいないのだ。私たちは本当にないがしろにされている。

集団的自衛権とは、自国が攻められてもいないのに、他人の間の紛争に自ら参戦して武力行使をするということである。

第二次世界大戦の反省から徹底した戦争放棄を憲法で宣言した憲法9条から到底認めることができない、政策の180度の転換である。

ところが政府は、一内閣の権限で、憲法改正手続を経ることなく、解釈変更という形で進めてしまおうというのだ。

日本が戦後70年近く守ってきたことを、まともな議論を尽くすこともなく、かくも拙速に変えてしまおうというのである。

ここまで乱暴な政策転換は過去に例がない。

米外交専門誌『フォーリン・ポリシー』に、安倍首相が、憲法第96条によって定められた憲法改正の手続きを踏まず、再解釈という方法で、このような大きな変革を行おうとしていることを強く非難する論説が掲載された。

このようなやり方は憲法違反であり、「憲法のクーデター」だという。

同感だ。

人々も黙っていない。昨夜も官邸前ではこんなことを許してはならないと多くの人たちが声をあげた。

■ 憲法解釈をいかようにでも為政者が変えてよい、という危険な前例

今回の決め方、憲法軽視を通り越し、憲法破壊に等しい。

内閣総理大臣には、そもそも憲法解釈を決める権限はない。

そもそも、憲法は国家権力をしばって濫用がないようにコントロールする文書であり、首相をはじめとする公務員は憲法を遵守する義務があるのだ。自分で勝手に解釈を変更して遵守すべき憲法の内容を都合よく変えてしまう、ということはあってはならない。

今回問題となっている集団的自衛権、憲法9条の制約から、日本が行使できるのは「個別的自衛権」として解釈されてきた。

現行憲法をどう読んでも集団的自衛権の行使を認めることができると読むことは困難である。

最近、歴代内閣法制局長官の人たちが次々と出てきて、集団的自衛権は現行憲法の解釈を範囲を超えていて、認められない、と強く発言している。つまり、この解釈変更はちょっとした微細な解釈変更ではないのだ。

日本の進路にとって極めて重要な政策決定である以上、国民的議論に基づき、

変えるのであれば圧倒的な民意に賛同を得て、憲法を改正する以外にないのだ。

このような前例を許せば、人権条項だって国民主権など、ほかの条項だっていつどうやって勝手に変えられてしまうかもわからない。

徴兵制だって現行法でもOKという解釈を、将来の首相がするかもしれない。

モラルハザードならぬ法治国家ハザードというべきであろうか。

このような前例をつくってしまう、ということが日本の立憲主義、民主主義にとってこれがどんなに危険で重大な意味を持つのか、政権党内では誰ひとりとして真剣に考えないのか。

■ 私たちの民意は一度も問われていない。

集団的自衛権を認めるか認めないかは憲法改正に付すべきテーマ、つまり国民投票で過半数の国民の支持が必要なはずであるのに、私たちに真の問わずに、国民投票を回避して事態は進んでいる。

つまり、安倍首相は正々堂々と民意を問うことなく、そのプロセスを回避して事実上の憲法改正をしてしまうわけだ。

憲法改正で民意の支持を正面から得るのでなく、違法な抜け道を使って目的を達成してしまう、非常に卑怯である。

事は、戦争か平和かに関すること、このような国の進路の基本事項を決めるのは国民でなければならない、それが国民主権である。

特に、戦争をするのであれば、その負担を覚悟し、犠牲を払い、特に場合によっては殺し殺され、血を流すという残虐な犠牲すら払うことになる、その犠牲を強いられるのは国民なのだ。

ところが、安倍首相は、私たち主権者が自ら熟慮して考え、選択・決定する権限をはく奪して、与党間の密室協議で決めてしまったのだ。

これは重大だ。

国民に真を問う必要もないので、理解を求める必要もない。だってばたばたと「新三要件」(その書きぶりもコロコロ変わる)だの8事例だのと矢継ぎ早に新しい話を持ち出し続けた。多くの人は何か新三要件か、8事例か、など飲み込めていないに違いない。

しかし、国民から決定権限をはく奪してしまったのだから、国民に理解してもらう必要などない、というわけだ。

事実、多くの世論調査で、懸念、憂慮、反対が高まっているのに、首相は全く意に介さない。民意などはどうでもよいというわけだ。

たしかに、自民党と公明党は政権党かもしれない。しかし、先の総選挙で、どちらの党も、集団的自衛権の行使容認を解釈改憲でやるんだ、と宣言して支持を受けて政権についたわけではない。私たちはこの争点について彼らを承認したわけではない。

これまで様々な重要な政策の決定にあたって、パブコメや公聴会開催など、きちんと民意を取り入れる機会が講じられてきた。ところが、今回、重要政策ということにとどまらない憲法解釈の180度の転換について、何らのパブコメも公聴会もない、民意を聴かない、というのだ。

私たちは政府から相談する必要などない存在として扱われ、主権者として国の進路を決定する権限をはく奪されたわけだ。

■ 必要最小限度で限定的なのか。

今回の集団的自衛権行使は最小限の範囲で限定的に行使されると言われている。

しかし、今回の三要件というのは何らかの歯止めになるのか。三要件というのは、 

(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係のある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること

(2)これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと

(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

というもののようだ(このうち(1)が与党協議でコロコロ変わっている)。

しかし、密接な国というのはどこなのか、全く限定されていない。同盟関係にある米国に限定するわけでもないようだ。

「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」「おそれ」というのも極めて曖昧だ。

「国民」とはどの範囲なのかもわからないため、一人の国民が海外で紛争に巻き込まれたような事例にも拡大解釈されかねない(事実、8事例のうちの「邦人輸送中の米輸送艦の防護」というのは、1~2名の邦人が輸送されるような事態だって想定している)。

「存立が脅かされる」とか、「明白な危険」というのは抽象的だっていいわけで、アフガン戦争やイラク戦争のような事例の場合、「我が国もテロの標的になりかねない危険」などというムードを(今回のように)あおりたてれば、無理やり「明白な危険」があることになつてしまい、どんな紛争にでも拡大されかねない。

そして「最小限」などというが、予測不可能なことが次々に起きて、ひとたび武力行使をしたら「最小限」でないから途中で撤退などすることが許されないのが戦争のリアリティだ。ひとたび他国の戦争に参加して「最小限」などというのは机上の空論に過ぎない。

このように三要件というが歯止めはほとんどない。

それに、今「限定的」などと言っていても、将来「全面解禁」することだって、解釈改憲でできてしまう。

ひとたび、解釈意見で集団的自衛権を認めることにしたのだ、その行使の仕方を「限定」⇒「全面解禁」にするのだって、密室の与党協議でできるということになってしまう。

いつのまにか、少しずーつ解釈変更を重ねて、気が付いたらいつでも行使、ということになってしまうだろう、それも国民の一言の相談もなく。

2001年の米国のアフガニスタンへの報復戦争は、国連安保理の理解では「自衛戦争」として把握され、了解されている。NATOは集団的自衛権の一環として、アフガニスタンに派兵し、ヨーロッパの若者の命が奪われ、同時に彼ら自身が、多数の罪なきアフガニスタンの人々を虫けらのように殺害した。

集団的自衛権に道を開くことは、このような血みどろの戦争に道を開くことにほかならない。

米国はこれまでも「自衛権」の範囲を拡大して戦争をしてきたが、今後米国が新しい戦争を始める度に、集団的自衛権として日本が派兵するかが議論されることになるだろう。

米国が強い圧力で派兵を要求し、憲法の歯止めを失ったら、私たちの将来の指導者は、大義なき戦争から若者たちの命を守り、戦争から日本を守ることができるのだろうか。

■ 戦争こそが最大の人権侵害 ■

私が携わる国際人権NGOの活動というのは、世界で発生する最も深刻な人権侵害をなくすこと、解決することである。

世界の人権侵害の現場で紛争がもたらす残虐な犠牲を見続けてきた。最も深刻な人権侵害とは何か、それは、紛争下での人権侵害だ。

戦争では、平時では到底ありえないような残虐なな殺人やレイプが連鎖的に発生し、人々は理性を失い、人権侵害はまたたくまに拡大し、取り返しのつかない惨禍をもたらす、戦争こそが最大の人権侵害だと思う。

日本はその犠牲から戦後免れてきた。日本には幾多の犠牲を払って獲得した平和憲法があり、そのために他の国と異なり、二度と戦争で殺したり殺されたりすることがない、そのことは、紛争に引き裂かれた国々からみれば、本当に幸福なことなのである。

他の国が願っても手に入れられない貴重なもの、それをみすみす手放して戦争をしようというのはあまりにも愚かしいことだ。

戦争放棄を定めた憲法は、いろいろなことがあっても日本を他の国とは異なる特別な特徴のある存在、尊敬される国にしてきた。

武力行使を禁じ手としたために、日本は一貫して平和的な手段での外交・援助努力を重ね、その平和的姿勢が評価されてきたのだ。平和憲法とそれに基づく外交・援助政策の積み重ねは、多くの国が日本を信頼することとなる貴重な「資産」だ。そうした信頼を根底から覆すことになりかねない。 

私たちの先達は、戦争が最大の人権侵害であることを何よりも骨身にしみて知っていた。戦争だけはだめだ、というのは戦争を経験したすべての人が繰り返し話されることである。多大な犠牲を払って先達が私たちに残してくれた貴重な宝。本当にそれを失って、戦争をする国にしていいのか。

主権者は抗議する。

このまま閣議決定をすることは到底認めがたい。しかし、不当なことに、これまで見てきたとおり、私たちは主権者であるというのに、この閣議決定と言う暴走を止める歯止めの力を持ち得ていない。

集団的自衛権については多くの専門家・憲法学者・識者が既に様々な角度から懸念を表明して反対し、新聞各紙も的を得た記事で、政府の議論を理路整然と論破した。与党間の議論が支離滅裂で根拠を欠くことも明らかになってきた。

ところが、政府はそうした声は雑音とばかり、全く聞く耳を持たずに今日まで来た。

そのこと自体に驚いてしまった。まともな議論が通用しないのだ。その結果、こんな無茶苦茶が粛々と白昼堂々まかり通っている。

それでも、そのような閣議決定は認めない、そもそも憲法違反のプロセスは有効ではない、と異議申立を続けることが必要だと思う。

いまは歴史的にとても重大な岐路。このまま物言わぬ羊のように、戦争にずるずる参加させられ、若い人たちが殺されたり、他国の罪なき人を殺す事態にならないように、主権者としてできることは主張し続けることだ。主権者には責任が伴う。

国民は軽視してもよい、無力な存在ではないということを政府は認識すべきだ。

今日も官邸には多くの人が詰めかけるだろう。

弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長

1994年に弁護士登録。女性、子どもの権利、えん罪事件など、人権問題に関わって活動。米国留学後の2006年、国境を越えて世界の人権問題に取り組む日本発の国際人権NGO・ヒューマンライツ・ナウを立ち上げ、事務局長として国内外で現在進行形の人権侵害の解決を求めて活動中。同時に、弁護士として、女性をはじめ、権利の実現を求める市民の法的問題の解決のために日々活動している。ミモザの森法律事務所(東京)代表。

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