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【卓球】絶対女王を破った『ゴリラ』 40年の時を経てインドで蘇ったアンチラバー

伊藤条太卓球コラムニスト
インドのアヒカ・ムケルジ(写真:ロイター/アフロ)

まさかYahoo!ニュースでアンチのことを書く日が来るとは思わなかった。アンチといっても反対者のことではない。卓球のラバーである。

韓国・釜山で開催中の世界選手権、女子団体の予選リーグで、インドのアヒカ・ムケルジが世界ランキング1位の絶対女王、孫頴莎(中国)を破った。その彼女が使っているのが「アンチトップスピンラバー」、通称「アンチ」である。

「アンチ」とは、多くのトップ選手が使う回転がよくかかる「裏ソフト」と外見はまったく同じだが、極端に摩擦が低く設計されており、打球時にボールが滑る。そのため相手の回転が残り、打ち方とほとんど無関係の回転のボールが出る。卓球選手は相手の打ち方を見てボールの回転を判断することが条件反射のようになっているので、その規則から外れるボールに対応するのは容易なことではない。

「アンチ」は1960年代にオーストラリアで開発され、1980年代前半に中国選手が使って大活躍して世界中で大流行した。当時はラケットの両面が同じ色でよかったため、片面に黒の「裏ソフト」、もう一方の面に黒の「アンチ」を貼ってラリー中に反転させてどちらのラバーで打ったかわからないようにした。赤ではなく黒に揃えるのは、その方が色味の違いで見分けがつきにくいからで、こうしたスタイルを俗に「クロクロのアンチ」などと呼んだ。「アンチ」と「裏ソフト」とは微妙に打球音が違うが、そのわずかな手がかりさえも打球の瞬間に足で床を打ち鳴らして掻き消した(この動作が現在もサービスに残っている)。

もはやスポーツかどうかも怪しくなる地獄のような卓球である。ときは卓球が世間からネクラとバカにされた80年代。卓球人は「暗くない」と必死に抗弁したが、実態は暗いどころの話ではないとんでもない状態なのであった。

アンチのあまりの威力でまったくラリーが続かないことから、国際卓球連盟はラケットの両面を異なる色にするルールを制定した。それが今からちょうど40年前、1984年のことである。この「見ればわかる」ルール改正を境にアンチの使用者は激減し、トップ選手では皆無となった。

現在でも、愛好者レベルではときおり使用者が見られ、相手がアンチと知った者は必ずといってよいほど、声色を変えて「おお」と言ったり、含み笑いをしながら「アンチかぁー」などと反応する。そういう知る人ぞ知るマニアックかつやっかいなラバー、それが「アンチ」なのである。

ムケルジが使っているのは、「アンチ」の中でも極端に摩擦の低いことで名高い『ゴリラ』という製品である。ちなみにこれを作っている「ドクトル・ノイバウア」というメーカーは、「アンチ」や「粒高」といった変則ラバーばかりを出しており、普通の「裏ソフト」がラインアップにすらないという会社まるごとやっかいなメーカーである。

外部リンク「ドクトル・ノイバウア」のサイト

『ゴリラ』は、ボールが滑りすぎるため、相手もやりにくいが自分も使いづらい自爆テロのようなラバーだが、ムケルジは長年これを愛用し、持ち前のセンスと練習によって自分のものにした。

ムケルジに苦しめられた絶対女王、孫頴莎(中国)
ムケルジに苦しめられた絶対女王、孫頴莎(中国)写真:ロイター/アフロ

孫頴莎も「アンチ」を使われたからと言ってすぐにミスをするわけではないが、回転量が読みづらいので全力強打できず、甘いつなぎ球が多くなる。ムケルジはそれをフォア面に貼ったスピード系ラバー「表ソフト」で狙い打った。ラケットを2本持ってとっかえひっかえしながら試合をしているようなものである。孫頴莎にとっては悪夢のような試合だっただろう。

本当に卓球は恐ろしい。そして面白い。

ムケルジの活躍が、対策されるまでの一時的なものなのか本物なのかは予測がつかないが、準決勝で戦う可能性がある日本にとって恐ろしい相手であることは間違いない。なにしろ『ゴリラ』を使うトップ選手など他にどこにもいはしないのだから。

卓球コラムニスト

1964年岩手県奥州市生まれ。中学1年から卓球を始め、高校時代に県ベスト8という微妙な戦績を残す。大学時代に卓球ネクラブームの逆風の中「これでもか」というほど卓球に打ち込む。東北大学工学部修士課程修了後、ソニー株式会社にて商品設計に従事するも、徐々に卓球への情熱が余り始め、なぜか卓球本の収集を始める。それがきっかけで2004年より専門誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。2018年からフリーとなり、地域の小中学生の卓球指導をしながら執筆活動に勤しむ。著書『ようこそ卓球地獄へ』『卓球語辞典』他。「ロックカフェ新宿ロフト」でのトークライブ配信中。チケットは下記「関連サイト」より。

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