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「わざとミスするマナー」が卓球界から消えた夜

伊藤条太卓球コラムニスト
平野美宇(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

韓国・釜山で行われている世界選手権の女子団体グループリーグで日本は南アフリカに3-0で勝ったが、ある試合がメディアで話題となっている。第1試合の木原美悠と第2試合の平野美宇が、ともに第1ゲームを11-0で完封したのだ。

強いから話題になっているのではない。「わざとミスをして相手に1点を与えなかった」からだ。そんなことをしないのは当然に思えるが、実は卓球では完封は相手に失礼だとして、10-0になるとリードしている方がわざとサービスまたはレシーブをミスして相手に1点を与えるマナーが存在した。完封が失礼なら、せめて全力でやっているふりをすればよさそうなものだが、誰が見てもわかるように甚だしいミスをするのだ。これで相手の尊厳が保たれると思う方がどうかしているが、実際にはこのマナーは形骸化しており、「とにかくそういうことになっているから」と機械的にやられていたにすぎない。

起源ははっきりはしないが、2000年代に中国リーグから始まったと言われている。ちょうどこの時期に、21点制から11点制になり、完封が起こる機会が増えてきたことも関係しているだろう。

卓球界では文化は強い国から広まるので、世界一の強国である中国が行うマナーはいつしか国際大会に定着してしまった(日本国内ではそうでもなかった)。

世界の卓球界に広がる謎のマナー。「0点で勝ってはいけない」は本当?

流れが変わったのは、2019年1月だった。あることがきっかけで、中国のスポーツメディア「新浪体育」でこのマナーの是非を問う大論争が起こったのだ。そこでのユーザーの多くが卓球愛好者以外だったためか「このマナーは一種の偽善であり、相手への侮辱に他ならない」「表面上は相手を気遣っているつもりでも、実際は辱めているだけ」といった至極当然の主張が大半を占めた。

その3ヶ月後の世界卓球選手権大会ブダペスト大会で、歴史を変える事件が起こった。女子シングルスの準決勝と決勝で、中国の劉詩雯がチームメイトの丁寧、陳夢に対して、2試合連続で11-0をやって見せたのである。いずれもゲームカウント2-2という、最終ゲームを除くゲームカウントがイーブンの試合後半、つまり観客がもっとも注目する第5ゲームでだ。

表彰台の左右の選手を完封して優勝した劉詩雯
表彰台の左右の選手を完封して優勝した劉詩雯写真:アフロスポーツ

劉詩雯は試合後のインタビューで11-0で勝ったことを聞かれ「これが相手とゲームを尊重することです」と「新浪体育」で見られた主張そのものを語った。そしてそれが劉国梁・中国卓球協会会長からの指示だったことも明かした。つまり劉詩雯の完封劇は、世論に押された中国卓球協会がこのマナーの撲滅に動いた結果なのだ。

世界中の卓球人が注目する中で行われたこの2試合連続の完封劇と、それに続く劉詩雯のコメントは、一夜にして卓球界からこのマナーを消し去った。劉詩雯のコメントはあまりにも当然のことだったし、発祥元である中国選手が止めるのなら、他国の選手が続ける理由などどこにもなかった。誰もが内心では腑に落ちないマナーだと思っていたからだ。

伊藤美誠の完封勝利が明らかにした「暗黙のルール」の終焉

今から5年前の2019年4月26日、劉詩雯が丁寧を完封した夜に卓球界の謎マナーはたしかに消えた。だが結局、卓球界は世論に押されるまで、自らこれを変えることはできなかったのである。

卓球コラムニスト

1964年岩手県奥州市生まれ。中学1年から卓球を始め、高校時代に県ベスト8という微妙な戦績を残す。大学時代に卓球ネクラブームの逆風の中「これでもか」というほど卓球に打ち込む。東北大学工学部修士課程修了後、ソニー株式会社にて商品設計に従事するも、徐々に卓球への情熱が余り始め、なぜか卓球本の収集を始める。それがきっかけで2004年より専門誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。2018年からフリーとなり、地域の小中学生の卓球指導をしながら執筆活動に勤しむ。著書『ようこそ卓球地獄へ』『卓球語辞典』他。「ロックカフェ新宿ロフト」でのトークライブ配信中。チケットは下記「関連サイト」より。

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