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弱小卓球部の奇跡の物語「俺たちは捨ててきたものが奴らとは違うんだ!負けるはずがない!」

伊藤条太卓球コラムニスト
大友秀昭さん(右下)と仙波智行さん(左上) 松岡中卒業アルバムより大友さん提供

昨秋の茨城県中学校新人体育大会で、高萩市立松岡中学校卓球部が、春の中学総合体育大会(以下、中総体)予選に続いてみごと準優勝に輝いた。地元の卓球クラブ「高萩ジュニア」での練習の成果だ。

同クラブを主催する穂積義高氏は、流通業を営むかたわら、2008年にクラブを立ち上げ、4人のスタッフとともに公共施設で週2回の指導を行っている。4人の生徒から始めたクラブは、今では52人もの生徒を抱える大所帯となっている。「楽しく」をモットーに、松岡中に限らず地域の小中学生を分け隔てなく受け入れているため、2014年にはクラブ員およびクラブで基礎を身につけた選手たちを主力とした秋山中男子、高萩中女子が関東大会を勝ち抜いて全国中学校大会に出場した。

昨年の中総体と新人戦で、茨城県で準優勝した松岡中卓球部員の面々 写真提供 穂積義高氏
昨年の中総体と新人戦で、茨城県で準優勝した松岡中卓球部員の面々 写真提供 穂積義高氏

指導をする穂積義高氏 写真は本人提供
指導をする穂積義高氏 写真は本人提供

このように、現在の高萩市には小中学生が卓球の指導を受けることができる環境ができているが、かつてはそうではなかった。指導を受けたくても受けられない時代があったのである。

これはそんな時代、今からおよそ20年前の2002年の夏から10ヶ月間の小さな物語である。

大友秀昭くんは、小児喘息のため小学校のころから運動が大の苦手で、スポーツテストをすれば級外で記録がつかないという少年だった。松岡中に入るとすぐに卓球部の門を叩いたが、それは自宅に祖母が若いころに卓球大会でもらったというトロフィーが飾ってあったため「卓球なら才能があるかも」という怪しい根拠にかすかな期待を抱いたためだった。

卓球部には卓球経験のある指導者はおらず、特別に運動能力の高い部員もいなかったため、松岡中はレベルの低い5校からなる多賀地区の中でも断トツの最下位だった。練習試合を含めても、団体戦で勝ったことがないのはもちろん、個人戦でも勝った者はほとんどおらず、全敗に次ぐ全敗という部だった。

そのためもあってか大友くんは、運よく秋には1年生で唯一のレギュラーとなった。ガリ勉タイプで『文武両道』など夢のまた夢だと思っていた大友くんにとってそれは、人生が変わる出来事だった。しかし、他校にほとんど勝てない状況は変わらなかった。

大友くんが2年生になったある夏の日、キャプテンの仙波智行という男が「話がある」と言って部員を集めた。仙波は、いわゆるスクールカーストへの反感から、あえて”底辺と目される”卓球部に入部したという変り者で、キューバの革命家ゲバラに感化されていて、休み時間に人を集めて演説の練習をするような男だった。

仙波は言った。

「お前たち、このままでいいと思ってるのか? この中で公式戦で勝ったことがあるやつ手を挙げろ」

市民大会で一度だけ勝ったことがあった大友くんは「あれはカウントしていいのかな・・・」と思いながら恐る恐る手を挙げたが、他に挙げる者はいなかった。

「俺たちが勝つための方法はひとつしかない。明日から全員異質ラバーにしろ。裏ソフトで勝てるのは才能があるやつだけだ!」

”異質ラバー”とは、本来はラケットの両面に性質の異なるラバーを貼って相手を攪乱するプレースタイルを指す。一方の面に回転がよくかかる主流の”裏ソフト”を貼り、もう一方の面に、あまり回転がかからない”表ソフト”や、極端に回転のかからない”粒高”(ツブダカ)、”アンチスピン”(以下”アンチ”)などを貼ることが多いのだが、転じて、これらの極端に回転がかからないラバーそのものを”異質ラバー”と呼ぶ誤用が卓球界には定着している。

これらの”いわゆる異質ラバー”は、予想外の回転で相手を攪乱することが武器であるため、ややもすると邪道と見られる向きがある上、慣れられてしまえば勝ちにくくなるという限界もある。1人、2人ならまだしも、仙波は部員全員をその異質ラバーに転向させようというのだ。

動揺する部員たちに仙波は続けた。

「卓球やっててもモテるヤツはいる。しかし、卓球やってるからモテるというヤツはいない!俺たちは卓球をやる以上、そういう幻想は捨てなくてはならない。お前たちにその覚悟はあるのか!」

男子中学生の胸に突き刺さる謎の説得力で部員たちを圧倒した仙波は、こうして全員のラバーを変えさせ、自らはオーソドックスな裏ソフトのまま練習台となってドライブを打ち続けた。

そして迎えた秋の新人戦。団体戦はこれまでどおり全敗だったが、粒高の選手が絶望的なフォームながらも個人戦でギリギリ12位に入って県北大会出場を決めた。そんなことは初めてだった。逆に、唯一見込みがある選手として表ソフトに留まっていた大友くんは1回戦で敗れた。

これは、仙波の方針に疑問を感じていた部員たち(モテるのをあきらめて卓球しろと言われていたのだから当然である)の意識を変えるのに十分だった。大会後、大友くんはアンチへの転向を命じられ、意識が変わった部員たちとともに、それまで以上に熱心に練習に励むようになる。

こうして翌春、最後の中総体予選を迎えた。初戦の相手は新人戦で地区2位のチームだった。2チームだけが出られる県北大会に出るためには、絶対に勝たなければならない相手だ。「松岡中になど負けるわけがない」と、いかにもリラックスした様子の相手を尻目に、仙波は部員たちを前に得意の演説をブチかました。

「勝つための条件はただひとつ、全員が番狂わせを起こすしかない。真っ向勝負なら勝てないが、奴らのオーダーを見てみろ。新人戦のときから何も変わっていない。俺たちは違う。まともな技術を教えられる人間など誰一人いない中、勝つために捨ててきたものが奴らとは違うんだ。奴らからすれば、通過して当たり前の”たかだか地区予選”かもしれない。だが俺たちはその”たかが地区予選”に全てをかけて練習をしてきたはずだ。すなわち、今この体育館で本当に勝ちたいと思っているのは俺たちだけなんだ。覚悟が違う。負けるはずがない!

松岡中の布陣は以下のようなものだった。

1番 シェーク表ソフト/表ソフト

2番 シェーク裏ソフト/アンチ(大友くん)

3番 ダブルス シェーク裏ソフト/粒高、シェーク裏ソフト/粒高

4番 シェーク裏ソフト/粒高

5番 シェーク裏ソフト/粒高

オーソドックスなスタイルの選手はひとりもおらず、唯一のまともなスタイルの仙波は、試合には出ずにベンチから鋭い眼光を放っていた。

仙波の演説に武者震いしながらコートに立った大友くんの相手は、絶対的エースだった。正直言って勝ち目はない。どれだけ食い下がるかだ。初球、アンチプッシュからの4球目ブロックがフォアクロスを抜いた。沸き上がる歓声と怒号とため息に背筋が震えた。スポーツで一度も活躍したことのなかった大友くんが、初めて何かを成し遂げたような気がした瞬間だった。

健闘むなしく大友くんはストレートで敗れ、同時進行だった1番も2-3で敗れ、後がなくなった。もはやこれまでかと思われたが、松岡中はそこから3点を連取して逆転勝ちした。大番狂わせだった。

「松中が勝った?」

「マジか」

そんなギャラリーの声が聞こえてきた。

松岡中は、第2戦もそれまでは雲の上の存在だったチームを相手に接戦となり、ギリギリ2-3で負けた。何か大変なことが起こりつつあるという予感に会場がざわつき始めた。

そして、休憩をはさんで迎えた第3戦。

「これに勝てば・・・県北大会だ」 仙波が言った。

第1戦の相手が第2戦の相手に勝ったため、松岡中が第3戦に勝つと、全勝1位に次ぐ3チームが2位争いの三つ巴となる。いずれも3-2の混戦であるため、各試合での得失ゲーム数の勝負となるが、松岡中が僅差で1位になっていることを仙波は休憩中に他コートの試合を偵察して見出していた。負けても必死になって奪ったいくつかのゲームが勝敗の分かれ目となっていたのだ。

こうして始まった第3戦は、相手が人数不足のため1番が棄権で、3台同時に始まった。もちろんこれまで勝ったことはない相手だったが、すでに上位チームと互角の試合を演じた松岡中は、もはや今までの松岡中とは違っていた。ほどなく3番ダブルスを松岡中が取り、あと1人勝てば夢にまで見た県北大会出場となった。

生まれて初めて経験する押せ押せムードの中、大友くんは5番のコートに立った。焦り始めた相手を見るのも初めてなら、仲間たちが頼もしく見えたのも初めてだった。

夢中でプレーをしていると、1ゲーム目の途中で2番の選手が「やったー!」と叫んでベンチに駆け込んだ。勝ったのだ。4番の選手が左手でボールをひったくってラリーを中断し、大友くんは絶叫しながら渾身の力でボールを天井に吹っ飛ばした。

当日の大友くんの試合の様子 写真は本人提供
当日の大友くんの試合の様子 写真は本人提供

ベンチで体育座りのまま口を開けて固まっている選手の背中を仙波は軽く蹴り飛ばした。

「整列だ!」

決して仲がよいとは言えない部員たちも、このときばかりは抱き合って泣いた。

5チーム中の2位となって県大会ですらない県北大会にやっと出られたというだけのレベルの低い話である。全員を異質ラバーにするというのも、指導者がいるチームならさして珍しいことではない。特筆すべきことは何もなさそうな話だ。

にもかかわらず、この話に我々は感動しないではいられない。それは、少年たちが自分の意志で目的のために知恵を絞り、リスクを恐れずに決心し、実行に移したという、ひた向きさをそこに見るからだ。そんな経験もないまま惰性と妥協にまみれた大人になってしまった我々にとってそれは眩しいほどだ。

そして皮肉なことに、高いレベルで卓球をする少年少女たちにこういう話は期待できない。高度に進化した現代卓球では、先人の英知の集積である最新技術を指導者から効率よく教え込まれなくては決して上には行けないのが現実だからだ。初心者の中学生の考える工夫など、回り道にしかならない。

すなわちこれは、低レベルだからこそ起こり得た奇跡の物語なのであり、だからこそ、どんな高レベルの卓球にも勝る強烈な輝きを放っているのだ。

松岡中卓球部は、翌年も仙波の方針を継続して、今度は県北大会も勝ち抜いて県大会出場を果たした。応援に駆けつけた高校生となっていた大友くんは、県大会を決めた瞬間、震える指で先輩につながるまで電話をかけ続けて100件近い着信履歴を残して呆れられた。

大友くんにとって卓球はなくてはならない存在となり、今では卓球関係の会社に入って卓球界を陰から支えている。「将来なりたい職業はPTA会長」と語っていた仙波も(式典でもっとも長く話すからもっとも偉いに違いないからというのがその理由だという)、高校で廃部寸前の卓球部を復活させるなどしてカリスマ性を発揮し、現在は一般企業で活躍している。

奇跡は、人生という奇跡はまだ続いている。

大友くん(右)は、中学時代に仙波からもらったandro(卓球用具メーカー)のステッカーを今も愛車に貼っている
大友くん(右)は、中学時代に仙波からもらったandro(卓球用具メーカー)のステッカーを今も愛車に貼っている

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卓球コラムニスト

1964年岩手県奥州市生まれ。中学1年から卓球を始め、高校時代に県ベスト8という微妙な戦績を残す。大学時代に卓球ネクラブームの逆風の中「これでもか」というほど卓球に打ち込む。東北大学工学部修士課程修了後、ソニー株式会社にて商品設計に従事するも、徐々に卓球への情熱が余り始め、なぜか卓球本の収集を始める。それがきっかけで2004年より専門誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。2018年からフリーとなり、地域の小中学生の卓球指導をしながら執筆活動に勤しむ。著書『ようこそ卓球地獄へ』『卓球語辞典』他。「ロックカフェ新宿ロフト」でのトークライブ配信中。チケットは下記「関連サイト」より。

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