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水谷&伊藤が掴み取った21%の可能性と卓球王国・中国ペアを襲った重圧

伊藤条太卓球コラムニスト
(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

金メダルを獲る確率は高くはなかった。水谷隼/伊藤美誠が決勝で戦った相手、許キン/劉詩ブン(中国)との最近3試合の対戦成績は、1-3、2-3、2-3といずれも負けている。総取得ゲーム数は5-9となり、ゲームの取得割合は36%となる。仮に各ゲームを取る確率が36%だとすると、7ゲームスマッチにおいて先に4ゲームを取る確率を計算すると21%しかない。つまり水谷/伊藤が勝つ可能性は21%しかなかった。一般的にはこれは見込みがないと言われる数字だろう。

しかし、卓球界では違う。五輪の金メダルがかかった大舞台で日本が中国に勝つ可能性が21%もあるというのは、かつてないことなのだ。勝つ可能性が21%ということは5回に1回は勝つということだ。その1回がたまたま今日だったらどうするのか。国家を背負い、勝つことを義務付けられている中国ペアの重圧と恐怖は想像もつかない。それでも勝ち続けてきたのが中国なのだ。一方の水谷/伊藤は、準々決勝のドイツ戦で最終ゲーム6-10の絶体絶命から大逆転で勝ち上がってきた。すでに五輪卓球史上初の個人種目の銀メダル以上を決めている。決勝の相手はこれまで5戦全敗のペアなのだから、力さえ出しきれば負けても恥じるものも悔いるものもない。失うものは何一つない。日本ペアと中国ペアのおかれた状況はあまりにも対照的だった。

こうした状況を考えたとき、21%という勝機は日本ペアにとっては十分すぎるものであり、現実には五分五分だったと言える。実際に試合はほとんど互角となり、フルゲームの11-6で水谷/伊藤は勝った。

1、2ゲーム目は伊藤のミスが多く中国ペアに取られたが、実はこのゲームから日本勝利の要素はあった。相手のドライブに対する伊藤のミスのほとんどがネットにかかるミスだったのだ。これは中国ペアのドライブの回転量が伊藤の予想を下回っていたことを意味する。男子選手の中でも桁外れな回転量を持つと言われる許キンのドライブまでをも伊藤は不思議なほど度々ネットにかけた。伊藤にとってもはや許キンのドライブは対応の範囲内にあったということだ。中国ペアがプレッシャーで回転量が落ちていたのか、伊藤の対策が万全だったのか理由はわからないが、3ゲーム目以降、実際に対応した。

卓球人生のすべてが詰まった一打を放つ水谷
卓球人生のすべてが詰まった一打を放つ水谷写真:西村尚己/アフロスポーツ

それを可能にしたのは3ゲーム目以降の水谷の捨て身の攻撃だった。通常のプレー位置である中陣を捨て、ときには伊藤を押しのけるほど卓球台に近づき、ときには打球後に右手を床につくほど倒れ込みながら攻撃をした。そのプレーには、5歳でラケットを握ってからのこれまでのすべての試合、すべてのラリー、すべての打球の経験が詰まっていたはずだ。水谷にしか見えないコースと回転、そして相手の隙。まさに円熟の境地というしかないプレーだった。

水谷のプレーで試合を有利に運べるようになったことでプレッシャーから解放された伊藤は、理不尽なまでの攻撃と変化自在なプレーをことごとく成功させ始める。まさに奇跡だった。しかしそれは彼ら自身が導いた奇跡だ。

最終ゲームは8-0とリードしたが、許キンと劉詩ブンを相手にそこで油断するほどこの二人は愚かではない。案の定9-5まで詰められたが、最後は伊藤のサービスエースで日本卓球界の歴史を変えた。

この金メダルは、他の種目の日本と中国の選手たちに果てしない影響を与えずにはおかないだろう。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

卓球コラムニスト

1964年岩手県奥州市生まれ。中学1年から卓球を始め、高校時代に県ベスト8という微妙な戦績を残す。大学時代に卓球ネクラブームの逆風の中「これでもか」というほど卓球に打ち込む。東北大学工学部修士課程修了後、ソニー株式会社にて商品設計に従事するも、徐々に卓球への情熱が余り始め、なぜか卓球本の収集を始める。それがきっかけで2004年より専門誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。2018年からフリーとなり、地域の小中学生の卓球指導をしながら執筆活動に勤しむ。著書『ようこそ卓球地獄へ』『卓球語辞典』他。「ロックカフェ新宿ロフト」でのトークライブ配信中。チケットは下記「関連サイト」より。

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