第3の卓球ラケット「ハンドソウ」のレジェンドは、45年間究極のラケットを作り続けていた

「ハンドソウ」のレジェンド 川又宏司氏(撮影:筆者)

 いよいよ東京五輪の年が明けた。日本選手の活躍が期待できる卓球は、ますます注目されることだろう。

 ところで、現在、卓球のラケットといえば、握手をするように握る「シェークハンド」と、ペンを握るように持つ「ペンホルダー」の2種類があるが、かつて日本にこのどちらでもないラケットが存在した。

第3のラケット「ハンドソウ」

 ラケットのルールは、材質が木材という規定はあるが、大きさや形状についての規定はない。そのため、ペンホルダーでもシェークハンドでもない「第3のラケット」がこれまでにいくつも考案されてきたが、いずれも定着することなく消えていった。その中で唯一、全国大会の上位者が出るなど、ある程度の成功を収めたラケットが存在した。それが「ハンドソウ」だ。

「ハンドソウ」ラケット
「ハンドソウ」ラケット

 ハンドソウとは、グリップの一部に空いた穴に中指を入れて、その名の通り「手のこぎり(hand-saw)」のように持つラケットで、俗に「ピストルグリップ」とも呼ばれる。数年前まで細々とメーカーから発売されていたが、今では廃版となり、特注品以外では手に入らなくなっている。もともと使用者は少なく、卓球をしている人でも見たことがある人は希だ。まして普通に暮らしている善良な一般市民が目にする機会はない。

 それだけ希少なラケットであるにもかかわらずと言おうか、だからこそと言おうか、いつ誰が発明したのかは謎に包まれていた。卓球史にも出てこないし、メーカーに聞いてもわからないという。

 そんな状況が長い間続いていたある日、ハンドソウの熱心な愛好者から、ある論文の情報がもたらされた。それは日本体育学会のウェブサイトに掲載されていた「卓球競技における新型ラケットの考察について」という1973年の論文だった。ハンドソウという言葉こそ出ていないものの、紛うことなきハンドソウ発明の論文だった。

 著者は「川又宏司(新潟大学)」とある。まさにハンドソウのレジェンドだ。写真から察するに、ご存命なら80歳前後だ。

ご健在だったレジェンド

 新潟大学の卓球関係者に聞いてみると、新潟市内でご健在であることがわかった。卓球史を研究している身としては会わないわけにはいかない。どういう経緯でこのラケットを作ったのか、なぜその発明者の名前は埋もれてしまったのか、そもそも川又宏司とはどういう人物なのか。興味は尽きない。さっそくご本人に電話で連絡を取り、ご自宅でお話を伺えることになった。

 戸建ての玄関先で奥さんとともに出迎えてくれた川又さんは、少し小柄で、意外にも見るからに常識的で温厚そうな紳士であった。一般的に考えて、新しいラケットを発明して発売するなど普通の人間がすることではない。会話が成立しないほど自己主張が強かったり、何で怒り出すかわからないといった癖のある人物を想像していた私は安堵した。

卓球との出会い

 川又さんは昭和9年新潟生まれの御年83歳(取材時)であった。初めて卓球と出会ったのは、昭和20年の8月15日の午後のことだった。日付まで覚えているのは、日本が大東亜戦争で負けた日だったからだ。父の仕事の関係で山形県天童市に住んでいた小学5年生だった川又さんは、その日の正午、家族とともに自宅のラジオの前で天皇陛下の玉音放送を聴いた。放送の意味はよくわかった。日本は戦争に負けたのだ。父は泣いていた。

 午後になって学校に召集されたので行ってみると、信じられない光景が広がっていた。体育館に卓球台が何台も並べられ、見たこともない大勢の若者たちが何とも楽し気に卓球に興じていたのだ。青い空の素晴らしく良い天気の日だった。川又さんはそれまで卓球を見たことはおろか、卓球という言葉さえ知らなかった。遊びといえば戦争ごっこ、運動といえば男子は銃剣、女子は長刀ぐらいしかなく、毎朝5時に起きては少年団ごとに天童市内の舞鶴山の神社に武運長久のお参りに駆け足で行かされるという生活だった。

「人間て面白いですね。戦争に負けたらアメリカ人に皆殺しにされると言い合っていたのに、いざ終戦になるとそんなこと忘れてみんなで卓球ですよ。牢屋から出されたようなものでした」

 初めて卓球をした川又さんは、さっそくその日のうちに町の小さな雑貨屋に行き、奇跡的にペンホルダーのラケットを手にした。ラバーの貼っていない、その木ベラのラケットが生涯つきあうことになる卓球のラケットとの出会いだった。

自らが開発した「ハンドソウ」を手にする川又宏司氏
自らが開発した「ハンドソウ」を手にする川又宏司氏

 その後、父の転勤にともない同県小国町の小国中学校で卓球部を作り、練習に熱中した。壊れたゴム長靴のゴムをラケットに貼り、回転をかけるといった、その後の卓球技術史を先取りする工夫もしていた。新潟県新津高等学校時代には卓球から遠ざかり、野球部を作って野球に明け暮れた。

 新潟大学教育学部に入学すると、卓球への情熱が再燃し卓球部を作った。戦後まもなくという時代もあって、川又さんは行く先々で組織を作っている。大学を卒業し、中学、高校の教諭などを経て昭和41年頃から新潟大学で体育教育に携わることになる。

 この時期、大学の教育制度が大きく変わり、大学での体育教育が必修科目として制定され、結果として川又さんは日本の大学の体育授業の草分け的存在となった。

ハンガリーに対抗するために生まれた「ハンドソウ」

 こうした大学の体育教育の場に携わりながら、川又さんにはあることが気がかりになっていた。かつての勢いを失いつつある日本の卓球のことだ。時は1970年代。世界の卓球界にはヨーロッパ、特にハンガリーの強烈なドライブが台頭しつつあった。中でも川又さんの心を捉えたのは、ハンガリー選手の強烈な横回転のかかったドライブだった。

「あのボールは、腕力に劣る日本人には無理です。どうにかして腕力のない日本人が簡単に強烈な横回転ドライブを打つことができないか、そう考えて生まれたのがハンドソウだったんです」

 そうして試作を重ね、書いたのが前述の論文だった。

 ハンドソウは最初、今はなき「ピンメイト」というメーカーから発売されたが、驚くべきことに、川又さんはそこから発売されることになった経緯がよくわからないという。ピンメイトの人に食事をご馳走になった覚えはあるが、何の契約もせず、ハンドソウに関して「一銭ももらっていない」と言う。

「今回あらためて調べたらピンメイトからの請求書が出てきましたよ。私は自分が発明したハンドソウをお金を出して買っていたんですね。驚きましたよ」

 公務員であったため、副業で利益を得るとなると手続きが面倒だったことと、何より自分が生み出したハンドソウが商品として世の中に出るだけで嬉しく、それ自体が報酬のようなものだったと川又さんは語る。

「要するに私は商人ではなかったということです。私が商人ならもっと上手くやる方法があったんだと思いますよ。かなりの数が出たと聞いてますから」

目を疑うラケット工場

 聞きたいことはほとんど聞き終わり、お暇をしようと思った矢先のことだった。

 「私は未だにラケット作りをやってるんです。私のラケット工場、見て行ってください」

 案内されるままに階段を上がり、二階の部屋に通されると、そこには目を疑う光景が広がっていた。居間のテーブルに残したままのICレコーダーが、私が二階で発する「うわーっ、うわーっ、凄えーっ、凄えーっ」という叫び声を拾っていた。

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 部屋中に散乱した無数の木材と作りかけのラケット、ラバー、工具、卓球マシン、そして防球ネット。壁に掛けられた、ラケットの型と、そこに記された日付、工法、使用感のメモ。緻密なのか雑なのかわからない、ただただ常軌を逸しているとしか言いようのない「ラケット工場」だった。

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 川又さんは今もここで理想のラケットを追い求めて工作を続けていたのだ。

 特に川又さんが力を入れているのが、打球面から二本の柄が突き出たラケットだ。それは、特殊な環境で無残な形に進化してしまった生物を思わせた。電話で取材のお願いをしたとき、川又さんがハンドソウの話もそこそこに「二脚式ラケット」という言葉を発していた記憶が蘇った。インタビューでハンドソウについて語るとき、どこか熱が入っていない様子に奥ゆかしさを感じていたのだがそうではなく、川又さんにとってハンドソウは過去のものだったのだ。

「理想」の二脚式ラケット
「理想」の二脚式ラケット

 二脚式ラケットは、ペンホルダーとシェークハンドの握りを瞬時に切り替えることができ、両方の長所だけを使ってプレーすることができる究極のラケットだそうだ。その有用性についてはノーコメントだが、圧倒的な情熱が詰まっていることだけは疑いようもない。

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 おびただしい木片に囲まれて座る川又さんの姿は、先ほどまでの常識的な元大学教授ではなく、マッド・サイエンティストそのものだった。ハンドソウを発明するような人が普通であるはずはなかった。

 取材の途中、川又さんは当たり前のように言った。

「卓球はスポーツの中で1番でしょう」

「レクリエーションとしてですか?」私は反射的に聞き返した。

「いや、競技としても。すべての面で1番でしょう。だからもっと評価されるべきだと思いますね」

 45年間年もこの部屋で理想のラケット作りを続けてきたこの男が、卓球の持つ力を疑うわけもなかった。愚問を発したことを私は恥じた。

 

 生けるハンドソウのレジェンドは、今も週に3日は仲間たちと卓球を楽しんでいる。その手にはハンドソウではなく、日々改良を続ける二脚式ラケットが握られている。理想のラケット作りはまだ道半ばだ。

(写真撮影:筆者)