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日本人夫婦の手づくり焼酎「波花」は、なぜハワイで成功したのか

一志治夫ノンフィクション作家
ハワイオアフ島ノースショアで焼酎「波花」をつくる平田夫妻

芳醇な味わいの極上焼酎の誕生

ハワイのオワフ島で日本人夫婦がたった2人で焼酎をつくっているーー。

初めてそう聞いたとき、よく事情を飲み込めなかった。ハワイと焼酎が結びつかなかったし、なぜ、わざわざ異国の地で焼酎をつくるのか、というのもよくわからなかった。

しかし、事実、平田憲、由味子夫妻は、2012年、彼の地で地元の芋を使って焼酎をつくり始め、すぐに軌道にのせてしまったのである。

いまや年間に約6000本(これはとてつもなく少ないロットなのだが)の焼酎「波花(NAMIHANA)」を生産し、ノースショア・ハレイワにある焼酎蔵には内外から多くの見学者が訪れるまでになっているのだ。

なによりも、「波花」が評判になったのは、その味だった。芳醇でありながらすっきりとした喉ごし、爽やかな香りをたたえたまさにノースショアならではの焼酎に仕上がったのだ。口当たりがよく、つい飲み過ぎてしまうぐらい旨い。

ゼロからの出発、毎日が戦いだった

平田憲が「ハワイで焼酎をつくってみよう」と思ったのは、セミリタイアしハワイで暮らしている両親を訪ねたときに浮かんだささいな「気づき」からだった。

「ポイと呼ばれるハワイの主食であるタロイモの発酵食を食べたんですが、そのときに、ふとポイ焼酎とかできないか、と思ったんです。こんな根菜類があるんやったら、ハワイでも焼酎ができるんやないか、と。もともと焼酎は好きやったし、つくってみようか、と思ったんです」

平田憲は、大阪の高校を卒業後、アメリカ・オレゴン州ポートランドの大学で経営学を学び、香港にある金融関係の企業に就職。その後、オーストラリア・パースに渡り、商品開発の仕事に携わっていた。妻の由味子とは、大阪時代に知り合った。調理師の資格を持つ由味子は、パースのレストランに勤務していた。

その2人がパースでの仕事を捨てて焼酎づくりに挑むことを決心したのだ。

「アイディアだけで、本当に軽い気分でやってみようか、という感じでした。もちろん、焼酎づくりがどんなものかもまったく知らずに」

平田は、鹿児島県霧島市にある「万膳酒造」で、2005年から3年間にわたって修行に入る。1年のうち半年は蔵に入り、季節外の半年はハワイに来て下準備を進めた。「軽い気分」ではあったが、貯金を切り崩しながらの起業で、時間には限りがあった。2人は、ハワイの島々を訪ね、蔵を建てる土地を探した。しかし、ハワイの土地は高く、また買えるような資金力もなく行き詰まってしまう。そんなとき、友人からカメハメハ財団を紹介され、プレゼンテーションした結果、現在のハレイワの土地を借りることができたのだ。

「すべてが見切り発車でした。1日、1日と自分たちの資金がなくなっていくので、時間が経てば経つほどやせ細っていく。毎日が戦いでした。早く始めないと倒産してしまうという状態だったんです。成功の確信なんてもうまったくなかったですね。ただ、ビジネスプランはしっかり立ててやらないと、お金が借りられないので、利益率とかは書いてましたが、実際にそうなるかはわからなかった。そもそも焼酎がちゃんとできるかどうかがまるでわからなかったわけですから」

一方で原料調達も早急に行わなければならなかった。

「地元農家のコネクションとかもあまりなかったので、とりあえず、卸屋さんに行って、『ハワイのお芋を集めてください』とお願いした。そんな買い方だったので、すごく高かったですね。ハワイでは40種類ぐらいのお芋が栽培されているんですが、そのとき卸屋さんが集めてくださったのが紫芋、オキナワン・スイートポテトでした」

ハレイワの焼酎蔵。伝統手づくり製法による米麹。木樽蒸留器で蒸留する。
ハレイワの焼酎蔵。伝統手づくり製法による米麹。木樽蒸留器で蒸留する。

夜逃げも覚悟した

施設を整備し、原料をそろえ、ラベルデザインを考え、ボトルを用意し、とやるべきことは山ほどあった。敷地内にトレーラーハウスを置き、2人で寝泊まりしながら、自ら工事を行った。修行に出てからすでに8年もの歳月が流れていた。資金はもはやぎりぎりで、最初の仕込みに失敗すれば万事休す、というところまで2人は追い込まれていた。

「1回目がダメだったら、自分たちで飲むしかないなと言ってました。でも、1回目が失敗したら、終わりだということもわかっていたので、夜逃げしないといけないということも2人で話していました。彼女が日本のどこかの漁港で働いてというぐらいまで逃げるイメージは具体的でしたね。逆に、成功のイメージは全然できていなかった」

平田は、最初の仕込みからタンクをフルにして、現在と同じ3000本分つくっていた。売価はおよそ1200万円。失敗は許されなかった。

2013年秋、最初の「波花」が完成する。平田は一口ふくみ、ほっと胸をなでおろしていた。

「まず、助かったな、と思いました。そして、これはそこまでレベルの低いものじゃないぞ、とハワイに大感謝しました。機械をほとんど入れず、手づくりで、自然の中でつくっているから、ハワイの目に見えぬ力につくってもらったという思いが強かったんです。海から入ってくる潮風もたぶん発酵しているときに入ってきて、いいほうに作用しているのかな、と。僕たちみたいなつくり方では、そういう目に見えない要素というのがとても大切だなと改めて感じたんです」

100年以上前に日本でつくられた瓶壺でもろみを熟成
100年以上前に日本でつくられた瓶壺でもろみを熟成

目指すのは、「クオリティ・オブ・ライフ」

現在、年間6000本の「波花」に加え、2015年からは「BANZAI STRENGTH」という酒を400~500本つくっている。47度と度数が高く、日本の規定では焼酎を名乗れない(45度以下に限定)が、375ミリリットルで41ドルと高価であるにもかかわらず、これも発売と同時に売り切れてしまう。

2016年秋の出荷分からは、焼酎蔵敷地内で収穫されたサツマイモを使い出し、「The Backyard」と命名された(ちなみに2015年は3島の芋のブレンドだったので、「Three Islands」と名づけられた)。また、同年には、「RETAIL MERCHANT IN HAWAII」が主催する「2016 Ho'okela New Retail Business of the Year」を受賞。いまや、どんな味をクリエイトしていくか、という領域に平田は達しているのだ。

しかし、平田は謙虚にこう言う。

「ハワイブランドがつけば、多少のプレミアム価格でもみなさん購入してくださるんです。ハワイブランドというのがあるので、僕たちは助けられている。それがなくて、日本の焼酎メーカーと価格競争しろと言われたら、絶対に無理です」

平田の元には日本から焼酎や日本酒メーカーの経営者、飲食関係者などがあまた訪ねてくる。彼らが一様に驚くのは、その生産量の少なさだ。

「何石つくっているんですか、と訊かれて、25石ですと言うと、桁が間違っているんじゃないかと思われる。趣味でやっているんですかと言う人もいます。でも、これが僕たち2人でやれるぎりぎりの石数なんです。事業をされている方からは、いろいろな提案をいただきます。でも、これ以上働いたら、夫婦仲に亀裂が入ってしまうかもしれないし(笑)、クォリティを下げて何かをするということは考えていません。こちらの人がよく『クオリティ・オブ・ライフ』というんですが、僕らもそれが大事だと思っています」

2013年秋に始まった「波花」シリーズはすでに、「No8」までが発売されている。2017年秋に発表される「No9」は、いったいどんな味に仕上がるのだろうか。ハワイ発の焼酎「波花」の進化は止まらない。

「波花」No7。750ミリリットルで39ドル。日本の百貨店では1万円で売られていたことも
「波花」No7。750ミリリットルで39ドル。日本の百貨店では1万円で売られていたことも
ノンフィクション作家

1994年『狂気の左サイドバック』で第1回小学館ノンフィクション大賞受賞。環境保全と地域活性、食文化に関する取材ルポを中心に執筆。植物学者の半生を描いた『魂の森を行け』、京都の豆腐屋「森嘉」の聞き書き『豆腐道』、山形・庄内地方のレストランを核に動いていく地域社会を書いた『庄内パラディーゾ』、鮨をテーマにした『失われゆく鮨をもとめて』、『旅する江戸前鮨』など環境・食関連の書籍多数。最新刊は『美酒復権 秋田の若手蔵元集団「NEXT5」の挑戦 』。他ジャンルの著書として、、1992年より取材を続けているカズのドキュメンタリー『たったひとりのワールドカップ 三浦知良 1700日の戦い』がある。

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