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「におい」で左右される行動を遺伝子から考える

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
photo by Masahiko Ishida

天敵を嗅ぎ分ける「におい遺伝子」はあるか

お気に入りの香水、いいですよね。つけて出掛けると、気分がアゲアゲになります。クラブへ出撃のとき、デートのとき、寝る前、香水やアロマを使い分けたりしてませんか。気持ちが高揚したり、癒されたり、ちょっとセクシーな気分になったりと、香りって本当に不思議です。

私たちの感覚には、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚がありますが、こうした五感の中でも、嗅覚についてはけっこうわからないことだらけなようです。たとえば、お香の香りをいいにおいだと感じたり、逆に腐った食べ物を嗅いで「あ、これは食べちゃダメだな」と思うのは、いったいどうしてなんでしょう。お香にしても香水にしても、その好き嫌いは個人差がありますが、腐った食べ物に対する反応は皆さんだいたい同じです。

これは、あらかじめ遺伝子に入っている情報なんでしょうか。そして、アロマテラピーで気分が左右されるのなら、においに私たちの感性をコントロールする何らかの要素が含まれているわけですが、そうした機能も先天的に備わったものなんでしょうか。

たとえば、サルやシカ、イノシシなどの害獣被害に悩む地域では、田畑や線路に肉食獣の糞尿をまいて追い払うということが行われているようです(*1。そうすると、ライオンやオオカミなど、日本にはいない猛獣の糞尿でも、サルやシカは近づきません。

もちろん彼らは、オオカミはおろかライオンの糞尿など、生まれてから一度も嗅いだことはないはずです。では、サルやシカが肉食獣のにおいを怖がったのはなぜなのか。単に、嫌なにおいだから避けているだけなのか、天敵のにおいに対して遺伝的に反応する仕組みが備わっているのか。さて、どちらなんでしょうか。

カレーに反応する遺伝子

私たちがもののにおいを嗅ぎ分けられるのは、鼻の中に嗅細胞という、におい分子を感じる器官があるからです。ほ乳類などでは鼻の中にありますが、昆虫では触角に嗅細胞があります。

におい分子とは、人間のような陸上生物では空気中に漂い、魚類のような水中の生物では液体中に浮遊するにおいの物質のことです。この物質は、分子と電荷によってそれぞれ違う形になっている。嗅細胞からは、細い毛が何本か生えていて、鼻の穴に入ったにおい分子が、繊毛にある受容体と結合すると電気信号が流れ、それが脳へ伝わって「あ、今日はカレーだな」とか、エレベーターに残った美女(であろう)がつけていた香水を嗅ぎ分けます。

この仕組みは、カギとカギ穴の関係になっていて、におい分子という複雑な化学構造の端っこが、受容体に合うと、そこで信号が発振されるようになっています(*2。また、鼻の穴が二つ、昆虫の触角も二本というように、嗅覚では左右の嗅細胞がセンサーになることで方向もわかります(*3。

におい分子の種類は、この世の中に40万種類以上もあるそうです。意外に少ないように感じますが、においを感じる側、受容体の種類は、魚類で約200種類、実験動物のマウスが約1300種類、人間は347種類(機能性が不明な遺伝子を含めると約1000)と考えられています。

同じほ乳類でも、マウスには数多くの嗅覚受容体、つまり遺伝子があり、これが彼らの持つ鋭い嗅覚の理由。一方、人間の場合、嗅覚に関する遺伝子の多くが分断され、機能が正常に発揮できなくなってしまっているそうです。

いずれにせよ、人間では347種類もの嗅覚の遺伝子が対応しているわけで、これは人間の遺伝子の約1.5パーセントという、かなりの数になる。それでも、40万種類以上あるにおい分子の全てを感じられるわけじゃありません。だから、一つの受容体でいくつかのにおい分子に対応し、逆ににおい分子のほうも数種類から数十種類の受容体に結合し、なんとか少ない受容体でなるべく多くのにおい分子を感じ取ろうとしているようです。

また、単にカレーのにおいといっても、何百種類ものにおい分子が混ざり合っています。その情報がどう分析されて「あ、これはカレーだ」とわかるのでしょうか。

においを感じた信号は、まず脳で扁桃体という情動や記憶に関係する部分に伝わります。情動というのは、生物が恐怖や快不快などを感じる原始的な脳の働きのことで、研究分野によっては喜怒哀楽の感情を含む場合もあります。しかし、情動や記憶ということは、何百種類のにおい分子を嗅ぎ、過去にカレーを食べた記憶と照らし合わせることで「今日はカレーの日だな」と思うのでしょうか。

恐怖のにおいを感じる遺伝子

においに結びついた記憶。なるほど、においが先天的か後天的か、どうもこのあたりにヒントがありそうです。それを調べるために、ある研究者がマウスを使った実験をしてみました(*4。

マウスの鼻の中で嗅細胞のある範囲は、大きく分けて背側(人間では上側)と腹側(人間では下側)に分かれています。夜行性のマウスは視覚よりも主に嗅覚や聴覚に頼って生きている動物ですが、この実験では遺伝子操作によってマウスの背側の嗅細胞だけを働かせなくさせたそうです。

つまり、この実験では、信号を判断する部分からではなく、センサーからアプローチしたわけです。信号を判断する扁桃体や脳については、まだあまりわかっていません。ですから、入力する機能の働きから探っていったらどうか、と考えたんですね。

マウスの鼻の背側には、約40パーセントの嗅細胞があります。腹側にも嗅細胞を残し、それらが働いているので、このマウスは、におい自体を嗅ぐことはできます。

こうして半分近くの嗅細胞がなくなったマウスは、いったいどうなったんでしょう。なんと、怖いもの知らずになってしまったんです。普通は嫌がるにおいの強い酸性の液体にもどんどん入っていってしまうし、なんとトムとジェリーみたいに、天敵である恐ろしいネコを怖がらなくなってしまったのです。

強い酸性のプールに入っていったマウスはひどい火傷をして死んでしまったそうですが、ネコを怖がらなくなったマウスはネコの鳴き声を聞いた途端、怖がってすくんでしまいました。聴覚ではネコが怖い存在ということがわかるんです。

嗅覚に隠されたさらなる機能とは

この実験の結果、マウスには背側の嗅細胞に危険を察知し、恐怖を感じるセンサーがあるのではないか、と考えられることになる。この嗅細胞は、マウスが先天的に備えたものです。つまりマウスには、あるにおいに対して反応する嗅細胞が先天的にあり、そこから入ってきた情報が恐怖や快不快などを感じさせるのではないかというわけです。

嗅細胞を作っているのも遺伝子です。これは、先天的に恐怖を感じさせる遺伝子の一つなのかもしれません。この考え方から、ライオンやオオカミの尿のにおいをサルやシカが怖がるのは、彼らの嗅細胞にそのにおいを恐怖と感じる先天的な機能がある、と想像できます。

こうして、生命の危機に関するようなにおいには、先天的に備わった嗅細胞が反応することがわかりましたが、もちろん、痛い目にあったり怖い思いをしたという経験などで後天的に学習するにおいもあるはずです。そのため、この実験をした研究者は、背側の嗅細胞が先天的、腹側の嗅細胞が後天的なにおいを感知する役割をしているのではないか、と考えています。

ところで、背側の嗅細胞を働かせなくしたマウスは、ケンカしなくなったり、性行動に変化が現れるといった、マウス同士のコミュニケーションがおかしくなることがあります。この部分で感じるにおいには、もっと何か深い意味があるのかもしれません。マウスではなく人間の嗅覚はまだわからないことが多く、研究はこれからのようですが、におい分子の解明が進めばさまざまな香りを人工的に作り出せるようになるでしょう。

(*1:大橋真吾、松原和衛、出口善隆、小藤田久義「ライオン(Panthera leo)排泄物に対するニホンジカ(Cervus nippon)の忌避現象」Aroma research, Aroma research 10(1), 50-53, 2009

(*2:Buck, L. and Axel, R. (1991) Cell 65, 175-187

(*3:Shu Kikuta, Kenichiro Sato, Hideki Kashiwadani, Koichi Tsunoda, Tatsuya Yamasoba, and Kensaku Mori, "Neurons in the Anterior Olfactory Nucleus Pars Externa Detect Right or Left Localization of odor Sources", Proceedings of National Academy of Sciences, 2010 Jul 6;107(27):12363-8. Epub 2010 Jun 28.

(*4:Ko Kobayakawa, Reiko Kobayakawa, Hideyuki Matsumoto, Yuichiro Oka, Takeshi Imai, Masahito Ikawa, Masaru Okabe, Toshio Ikeda, Shigeyoshi Itohara, Takefumi Kikusui, Kensaku Mori & Hitoshi Sakano, "Innate versus learned odour processing in the mouse olfactory bulb", Nature vol.450(7169), pp503-508(2007)

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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