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「有機ゲノム」を否定した農水省の深謀遠慮

猪瀬聖ジャーナリスト/翻訳家
(写真:アフロ)

「有機JAS」マークをご存じだろうか。基本、緑色の輪を3つ横に重ね並べたような図柄で、中に葉っぱの模様と日本農林規格を意味するJASの文字が描かれている。農薬も化学肥料も使わずに作ったコメや野菜などの有機農産物、それらを加工した有機食品だけが付けることを許される、いわば究極の安全の証しだ。

その有機JASマークの使用を、遺伝子組み換え技術の一種であるゲノム編集技術を利用して開発したゲノム編集食品には認めない方針を、農林水産省が決めた。日本農林規格調査会での審議は詰めの段階に入っており、近く日本農林規格を改正し、ゲノム編集食品を有機JASの対象から正式に除外する。

疑心暗鬼を招く

だが、なぜ農水省がゲノム編集食品を有機JASから外す決定をこのタイミングでしたのか、謎の部分が多い。確かに、ゲノム編集食品はその安全性に懸念が持たれ、有機の概念とは相反する。しかし、同省は昨年、厚生労働省や消費者庁など食品行政を担当する他の省庁とともに、ゲノム編集食品に対し事実上の「安全宣言」を出しているからだ。外部からは、農水省の行動は自己矛盾と映る。

ゲノム編集食品に反対する消費者団体なども農水省の真意をはかりかね、日本生活協同組合連合会などは、ゲノム編集食品を有機と認めない理由をきちんと説明するよう、農水省に意見書を出したほどだ。「認めないと言っておきながら、土壇場で、ルールの抜け穴を作り、実質、容認するのではないか」。そんな疑心暗鬼の声まで、一時は聞こえてきた。

農水省の有機JASの担当官は、ゲノム編集食品を有機と認めないとの考え方は、世界多くの国の共通認識で、有機JASからの除外は当然と説明し、ゲノム編集食品の安全性議論と有機認証の議論は「全く別物」と強調する。また、このタイミングでの規格の改正は、偶然とも話す。しかし、米国では昨年、連邦議会に呼ばれた農務省の幹部が、ゲノム編集食品を有機と認めるべきだといった趣旨の発言をしており、農水省の規格改正の議論が疑心暗鬼を呼んだ一因となっている。

なぜ農水省は、厚労省や消費者庁などと一緒に「ゲノム編集食品は安全」とのメッセージを発しておきながら、一方で、安全であることのお墨付きである有機JASマークの使用を認めない決定を下したのか。取材を進めていくと、あるシナリオらしきものがぼんやりとだが見えてきた。

急成長する世界の有機市場

そのシナリオとは、日本の有機農業、有機食品市場を爆発的に成長させ、それをテコに日本農業の衰退に歯止めを掛け、あわよくば再生を狙うというものだ。一見、荒唐無稽に聞こえるが、必ずしもそうでないことは、海外の状況を見れば明らかだ。

実は、欧米諸国では、有機食品市場がもの凄い勢いで拡大している。

米国では有機食品の売り上げが過去10年で2.5倍に増え、市場規模は年間500億ドル(約5兆5000億円)に達した。有機は今や食品全体の6%を占め、果物と野菜に限れば15%が有機だ。アマゾン・ドット・コムが2017年に137億ドル(約1兆5000億円)で買収したホールフーズ・マーケットは、有機食品を売りに急成長し、現在、米国内外に約500店舗を構える巨大スーパーマーケット・チェーンだ。米メディアは有機市場の成長ぶりを報じるたび、「有機はニッチ(隙間)からメインストリーム(主流)になった」というフレーズを好んで使うようになった。

欧州も同様だ。欧州連合(EU)域内の有機食品の販売額は、2017年までの10年間で152億ユーロから343億ユーロ(約4兆1000億円)へと2.3倍に増加。デンマークでは食品全体に占める有機の割合が1割を超え、オーストリアでは全農地面積の4分の1近くが有機農産物用の農地に切り替わっている。

欧米だけではない。英国の調査会社エコヴィア・インテリジェンスによると、中国では、2017年の有機食品の市場規模が76億ユーロ(約9000億円)となり、米国、ドイツ、フランスに次ぐ世界4位の有機大国に躍進。韓国では、子どもたちの学校給食に使う食材を有機農産物に切り替える動きが広がっており、ソウル市では2021年からすべての小・中・高校で「有機給食」の無償提供が始まると伝えられている。

唯一、取り残される日本

そうした中、日本は主要国の中では唯一、世界の流れから取り残され、独自の道を歩む「ガラパゴス」状態になっている。農水省によると、2017年の有機市場規模は推計1850億円。一人当たりの年間消費額は、米国やドイツ、フランスの10分の1にも満たない。元々の市場規模が小さいにもかかわらず、市場の伸びも8年間でわずか42%にとどまっている。

農水省の審議会の委員も務めるある関係者は、「農水省内には、日本は有機が遅れているという認識がある」と話す。農水省自身も、「有機JAS制度における課題」と題した資料をまとめ、その中で「世界の先進国に比べ、日本の有機生産が伸びない理由は何か?」と問題提起したり、国内外の有機農業の現状を詳細に調べて公表したりしており、海外から大きく取り残されている日本の有機市場を何とかしたいと考えていることは間違いないようだ。

有機市場の拡大は、消費者にメリットがあるだけでなく、人口減少や農家の高齢化、輸入農産物の流入などで苦境に陥っている日本農業を再生させる可能性も秘めている。海外の例を見ても、EUでは農家全体の数が徐々に減少する中、有機農家の数は毎年、大幅に増え続けており、農業人口の減少に一定の歯止めを掛けている。米国でも、有機市場の拡大は、都市近郊の小規模農家を支える重要な役割を果たしている。

農水省の調べによると、日本の農家全体に占める有機農家の割合は1%にも満たない。しかし、新規参入者に限れば、有機農家の割合は20%を優に超える。農業従事者の年齢構成も、全体では60歳以上の割合が74%を占めるなど高齢化が目立つのに対し、有機農家に限ればその割合は53%にまで低下。こうしたデータを見る限り、有機農家には若くてやる気のある農家が多く、国の後押しなどでさらに数が増えれば、日本農業再生のけん引役となる可能性も十分だ。

海外で有機食品市場が急成長している背景には、食に対する消費者の安全・安心志向の高まりがある。

遺伝子組み換えや残留農薬を懸念

消費者の懸念が特に強いのが、遺伝子組み換え食品と残留農薬の問題だ。遺伝子組み換え食品は市場に出回り始めてまだ歴史が浅いことから、何年も食べ続けた場合に人体にどんな影響が出てくるのかまだはっきりせず、不安に思う消費者は多い。野菜や果物に付いた残留農薬に関しては、比較的少ない摂取量でも胎児や小さな子どもの発育に影響を及ぼす可能性が、最近の研究で相次いで報告されている。このため、遺伝子組み換え技術や農薬の使用を禁じている有機食品を買い求める消費者が、国を問わず増えているのだ。

日本は、米国などから遺伝子組み換え大豆やトウモロコシが大量に輸入されており、また、農薬の使用量も世界的に見て非常に多いなど、有機食品市場が伸びる素地は十分だ。にもかかわらず、有機食品を買い求める消費者は海外に比べると明らかに少ない。理由の1つは、有機食品や有機JASマークの認知度が低いことにある。

独立行政法人農林水産消費安全技術センターが2015年に実施した消費者調査では、有機JASマークを「知っている」と答えた消費者は27%にとどまり、「知らない」の73%を大きく下回った。また、野菜などの栽培方法の中で「最も優良と思うもの」を5つの選択肢の中から選んでもらったところ、「無農薬農法」が31%で一番多く、「有機農法」は24%にとどまるなど、消費者が有機食品の意味を正しく理解していないことも明らかになった。

吹き始めた追い風

一方で、ここ数年、大手スーパーの野菜売り場に「有機コーナー」が設けられたり、東京など大都市では有機食品専門店が増えたりするなど、わずかながら有機市場への追い風も吹き始めている。

ここで有機JASの存在を消費者にうまくアピールすることができれば、日本の有機食品市場が海外のように急成長するきっかけになるかもしれない。農水省が「有機ゲノム」の可能性をスパッと否定した裏には、そんな深謀遠慮が働いているのかもしれない。

ジャーナリスト/翻訳家

米コロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)修士課程修了。日本経済新聞生活情報部記者、同ロサンゼルス支局長などを経て、独立。食の安全、環境問題、マイノリティー、米国の社会問題、働き方を中心に幅広く取材。著書に『アメリカ人はなぜ肥るのか』(日経プレミアシリーズ、韓国語版も出版)、『仕事ができる人はなぜワインにはまるのか』(幻冬舎新書)など。

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