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照ノ富士が教えてくれたこと――後世に語り継がれる奇跡の復活優勝は何を残したのか?

飯塚さきスポーツライター
5年前の夏場所で賜杯を初めて手にした照ノ富士(写真:日刊スポーツ/アフロ)

涙はなかった。これまでの軌跡とたったいま成し遂げた偉業をゆっくりと噛み締めるように、最後まで冷静沈着に、そして静かに、彼は佇んでいた。その眼差しはやわらかで、5年前のそれとは明らかに違う輝きを放っている。そのことをよく知っているのは、ほかの誰でもない、照ノ富士本人だった。

文句なしの復活優勝

千秋楽を迎え、12勝2敗でトップに立っていた照ノ富士。対するは3敗で追う御嶽海。勝てば優勝、負ければ朝乃山か正代の勝ったほうを交えた三つ巴になる予定だった。

実際、幕内の優勝争いで巴戦になったことはしばらくない(平成8年11月場所に5人での決定戦が行われ、その決勝戦で巴戦が行われた)。そのため、本割では御嶽海が勝って、3人での優勝決定戦を見たいと望んでいたファンも少なくなかっただろう。

土俵に立った御嶽海は、気合十分。本当にどちらが勝つかわからない。誰もが息をのんでその瞬間を見守っていた。

立ち合いから踏み込んで左の上手を取り、圧力をかけたのは照ノ富士。そのまま右も、脇をがっちりと締めて相手の腕をしぼりながら上手を取った。次の瞬間、一気に押し込んで寄り切り。完璧な相撲だった。割れんばかりの拍手に包まれる館内。大関昇進を決めた初優勝から、実に30場所ぶりとなる幕内最高優勝を、本割の土俵で手にしたのだった。

己を信じて努力し続けること

「続けてきてよかったなと思っています」

これが、インタビューで発した一言目だった。この言葉に、どれだけの重みがあるか――。力士は、相撲で強くなることはもちろんだが、その過程で学ぶ人生教訓が多くある。つらく苦しい経験を乗り越えた照ノ富士は、諦めないこと、信じて努力し続けることのもつ力を、いま誰よりも強く感じていることだろう。

「いろんなことがありましたけど、最後にこうやって笑える日が来ると思って信じてやってきたので、一生懸命やればいいことがあると思っています」

結果を出したことだけではない。この経験は、彼にとって必ず、今後を生きる上で非常に大きな力になり続けるはずだ。自分を信じて諦めず努力し続けることの強さを知った人は、どんなことがあっても必ず夢を成し遂げていく。28歳という若さでこの経験を得たことは、彼にとって大きな糧になったことはもちろん、見る者にもその体験を分け与えてくれたことに大きな意味があると私は感じている。

「諦めなければ、夢は必ずかなう」。こんな言葉が、いまは陳腐にも綺麗ごとにも聞こえることなく、まっすぐ心に響いてくる。言うまでもなく、照ノ富士が自身の相撲人生をかけてそれを体現し、身をもって示してくれたのを目の当たりにしたからだ。大相撲史に残る復活劇を演じた照ノ富士。今場所の彼の偉業は後世に語り継がれるだろうが、この歴史的瞬間を、生きて、肌で感じることができた私は、この世に生を受けたことに感謝したいと思う。

<おまけ>照ノ富士の戦績あれこれ

照ノ富士のこれまでの戦績を見ると、実は彼は小結を一度も経験していない。新入幕から4場所連続で勝ち越し。前頭2枚目で8勝7敗だったが、当時の小結・関脇がそろって大敗を喫したことにより、新三役がいきなり関脇だったのだ。

その後の2場所で13勝、12勝(初優勝)となったため、一気に大関まで駆け上がった。ちなみに、三役2場所で大関昇進を決めたのは、年6場所制になってからは照ノ富士のみ。こちらの記録は、当時の照ノ富士の「イケイケだった(本人インタビュー談)」ことがわかるものだ。

来場所は平幕上位の番付になるだろうが、もしその後小結に上がることがあれば、彼にとって初の小結になる。これはちょっと面白い。しかし、帰ってきた照ノ富士には、もう一度小結をすっ飛ばす勢いで、もっともっと上を目指して頑張ってほしいと願っている。

スポーツライター

1989(平成元)年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、2018年に独立。フリーのスポーツライターとして『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(アプリスタイル)などで執筆中。2019年ラグビーワールドカップでは、アメリカ代表チーム通訳として1カ月間帯同した。著書『日本で力士になるということ 外国出身力士の魂』、構成・インタビューを担当した横綱・照ノ富士の著書『奈落の底から見上げた明日』が発売中。

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