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「ウィル・スミスの平手打ち」を非難するハリウッドの偽善、スミス擁護の声があがるワケ

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

 ハリウッドスターのウィル・スミスが、アカデミー賞授賞式で、妻の脱毛症をジョークにする侮辱的発言をしたプレゼンターのクリス・ロックに平手打ちを食らわせた出来事が波紋を広げている。スミスはアカデミー会員を辞任した。

 スミスの平手打ちについては賛否両論が出ているが、アメリカでは暴力に対しては“ゼロ・トレランス”(断固容認しないこと)だ。アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミー側も「アカデミーはいかなる形の暴力も容認しません」という声明を出したが、そこにいかなる理由があったとしても、暴力を容認することは許されないのである。スミスが自ら辞任する状況に追い込まれたことは、同氏が犯した暴力に対する当然の“罰”と言えるかもしれない。

ハリウッドの偽善

 筆者は暴力に対する“ゼロ・トレランス”には完全に同意する。しかし、同時に違和感のようなものも覚えている。ハリウッド映画がこれまで数多くの暴力的な映画を生み出し、社会に好ましくない影響も与えてきたからだ。そのハリウッドが暴力を糾弾していることに、ハリウッド映画界の偽善、ダブル・スタンダードのようなものも感じている。

 もちろん、現実世界と映画のような架空世界は違う、一緒に考えるべきではないという声もあるだろう。両者は区別されるべきものかもしれない。しかし、例えば、スミス氏の平手打ち映像を無邪気な子供が見た時、こんな疑問を覚えても不思議ではないのではないか。「暴言に対して平手打ちでお返しすることなんて、映画の中ではよくやっていることではないか? 相手が傷つけるようなことを言ったのだし」。

暴力映像の悪影響

 実際、人によっては、映画から大きな影響を受ける。筆者はそのことを拙著『そしてぼくは銃口を向けた』で、高校銃撃事件を起こした子供たちやその関係者に話をきいた時、実感した。事件を起こした子供たちが見ていた暴力的な映画が彼らの犯行に影響を与えたことが見て取れたからだ。

 例えば、1997年2月、アラスカ州ベセルで高校銃撃事件を起こしたエバン・ラムジーは筆者にこう話した。

「映画では、撃っても撃っても敵はなかなか死なないじゃないか。10回撃ってやっと死ぬという感じだろう? 現実でもそうなんだと思っていた。そう簡単に人が死ぬはずがないって。でも、現実には、銃弾は人に命中し、死んでしまった。ただ怖がらせたかっただけなのに、死んでしまうなんて」

 また、1997年12月、ケンタッキー州パドゥーカで高校銃撃事件を起こしたマイケル・カーニールも日頃から『バスケットボール・ダイアリーズ』などの暴力映画を愛好していたが、彼もまた、エバン同様、銃撃により人が死ぬことになるとまでは考えていなかった。「怖がらせたかったんだ。何人かの腕を撃とうと思っただけ。弾丸は壁にぶつかると思っていた」と話している。

 映画という架空の世界では、確かに人は簡単には死なない。何度撃たれても、どんなに殴られても、高所から落ちても生きているという、現実では起こりえないようなことも起きている。そんな映像を見てきたエバンやマイケルは、人は簡単には死なないと死を楽観視していたのかもしれない。

 つまり、映画ではこうだから、現実世界でもこうだろうと考える子供が中にはいるということだ。彼らは架空世界と現実世界をはっきりとは区別できないのだ。

 また、暴力映像に何度も晒された子供は、見ていない子供より、暴力に対してより不感症になり、よりアグレッシブな行動をする傾向にあるという研究結果も数多くある。マイケルの事件では、事件後、被害者の親が、暴力映画がマイケルの銃撃に影響を与えたとして『バスケットボール・ダイアリーズ』など暴力的映画やビデオゲームを製作している会社や配給会社に対して訴訟まで起こした。

 ハリウッドの暴力映像に晒されてアグレッシブになり、架空世界と現実世界を明確には区別できない子供たち。彼らは、スミスの平手打ちのような、映画の中ではありふれている暴力が現実社会では断罪されているのを目にした時に、果たしてどう感じるのだろうか? あるいは、その反対に、現実社会では断罪されている暴力が映画の中では普通に行われていることをどう感じるのだろうか? その矛盾に、ある種の社会の偽善のようなものを見出しはしないだろうか? そして、社会の偽善は子供たちの心に影響を与えるものではないだろうか?

 コロンバイン高校銃撃事件の犯人の1人、エリック・ハリスは自らのウェブサイトにこんな書き込みをしていた。

「何でもできると思い、目標を高く掲げ、大きな期待を持ち、幸せで、親切で、みんなに平等に接し、チャリティーに寄付し、貧乏人を助け、暴力を防止し、安全運転し、汚染させず、ゴミを捨てず、短いシャワーで水を浪費せず、正しいものを食べ、喫煙せず、酒も飲まず、銃も売らず、悪い人間にならない、そんな奴ら。俺は黙れ、死ねと言いたいね」

 そこには、“ポリティカル・コレクトネス”(政治的、社会的公正)を求めるものの、現実的にはそれと相反することが行われている偽善的な社会に対する怒りがある。同時に、社会が求める善という枠の中に、自分を押し込むなという反発もある。そんな反発が、銃撃という恐ろしく反社会的な行動となって出現したのかもしれない。

社会という機械にはめこむことができない生身の自分

 心理学者のエーリッヒ・フロムは『愛するということ』の中で、現代資本主義社会は摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をすすんではめこむような人間を必要としており、その結果、現代人は自分自身から疎外されていると述べているが、人は常に自分自身を社会という機械にはめこむことができるわけではない。疎外されている生身の自分自身が叫び声をあげたくなることもある。

 スミスの平手打ちを擁護する声があがっているのも、社会という機械にはめこまれた社会的人間の部分ではなく、社会という機械にどうしてもはめこむことができない生身の自分自身の部分が揺さぶられる思いがするからだろう。

 今回の騒動に対し、「平手打ちをすることは悪いことだとわかっているが、自分がスミスと同じ立場に立たされたなら、そうしてしまうかもれない」という趣旨のコメントも目にしたが、そんな思いは、まさに社会という機械にはめこむことができない、自分自身に抗えない自分が存在することを表しているように思う。

 しかし、そんな自分が存在するからといって、社会の中に存在している以上、暴力は決して許されることではない。ゼロ・トレランスである。社会という機械は、たとえ、怒りや憤りのような負の感情が沸き起こっても暴力に訴えない、社会と調和する人を求めている。

 結局のところ、スミスの平手打ち騒動は、社会という機械にピッタリと自分をはめこむことができない人間の悲劇が表出したものだったのではないか。

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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