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「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」開戦78年 語り継がれる原爆の記憶 ある日系アメリカ人の物語

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
米ロサンゼルスの全米日系人博物館では特別展「きのこ雲の下で」が開催中だ。筆者撮影

 「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」

 1945年、広島で被爆した日系アメリカ人マリー・カズエ・スエイシ(通称カズ・ママ)さんは、戦後、アメリカに戻ってから、そんな言葉で罵倒された。カズ・ママさんがフラッシュバックに襲われたり、夜悪夢にうなされたりするようになったのは、それからだった。

 12月8日、日本は開戦から78年目を迎えた。来年は、終戦から75年目になる。

きのこ雲の下で

 原爆投下75年目を前に、今、米ロサンゼルスのリトル東京にある全米日系人博物館では「きのこ雲の下で:広島、長崎と原爆」という特別展が開催されている。同館は1992年に開館したが、原爆をテーマにした展覧会が開かれるのは今回が初めてだ。原爆に関する展示は日系アメリカ人社会では取り扱いが難しい問題だったからだ。

チヅコ・シモゴチさん(当時15歳)が被爆時身につけていたブラウス。筆者撮影
チヅコ・シモゴチさん(当時15歳)が被爆時身につけていたブラウス。筆者撮影

 館内には、広島市と長崎市から提供された様々な被爆資料や被爆物が展示されている。被爆者が身につけていたブラウスや布カバン、被爆した学徒隊の腕章、原爆の熱で歪んだガラス瓶、原爆で溶けた仏像などの他、オバマ大統領が折った折り鶴も見ることができる。

被爆者の写真が展示されているコーナー。筆者撮影
被爆者の写真が展示されているコーナー。筆者撮影

 中でも、来館者が立ち止まって凝視していたのは、「この先はご自身の判断で見ることをお勧めします」というサインの向こうに展示されている写真。火傷で苦しむ被爆者や救急所で手当を受ける被爆者、被爆者の遺体の写真など原爆の悲惨さを伝える写真が掲げられている。

日系アメリカ人の「無言の記憶」

 この特別展では、日系アメリカ人被爆者のセクションも設けられており、6人の日系アメリカ人及び日本人アーチストが作ったドキュメンタリービデオや写真、絵画で、日系アメリカ人被爆者の被爆体験を伝えている。このことは大きな意味がある。日系アメリカ人被爆者の多くは被爆した事実について長い間、口をつぐんできたからだ。

 日系アメリカ人は原爆を落とされた国・日本の血をひいてはいるが、原爆を落とした国・アメリカのアメリカ人である。そのため、彼らは、戦後、アメリカ人としてのアイデンティティーを持たなければならなかった。被爆した日系アメリカ人たちの多くは日本で被爆したという事実が差別に繋がることを恐れ、口を閉ざしたまま生きて来た。被爆の事実を誰にも話すことなく亡くなった者も少なくないという。封印されてきた日系アメリカ人被爆者の「無言の記憶」が今回の公開で、共有される意味は非常に大きい。

自らの被爆体験を語り、平和を訴え続けたカズ・ママさん(ドキュメンタリービデオ「SEEDS」より)。筆者撮影
自らの被爆体験を語り、平和を訴え続けたカズ・ママさん(ドキュメンタリービデオ「SEEDS」より)。筆者撮影

 中でも、冒頭で紹介したカズ・ママさんの被爆体験と戦後の生き様を描いたドキュメンタリー・ビデオが心を打つ。1945年当時、広島には約3200人の日系アメリカ人が居住していた。カズ・ママさんもその1人だった。

  

 カズ・ママさんは、1927年、ロサンゼルス近郊のパサデナ生まれ。幼少期、両親とともに広島に移住し、18歳の時に被爆した。投下の一瞬についてこう語っている。

「青い空に白い斑点が見え、突然、とてもパワフルなフラッシュが起きたんです。一瞬のうちに、そこは天国から地獄へと変わりました」

 カズ・ママさんは向かいの家の軒下に駆け込んだ。気づいた時は体が動かなかった。軒の部分が上半身に覆い被さっていたからだ。信じられない光景も目にした。

「半分くらい水が入っている防火水槽の中に人々がいるから、水を飲もうとしているのかなと思ったら、死体だった」

「25人の小学校1年生が“お母さん”って言って泣き出したのです。そんな子供たちに、火傷で顔が風船のようにはれあがった女の先生が“我慢しなさい。お母さんは後で来るから”と言いました。翌朝、全員亡くなってしまった。先生も」

 戦後、カズ・ママさんはアメリカに戻ったが、待っていたのは心穏やかな生活ではなかった。

 「真珠湾でたくさんの米兵を殺しただろ」と罵倒され、フラッシュバックや悪夢にうなされるようになったのだ。身体にはブツブツやアザができ、日増しに痩せていった。ぶらぶら病といわれる原爆症の後障害の一つだが、英語にすると「レイジー・シックネス(怠慢病)」。アメリカの医師たちは病気に理解を示さなかった。

 カズ・ママさんは、当時ロサンゼルス検死局で検死官を務めていた医師トーマス野口氏の協力を得て、米保健福祉省を訪ね、日本の医師をアメリカに派遣してほしいと嘆願。1977年、日本の医師団がアメリカに派遣され、第1回在北米被爆者健診が行われた。医師たちは被爆者たちの心の痛みにも耳を傾けた。被爆者たちは大きな心の支えを得た。

 それでも、日本国外に居住する被爆者たちは長い間、「被爆者援護法(原子爆弾の被爆者に対する保障などを定めた日本の法律)」の対象外のままだった。彼らの原爆手帳申請が可能になり、彼らが「被爆者援護法」の対象者となったのは2000年代に入ってからだ。

写真家ダレル・ミホ氏が撮影した日系アメリカ人被爆者たちの写真とプロフィールが展示されている。筆者撮影
写真家ダレル・ミホ氏が撮影した日系アメリカ人被爆者たちの写真とプロフィールが展示されている。筆者撮影

間違ったら話し合ってみようよ

 2017年に90歳で亡くなるまで「原爆の記憶」を語り継いだカズ・ママさん。最後にこう訴えている。

「完璧な人はいないんだから、“間違ったら話し合ってみようよ”って言って、そういうふうにして助け合って励まし合ったら、絶対に、世界に戦争は起きない」

 ビデオを静かに一人見入っていた来館者のメアリーさんが言う。

「日本を訪ねた時、宮島は訪ねたんですが、原爆ドームには行く勇気がなかったんです。今回、初めて、展示を見ましたが、涙が出そうです。たくさんの子供たちが被爆しました。胸が痛みます。罪悪感にも襲われました。私の国がこんな恐ろしいことをしたんですから。今、アメリカには狂人のような大統領がいます。ここに展示されているようなことが、将来、再び起きないよう願いたいです」

 ハワイ出身というクオーター(日本人の血が4分の1混じっている)のダレンさんは言う。

「驚かされ、心を打たれました。知らないことが多いことにも気づきました。戦争という過去を忘れてはならないと思いました。過去に起きたことを学ぶことなしに、私たちは前に進むことができないからです。原爆は恐ろしい惨事でしたが、平和という未来に向けて、世界の人々を1つにすることもできる。そう信じています」

 カズ・ママさんの生き様を映し出したドキュメンタリービデオのタイトルは「SEEDS(シーズ)」、種。

 「平和という木」の種だ。

 時とともに、「戦争の記憶」を語ることができる人々が少なくなっている。「戦争の記憶」を語り継ぎ、カズ・ママさんが植えてくれた「平和という木」の種を、世界が1つになって育てていく。それは、戦争を知らない私たちに課された責務ではないか。

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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