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自死したケイト・スペードさんと夫アンディさんの軌跡 “ハンドバッグ帝国”はこうして生まれた 

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
ケイト・スペードさんと夫のアンディさん。(写真:Shutterstock/アフロ)

 6月5日朝、マンハッタンはパークアベニューのコンドミニアムの一室で、赤いスカーフをドアノブにかけて首を吊った女性の遺体が発見された。警察の発表によると、死因は「明らかな自殺」。亡くなったのは、女性たちの絶大な人気を集めているファッションブランド「ケイト・スペード」を世に送り出したデザイナー、ケイト・スペードさんである。55歳だった。

 13歳になる一人娘のフランシスさんに宛てた短い遺書も残されていた。

「ビーへ いつも愛しているわ。あなたのせいじゃない。お父さんにきいてね」

 母の死は自分のせいではないか。ケイトさんは思春期の娘がそんなふうに自責することを心配したのだろう。

 お父さんとは、ケイトさんの夫アンディさんのことである。そのアンディさんが、昨日、ニューヨークタイムズに声明文を出した。アンディさんは、ケイトさんの死を巡って間違った情報が出されていることを懸念しており、「これが事実です。今出ているその他の情報は間違いです」と記して、様々な情報を否定している。

 ケイトさんの死を巡っては、姉のレタさんが、ケイトさんが生まれたカンザスシティーの地方紙に、ケイトさんが“アルコールに頼っていた。双極性障害の入院治療を拒んでいた”と伝えていた。しかし、アンディさんによると“ケイトさんは、5年前から、うつ病と不安神経症を治すべく積極的に努力をしており、医師と定期的に会い、薬も服用していた、また、薬物やアルコールには頼っておらず、ビジネス上の問題も抱えていなかった”という。

 また、アンディさんが離婚を求めていたという報道もあったが、アンディさんは“離婚は考えてはいなかった。しかし、結婚生活に中休みを入れるために、10ヶ月前から別居していた。別居中も、ケイトさんとは毎日のように話したり会ったりしており、バケーションにも一緒に行っていた”とその報道を否定。

 自殺の前夜、ケイトさんはハッピーそうにしており、自殺をするような兆候は感じられなかったことから、アンディさんはケイトさんの死に大きなショックを受けている。

出会いは大学時代

 ケイトさんを失ったアンディさんの悲しみははかり知れない。二人は、35年間、二人三脚で、歩んできたからだ。

 昨年、ナショナル・パブリック・ラジオ(Kate & Andy Spade)にゲスト出演した二人は、そのななれそめから今に至るまでの歩みを楽しそうに回想している。とても良い話なので、シェアできたらと思う。

 二人の出会いはアリゾナ州立大学時代に遡る。ケイトさんは当時、ブティックの婦人服売り場でアルバイトをしていたが、同じブティックの紳士服売り場でアルバイトをしていたのがアンディさんだった。ある日、車が故障したため帰れなくなったアンディさんを、ケイトさんが自分の車で送って行ったのが付き合い始めたきっかけだ。

 大学でジャーナリズムを専攻していたケイトさんは、卒業後、ヨーロッパをバックパックで旅行。旅行から戻ったニューヨークでお金がつき、アンディさんのいるアリゾナに戻ることができなくなったため、ニューヨークで職を探した。1991年1月、得られた仕事はマドモアゼル誌のアシスタント。モデルの靴紐を結んだり、撮影用の服にアイロンをかけたり、カバンを持ったりする年収14000ドルの仕事である。

 一方、卒業に必要な単位が足りずに大学に残ったアンディさんは、大学に行く傍ら、アリゾナで、広告の仕事を始めた。新聞に掲載されている広告をレストランなど広告を出してくれそうなところに見せては、これより上手く作れると言って売り込み、広告の仕事を取って行ったという。

バーラップでバッグを作る

 アリゾナのアンディさんのところに行こうと考えていたケイトさんだったが、ファッションの仕事に楽しさを見出し、ニューヨークから離れられなくなった。そのため、アンディさんの方がケイトさんの住むニューヨークに引っ越し、安アパートで一緒に暮らし始める。

 アンディさんも広告会社に就職ができた。それまで無縁の業種の広告だったものの、ずうずうしさが気に入られて仕事を得ることができたという。

 ケイトさんは、シニア・ファッション・エディターのアシスタントからアソシエイト・エディター、そして、シニア・ファッション・エディターへと昇進。しかし、次のファッション・ディレクターに昇進する段となって、この仕事がしたいのか疑問を感じてしまう。

 アンディさんに相談したところ、「バッグメーカーを始めるのはどう?」と提案された。ケイトさんは、編集ではアクセサリー部門を担当し、バッグのことを熟知していたからだ。ビンテージ・ストアで買ったバッグもたくさん集めていた。決して、有名なブランドのバッグではなく、シンプルな四角いバッグだった。ケイトさんはそんなバッグを携帯していると、「どこのブランドなの?」とよく聞かれたという。

 凝った複雑なデザインのバッグが流行していた時代である。ケイトさんは、シンプルでクリーンなデザインのバッグが市場にはないことに可能性を感じ、そんなバッグを作るべく、マドモアゼル誌の仕事を辞め、1993年1月、アンディさんと「ケイト・スペード」を立ち上げた。

 しかし、バッグ好きでたくさんのバッグを持ってはいても、その作り方は全然わからなかった。ケイトさんはまず、白い紙でバッグの型を作るサンプル作りから始めた。製造に使うファブリックのメーカーも探した。しかし、どのメーカーも、大量販売しかしていない。6つのデザインしか作る予定はなかったので、必要なのは25ヤードだけだった。電話帳のイエローページでようやく販売してくれる会社を見つけたが、それはポテト用のズタ袋のファブリックを製造している会社だった。ケイトさんはその会社のバーラップ(黄麻布)で、最初のコレクションを作った。

 バーラップで作ったバッグを、アクセサリーのトレードショーに出展した二人。しかし、ケイトさんは、ショー会場から戻ってきて、泣いた。トレードショーのブース代の元が取れるほどの注文を得られなかったからだ。そんなケイトさんにアンディさんはきいた。「どこから注文がきたの?」 ケイトさんは答えた。「バーニーズとフレッド・シーガル」。どちらもトレンディなショップである。アンディさんは可能性を感じ、廃業しようと弱気になっているケイトさんを「続けよう」と励ました。 

 バッグはファッション誌のエディターにもアピールした。同じようなファブリックから作られているバッグが並ぶ中、ケイトさんの作ったバッグのバーラップというファブリックに違いが見出されたのかもしれない、とケイトさんは言う。

4年目にやっと得た収入

 トライベッカにあるエレベーターのないアパートの5階が二人の仕事場になった。そこでデザインをし、受注し、商品も出荷した。部屋は足の踏み場もないほど箱だらけになった。

 しかし、食べて行くのは困難だった。トレンディなショップから商品の注文は得られたものの、その数はわずかだったからだ。成功する保証はないので、アンディさんは広告会社に勤務し続け、その給料を製造費にあてた。ケイトさんも、生活のため、フリーランスでスタイリストの仕事をした。貯金や年金用の預金もビジネスにあてたが、思うようなリターンは得られなかった。起業して4年目にして、ようやく得られた収入は年15000ドル。二人は廃業を考えながらも思い止まっては、作り続けた。

 

 しかし、転機は訪れた。高級デパートのニーマン・マーカスとサックス・フィフス・アベニューから声がかかったのだ。「ケイト・スペード」は両デパートからたくさんの注文を得て、一気にブレイクする。

 また、CFDA賞という、カルバン・クラインやダナ・キャランなどビッグなデザイナーしか受賞できないようなファッションの賞を小さなブランドながらも受賞し、世界的にも認知度を上げて行った。

 1999年、ブランドを成長させた二人は、セーフティー・ネットを得るため、ニーマン・マーカスに、56%の株を譲渡した。それにより得た金額に二人は驚愕したという。3000万ドル以上だったからだ。以降、「ケイト・スペード」は、バッグだけではなく、シューズやステーショナリーなど商品カテゴリーを多岐に広げて成長していった。

 2006年10月には、すべての株式をニーマン・マーカスに譲渡。ニーマン・マーカスはその直後、「ケイト・スペード」を124ミリオンドルでリズ・クレイボーン社に譲渡した。そして二人は、2007年、娘フランシスさんの子育てに専念するため、ビジネスから遠ざかった。

二人は似た者同士

 それから9年を経た2016年、二人は、新たに「フランシス・ヴァレンタイン」という、娘の名をとったバッグとシューズのブランドを自己資金で立ち上げた。「ケイト・スペード」は自分たちの手を離れたブランドとして一人歩きをしているからだ。ケイトさんには、そんな「ケイト・スペード」とは差別化する商品を新たに生み出したいという思いもあった。

 一方、「ケイト・スペード」は、2017年夏、リズ・クレイボーン社から、コーチを擁するタペストリー社に、24億ドルで譲渡された。二人がバーラップで作ったバッグは、24年の時を経て、24億ドルの価値を持つブランドへと成長したのである。

 ケイトさんは「ケイト・スペード」を立ち上げた時の苦労を思い出しながら、「フランシス・ヴァレンタイン」への意気込みを、ラジオでこう話している。

「今回は“作るか死ぬか”のような問題はなく、ストレスも少ないの。住まいにはエアコンもエレベーターもあるし、自信もある。でも、たくさんの期待を投げかけられているから、プレッシャーは大きいわ」

 「ケイト・スペード」の時のように自己資金を投じてスタートした「フランシス・ヴァレンタイン」という新ブランドを“第二のケイト・スペード”に育てようと、ケイトさんはプレッシャーを感じながらも頑張っていたのだろう。

 また、このラジオで、ケイトさんはアンディさんとは別々のフロアで仕事していることも明かしている。

「私はアンディのオフィスにすぐに行ってしまうところがあるのよ。オフィスに行くと“電話を切って、話したいことがあるの、頼みたいことがあるの”といったりするの。だから、一線を画す必要があるの。四六時中話さないよう努力する必要があるの。おわかりのように、私はすぐに話してしまうところがあるから。それに、とても神経質だし、心配性なの。でも、アンディも似たようなものなのよ(笑)。20代から50代まで、一緒だったからかしらね。私たちは共通点が多いの」

 二人は似た者同士だ。そんなふうに話していたケイトさんを失ったアンディさんは、声明文でこう書いている。

「彼女は自分の中の悪魔と闘っていたんです」

 ケイトさんは“心の病”という悪魔との闘いに負けたのだろうか? 

 しかし、「ケイト・スペード」の中に今も息づくケイトさんのスピリットは永遠に負けることはない。明るく、楽しく、ハッピーで元気な「ケイト・スペード」は、これからも女性たちを魅了し、応援し続ける。

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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