Yahoo!ニュース

ムロツヨシの秀吉はどうしてあんなイヤなヤツなのか 『どうする家康』が隠そうとしない「強い悪意」

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

「お前はクズじゃ」と言われる秀吉

『どうする家康』の秀吉(ムロツヨシ)は、かなりイヤなやつである。

陽気ではあるが、でもきちんとイヤなやつである。

浅井長政に裏切られた金ヶ崎の撤退戦で、秀吉はしんがりを申しつけられる。(第14回)

そのときの対応がかなり見苦しかった。

「こら死んだわ、おっかあ」とそもそもの命令が不服なのを隠さず、家康(松本潤)にも一緒に戦ってくれ、そうしないと裏切り者だと触れまわるぞ、と脅す。

家康に「くずじゃなお前は」と言われても「あんたのために言ってやっとる」と言い返す。

たしかにクズである。

とてもクズな秀吉である。

これがのちの天下人となる。

家康側ではない人たちへの悪意

秀吉を徹底してイヤな人物に描いている。

それが『どうする家康』の基本スタイルなのだ。

秀吉はどうしようもない小人物に見える。

これは、おそらく「そういう男が天下をとったら〜こうなる」という展開への布石なのだろう。

意図はわかる。

家康サイドでない人たちへの悪意が目立つ。

見ていて少し落ち着かない。

金ヶ崎撤退戦『国盗り物語』の感動

金ヶ崎の撤退戦は、信長が出てくる大河ドラマではだいたい扱われる。

浅井長政に裏切られ、信長軍は圧倒的に不利な立場になり、そこから逃げることになった。この場合、もっとも命があぶないのが最後尾の「しんがり軍」である。

1973年の『国盗り物語』では、秀吉(火野正平)のほうからしんがりを申し出て、それを受ける信長(高橋英樹)との対面は感動的であった。

1973年の放送時に一度見たきりだが、でもいまだにそのシーンをよく覚えている。

50年前にあれほど感動したシーンが、2023年の大河では茶番じみた言い合いのシーンに変わっていた。

「小人物な秀吉」のせいである。

小ぢんまりした人たちがたくさん出てくる大河

どうも今年の大河ドラマは、そういう「小ぢんまりした人たちがたくさん出てくる」物語のようだ。

その代表が秀吉で、そういう人間が絶対的な権力者になったら、たしかにそれはとても恐ろしい存在になりそうだ。

そして、家康は、秀吉の死後の権力者となる。

たぶん「そこまで恐ろしくはない権力者」となるのだろう。

だから、秀吉は、あそこまでイヤな人物に描かれる。

しかたがない。

でも見ていてすこしつらいところでもある。

明智光秀はかなり陰険そうである

明智光秀(酒向芳)にも爽やかさがない。

高圧的で、口うるさくて、陰険そうである。

信長周辺の一人として、器の小さそうな人として描かれている。

3年前の大河『麒麟がくる』ではまっすぐな人物として描かれ説得力があったのに、もう、こういう扱いである。

反逆者であるのはたしかなので、しかたないところではあるのだが。

『どうする家康』はかつてない大河、というのを目指している気がする。

織田信長の勘がよくない

織田信長(岡田准一)は、威圧感はたっぷりで、偉そうで、魔王らしい。

それでいて、家康のことが好きなようで、そのへんふわっとしている。

ただ、頭が切れるようには描かれていない。

金ヶ崎で浅井長政の裏切りを予見したのは家康であり、信長は頭からそれを否定していた。

あきらかに勘がよくない。

そういう信長である。

足利義昭は酒に酔ったただのおじさん

足利幕府の最後の将軍、足利義昭(古田新太)もなかなか手厳しい。

彼もまた、かなりぶざまに描かれていた。

貴人らしい風貌であるが、その立ち居振る舞いはまったく貴人らしくない。

酒に酔ったぐだぐだのおじさんでしかなかった。

いちおうは征夷大将軍である。

「源氏長者」ではなかったにしても源氏嫡流の将軍職を継いだ貴族のはずだが、戯画化して描かれていた。

かなりの悪意が感じられた。

信玄はあと半年の余命

武田信玄(阿部寛)は迫力がある。阿部寛が大河ドラマに出ると、とてもいい。

彼はまあ、歴史上の人物らしく描かれている。

信玄は、家康が天下人になるのとあまり関わりがないからだろう。

第17回の三方ヶ原での遭遇が家康がもっとも信玄を怖がった瞬間であるが、このあと信玄の命は半年もたない。

まもなく歴史から消えてしまう。

そういう人物は悪く描かない。

それが『どうする家康』の方式らしい。

大河史上もっともかっこいい今川義元

今川義元(野村萬斎)もいい人だった。

これはおそらく大河史上、もっとも素敵な今川義元だろう。

桶狭間の戦いは大河ドラマで何度も描かれたが、見ていて「義元もちょっと頑張れ」とおもったのは、今回だけである。まあ、応援したところでどうにもならないんだけど。

凜としていて、かっこいい。

「王道と覇道」について、義元の言った言葉を、家康(松本潤)はいまも心に持っている。

尊敬できる人として今川義元は描かれており、これは大河ドラマでかつてなかった視点である。

そのぶん、家康は信長を信用していない。

地勢的に見れば、家康より京に近い連中はみな、いけすかないように描かれ、遠い連中は(武田信玄とか今川義元とか)好ましく描かれている。

三谷幸喜的な世界になることを避けるための戯画化

この大河ドラマで描きたいのは、三河の家臣団なのだろう。

ときに優柔不断な家康のあとを「仕方ないなあ」とぼやきつつ付いていく三河家臣団こそが、この物語の真ん中に存在している。

彼らは、日本を長きに渡って統治する集団になっていく。

『どうする家康』は三河家臣団の物語なのだ。

だから敵対する人たちは、すべて戯画化されている。

戯画化はするが、ギャグにはなっていない。

ひょっとしたら「三谷幸喜的な世界になることを避けるため」なのかもしれないが、笑いにしていない。

なんか、ごくろうさま、とおもってしまう。

三河者は都会を憎んでいる

だから、三河者からすれば「都会的に見えるもの」をすべて好ましくおもっていない。

そう描かれている。

「京」はもちろん、三河からみれば「尾張」も都会である。

尾張の織田信長軍団は、三河者にとって、あまり好感を持てる存在ではない。

そこは譲れないラインなのだろう。

このドラマは三河の田舎の連中が、やがて日本の中枢におさまるさまを描こうとしている。

だから、独善的な秀吉を批判的に見つめる視点が、最初から明確にされている。

でも、その三河家臣団も、奇妙な偏見を抱いたまま、権力の中枢に駆け上がることになる。

いろんな含みを持った大河ドラマである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

堀井憲一郎の最近の記事