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ドラマ『だが、情熱はある』の不気味さ 山里亮太と若林正恭はなぜこんなふうに描かれてしまうのか

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:つのだよしお/アフロ)

ドラマ『だが、情熱はある』の不安定さ

日テレのドラマ『だが、情熱はある』は見ていて落ち着かない。

お笑い芸人の山里亮太と若林正恭を主人公にしたドラマである。

1話と2話を見て、いろいろ情報が多すぎて、何を焦点に見ればいいのか、わからなかった。

『泳げ!ニシキゴイ』との根本的な違い

似たようなドラマとして、『泳げ!ニシキゴイ』というのがあった。

2022年の夏に日本テレビ『ZIP』で放送されていたドラマだ。

1回5分で2か月ほど放送されていた。

お笑い芸人錦鯉の二人の半生を描いたドラマである。

このドラマはわかりやすかった。

「50歳と43歳のコンビが、若手漫才日本一の大会で優勝する」というのがゴールだった。

錦鯉は、この時点で直近のM−1グランプリ優勝者である。

おじさんコンビで優勝して売れっ子になる、という結末に向かって、子供のころのエピソードや、若いうちの苦労話が展開する。

見ているほうも、いろいろ大変だったんだなあとか、昔からバカだったんだなあ、なんておもいながら、でもこれで50歳で売れっ子になるんだと(渡辺隆は43歳だが)わかって見ることになる。

安心しながら、どきどきできる。

それがつまり落ち着くドラマである。

山里亮太と若林正恭というユニットの奇妙さ

ドラマ『だが、情熱はある』で扱っているのは、山里亮太と若林正恭だ。

コンビではない。

南海キャンディーズの一人と、オードリーの一人である。

よくわからない組み合わせだ。

この二人がユニットを組んでいた、というのは何となく知っている。

でも知っているだけだ。

たしか、二人でやっていた深夜のバラエティ番組があったはずだ。

見た覚えはあるが、熱心に追いかけていたわけではない。

いつもやっている「複数の若手芸人による番組」のひとつにすぎない。

ただテレビ内だけではなく、二人で漫才ライブもやっていたらしい。

それは知らなかった。知らなかったが、正直に言えば、わりとどうでもいい。

コロナ禍で無観客ライブを行い、そのとき熱演しすぎた若林は倒れて、救急車で運ばれたらしい。

それも知らない。結局は大丈夫だったらしくそれはよかった、と、それ以上の感想は持てない。

それがドラマになった。

どこからどう見ればいいのか、よくわからない。

「若林が倒れた」がドラマのゴールなのか

山里と若林が、無観客ライブを行い、若林が倒れたというあたりが、最初の2話を見るかぎり、ゴールになりそうである。

いまのところはそう見える。

かなりどうでもいいゴールである。

そんなドラマを見続けていていいのだろうか、と不安にさせる設定になっている。

でも気になる。

わけのわからないところへ連れて行かれそうで、だからかえって気になる。

最後まで付き合ったほうがいいかもしれないとおもってしまう。

そういう作りになっているところが、ずるい。

ジャニーズの演じる二人が異様なほど似ている

山里を演じるのは森本慎太郎、若林を演じるのは高橋海人、である。

どちらもジャニーズ、森本慎太郎はSixTONES、高橋海人はKing&Princeのメンバーだ。

森本慎太郎は山里にとてもビジュアルを似せている。

まあ、髪型と眼鏡に特徴があるから、それを合わせるとかなり寄せられるのはわかるが、でも、それを越えて、森本慎太郎の山里は、かなり本物に見えてくる。

ちょっとすごい。

いっぽう高橋海人の若林は、ビジュアル的にまったく似ていない。

2話ではアフロヘアーにしていたが、若林のアフロ姿と似ても似つかなかった。

エンディングで実際に若林本人の大学時代の写真が出ていたが、若林がアフロにするのは何となくわかったのだが、高橋海人はどっからどう見てもカツラかぶってふざけてます、としか見えなかった。

若林正恭が憑依しているかのような高橋海人の喋り

そのぶん、高橋海人は、若林正恭の喋りをものすごくきちんと真似ている。

そこに驚く。不気味ですらある。

ちょっとやそっとの寄せかたではない。本物の若林が喋ってるんじゃないか、とおもわせる似せかたなのだ。

すごい。ちょっと震えそうである。

もちろん、森本慎太郎の山里も喋りは似せている。

この両者のコピーぶりは尋常ではない。

不気味なくらい似ている。

山里と若林のアンバランスさ

そのあたりの作り込みが見ていてかえって不安になる。

なんか、とてもアンバランスだ。

見た目は、山里は似せて、若林は似せていない。

でも若林は、喋るとおそろしいくらいに似ている。

バランスが悪い。

山里と若林はなぜこのように演じられるのか

山里も若林も、その性格からして、内側から追うと、少し彼らの喋りに似てくるということではないだろうか。

表面的なクセというより、内側にあるキャラ的なもの(どちらもあまり前へ前へと出てくるタイプではなかったところなど)をつかんで、それに声を寄せることによって、驚くべき模倣が成り立っているようにおもう。

もともと2人は似ているらしい。

役者が真似しやすい存在なのかもしれない。

ジャニーズの若手がそこを見事に演じている。

それはドラマを不思議な雰囲気に仕上げている。

M−1でどちらも2位だった二人

ドラマは、山里と若林の少年時代からの姿を交互に見せてくる。

錦鯉の長谷川と渡辺なら、違う少年時代を過ごしても、やがてこの2人はM−1の決勝で勝って抱き合うのだ、と信じて見ていられる。

でも山里と若林は、抱き合わない。

どちらもM−1で優勝していないし、そもそもM−1に一緒に出場するコンビではない。

ただ、どちらも2位に終わり(山里の南海キャンディーズは2004年、若林のオードリーは2008年)優勝しないまま、売れっ子芸人になった。

それはそれで時代を画したすごい芸人2人なのだが、でも逆に言えば、売れっ子になる劇的な瞬間が存在していないことになる。

M−1の2位が人生が変わる瞬間だろうが、でも、2位は2位なので、傍目には「劇的」とは言えない。

そういう「劇的さが見あたらない芸人」を2人集めて、同時進行のようにドラマにしていくというのは、かなり実験的試みとも言える。

だが『だが、情熱はある』に期待がある

最初の2話を見て、おもしろさの焦点がわからない、とおもった。

正直に言えば、なんかおもしろそうなのに、期待したおもしろさがない、ということになる。

だからこそ、妙に期待している。

そもそもドラマの空気が「いや、最後はおもしろくなるから心配しないでいいよ」と言っている感じがするのだ。それが山里亮太と若林正恭のキャラでもある。

「おもしろくなかったら、ごめんな」という気配もあるのだけど。

もともと一緒に語られることが少ない「山里亮太と若林正恭」を敢えて主役に選んだことが(最後までその説明はないとおもわれるが)「よくわかんないけど、なんかおもしれー」とおもわせるところに到達したら、それでいいのだとおもう。

不気味に似せた森本慎太郎の山里亮太と、高橋海人の若林正恭は、それを可能にしてくれるようにも今のところおもっている。

見ていてとても落ち着かないドラマだからこそ、後半に期待しているばかりである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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