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国民栄誉賞の授与セレモニーを東京ドームで行う必要があったか?

本郷陽一『RONSPO』編集長

憲法96条の改正論議が激しくなってきた。

正確には、誰も頼んでもいないのに議論が進んでいる。

なぜ? 今、このタイミングで? 唐突感が否めない。

そして、スポーツに深く関わっている私は、96という数字から、あの背番号を連想せざるを得なかった。5月5日、東京ドームでの行われた長嶋茂雄氏、松井秀喜氏への国民栄誉賞の授与セレモニーの一貫として行われた当日の始球式で、審判役で登場した安倍首相が来ていた背番号の「96」である。ちなみに安倍首相曰く、それは「96代目首相の96」であったらしいが、こういう数字は無意識に刷り込まれるものだ。

あの日、私は東京ドームの周囲をウロウロしていたが、その熱狂の様子は。水道橋界隈の場外にも伝わっていた。訳あって私はスポーツ報知を定期購読しているが、この前後数日の紙面は、上から下まで長嶋、松井一色であった。あげくに号外まで挟みこまれていた。

曖昧すぎて議論をする気にもならない国民栄誉賞の定義や、ご両人の授賞にとやかく言うつもりはない。ただ、松井秀喜に授与するならば、パイオニアとなったメジャーリーガー、野茂英雄に授与して欲しいし、野球ファンとしては、長嶋さんに授与されるなら、あの人にもという野球殿堂入りは一人や二人ではないだろう。

だが、そんな次元の議論をするよりも、私が、どうも納得いかなかったのが、東京ドームの5万人もの大観衆の前で、安倍首相が背番号「96」をつけて一緒に登場したことにある。なぜ、授与のセレモニーを東京ドームで行う必要があったのか。

国民栄誉賞の授与は、首相官邸だけでやればいいのではないか。

たくさんのファンに祝っていただきたいなどという文言は詭弁である。

これは実に政治色の強いキャンペーンである。

つい先日も、安倍首相が、南こうせつさんのコンサートに飛び入りで参加して一曲歌ったことが、ワイドショーを中心に報道されていたが、これらは、間違いなく参院選挙を前にずっと続いている自民党政権のイメージアップキャンペーンだろう。そのキャンペーンの一つが、読売グループと一体になっての東京ドームでの国民栄誉賞の授与セレモニーだったとすれば、なんとも悲しいし大問題である。

「それらの政治的な企みは、すべて織り込み済みでわかっているから、純粋に授与をお祝いしましょう」という高尚な声もあるだろう。

「長嶋さんと松井の功績は素晴らしい。何をやっかみの意見を言っているの?」という声もあるかもしれない。

ただ、政治という輩は、気がつかないようにジワジワと、大衆が支持する素晴らしいスポーツという文化に対して洗脳の手を伸ばしてくる。

スポーツには過去に政治利用されてきた歴史がある。それらの背景は、玉木正之さんのブログに詳しいが、古くは、ナチスの政権下で行われ、ヒトラーのプロパガンダに利用されたベルリン・オリンピック。冷戦下で開催されたモスクワ五輪には、日本を含めた西側諸国が不参加を決断して、続くロス五輪では、逆に東側諸国がボイコットでお返しした。

五輪やワールドカップの歴史を振り返ると、それらのスポーツイベントには、とても大きな政治的思惑が働いていた。本来、文化としてのスポーツは、思想や政治とは距離を置き、独立したものであるべきなのだ。それが、猪瀬知事の海外メディアにインタビュー掲載された発言も含め、この国の政治家達は、スポーツを政治的に利用しようとしているのが、見え見えで、本当に嫌になる。

頂点を極めようと努力と切磋琢磨しているアスリートの姿は、高貴なものである。考えられないような能力を発揮して、極限のドラマを見せてくれるスポーツマンには、プロであろうと、アマチュアであろうと、最大限の敬意を払うべきである。

スポーツを政治利用するという企みは、そういうアスリートの努力と才能への侮辱である。私は、長嶋、松井の両氏の政治利用こそが、2人の功績に対しリスペクトのない行為だと考えている。権力志向の強いナベツネが、彼らと裏で手を握っていたのかどうかは知らないが、文化としてのスポーツへの理解を高め、そういう政治の嫌らしい手が入りこまないように我々は監視し、政治が利用できない聖域を作っておかねばならないと思う。

(文責・本郷陽一/論スポ)

『RONSPO』編集長

サンケイスポーツの記者としてスポーツの現場を歩きアマスポーツ、プロ野球、MLBなどを担当。その後、角川書店でスポーツ雑誌「スポーツ・ヤア!」の編集長を務めた。現在は不定期のスポーツ雑誌&WEBの「論スポ」の編集長、書籍のプロデュース&編集及び、自ら書籍も執筆。著書に「実現の条件―本田圭佑のルーツとは」(東邦出版)、「白球の約束―高校野球監督となった元プロ野球選手―」(角川書店)。

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