Yahoo!ニュース

左手1本で勝利した井上尚弥が持っているチャンピオンの資格

本郷陽一『RONSPO』編集長

ラウンドのインターバルで父で専属トレーナーでもある井上真吾さんが言った。

「もっと上を目指す気ならならば、左手一本でもフィニッシュにもって行け!」

「わかった!」

腫れ上がった右手は使えない。

触るだけで電気が走るほど痛い右手を囮に使いながら、左手1本を上から下からと、縦横無尽に打った。ライトフライ級の日本ランキング1位の佐野友樹は、左1本とわかっていてもスピードの違いで外せない。その左がダブルでヒットすると、レフェリーが間に入って、手を大きく横に振ってTKOを宣言した。佐野の右目は塞がるほど腫れてしまっていてカットしていた2箇所の傷口は、さらに広がり血が飛び散った。

10ラウンド、1分9秒。

リングアナにマイクを向けられた井上尚弥は敗者を讃えることを忘れていなかった。

アクシデントが起きたのは2ラウンドである。

殺意のこもった左フックが一閃。佐野はひっくり返った。早目のカウントで立ち上がったが、井上が止めを刺しにラッシュ。

「フィニッシュにいく時ほど冷静に腹を打て」

真吾さんの言葉を実戦。冷静にボディを織り込みながらロープを背負わせ、ラッシュをかけたが、仕留め切れず、それどころか、パンチを集めた拍子に、どうも堅い頭部分に右を打ち込んでしまったのか、そこで右手の拳を痛めてしまったのである。

この2月にも、一度、右拳を痛め、2週間ほどスパーができない時期があったそうだが、ひょっとするとスナップを利かして打つので、グローブの中で拳を握るタイミングがズレることが多く、痛めてしまうのかもしれないが、これはハードパンチャーにつきものの宿命とも言える。

私は、ここ後楽園で、辰吉丈一郎がプロ4戦目にして日本バンタム級王者、岡部繁を沈めたシーンを思い出した。辰吉は、あの試合、4ラウンドに3度のダウンを奪って、フィニッシュに持っていったが、最初のダウンは攻め込んでの左フックだった。岡部は立ち上がったが、ロープを背負わせたまま、伸びるようなパンチを浴びせて2度目のダウン。井上も、もしここで右手を痛めていなければ、そのシーンを再現したであろう。

以後、左手1本。

左フックで4ラウンドに、もうひとつダウンを奪ったのだからモンスターの名に恥じないセンス、スピードである。ポイント的には、全ラウンドパーファクトで井上。ボクシングは何があるかわからない競技である。左手1本で戦って、このエリートに、もしやのことがあっては大変である。左1本でも、離れて左のリードを打っておけば、それだけでジャッジは井上を支持していただろう。ランキング1位を獲得して、チャンピオンの田口への挑戦権を手にすることが目的ならば、無理する必要はなかった。

しかし、この親子は‘倒す’ことにこだわっていた。

左手1本で相手を倒すにはどうすればいいかというクロスワードバズルをなんの心の準備もないまま、咄嗟に投げかけられ、カバンの中から昔やった参考書の類をいくつも探し出してきて、解いてしまったのである。

高いレベルを常に求めて、それに到達することを己への心の約束と科してあきらめない。その強靭なメンタルは今後、世界を目指し、斬った張ったのギリギリの勝負の時に、必ず必要になってくる。それが、チャンピオンになるための資格なのかもしれないが、井上尚弥は、その資格を持っている非凡なボクサーである。

父の真吾さんは、メンタルの成長と変化を口にした。

「今日は左1本でやりきった。フィニッシュまで持っていったのですから、80点以上です。最近、上を目指すということが、ようやく、あいつの中で、現実になってきたのか、意識が変わってきたんです。親が勉強しろ、勉強しろと言っても、なんか聞いているのか聞いていないのかわからず、テストの点も悪いってことがよくあるでしょう。これまでも、1、2と言っても、反応か薄く、聞いているのかな?ということもあったんです。でも、今の尚弥は、1、2を言うと、3、4、5と求めてくる。親だからこそわかる感覚なんですが、何かを得ようという意識が本当に強くなっているんです」

ジムの先輩、八重樫東が、先日、周到な準備と激闘の末、WBC世界フライ級チャンピオンとなった。そういう刺激が、彼にさらなるプロ意識を高めているのかもしれない。

試合後、すぐに後楽園展示場に設けられた会見場に大橋会長、井上、井上父の3人が並んだ。

井上に聞く。

――右手の状態はどうか。

「前回、痛めた左手と痛みが一緒。使わないとすぐ治ると思う」

――スタミナはつかめたのではないか。

「ハイペースでの10ラウンドとなると、ぶっちゃけ厳しいかもしれない。でも今日は自分のペースでへばることなくできた」

――左手1本で攻めるには戸惑いはあったか?

「どう組み立ていいのか自分で戸惑った。足を使ってみたりもしたけれど」

――多彩に打ったが。

「パンチが流れた。そこも課題」

――判定でいいんだとは思わなかった?

「正直、どこからで仕留めないと行けないという気持ちが強くあった。注目されていた試合だったこともあるけれど、ぼくはアマ時代から相手を倒すボクシングをずっとイメージしてやっている」

――打たせずに打つ。頭を使った理想には近づいているか

「まだまだ未熟。打ち急いでいいパンチももらった。8オンスのグローブであそこまでまともにもらったのは初めて。いい経験になった。攻めながら相手が出てきたところでカウンターを決めなければならない。そこは修正していきたい。でも左手1本だけど距離をとって支配できたし、自分のボクシングは少なくとも半分はできた」

井上が正式にランキング1位となれば、大橋会長は、指名試合としてライトフライ級の日本王者になったばかりの田口良一との試合交渉に入る。指名挑戦権は、もう一人の世界ランカーの方に先にあるが、そこは交渉次第だろう。私は、8月に予定されている村田諒太のデビュー戦とダブルでフジテレビが生中継するのだろうと見ている。

さて、今の時点で、井上に今後、世界挑戦すればという仮定で、さらに高いレベルを求めるとすれば何になるのだろう。左手1本で戦った試合を論じるのは難しいが、元WBA世界Sフライ級王者、飯田覚士氏が面白いことを言っていたので紹介したい。

「スピード、安定感、完成度のすべてが、非常に高いレベルです。ただ、欲を言えば、右手が使えないと相手にわからせるのが早すぎたのではないか。右をまったく打たないのではなく捨てパンチとして見せる。相手のガードをノックするだけでもいい。終盤に少し、痛めた右を囮に使い出したが、痛めてことを隠して、もっと早い段階で囮として使うべきだった。そういう嫌らしさが、世界を狙うなら必要になってくる。もし今日、相手が世界王者なら、どうなっていたでしょう?」

なるほどである。ちなみに飯田さんも、ヘスス・ロハスとの世界タイトル戦で、5ラウンドに右肩を脱臼したことがあった。

『RONSPO』編集長

サンケイスポーツの記者としてスポーツの現場を歩きアマスポーツ、プロ野球、MLBなどを担当。その後、角川書店でスポーツ雑誌「スポーツ・ヤア!」の編集長を務めた。現在は不定期のスポーツ雑誌&WEBの「論スポ」の編集長、書籍のプロデュース&編集及び、自ら書籍も執筆。著書に「実現の条件―本田圭佑のルーツとは」(東邦出版)、「白球の約束―高校野球監督となった元プロ野球選手―」(角川書店)。

本郷陽一の最近の記事