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植松聖死刑囚の主張を全否定できない人へ 社会と自分の「黒い部分」とどう向き合う?

原田隆之筑波大学教授
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

「開けられたパンドラの箱」

 死者19人、負傷者27人という犠牲者を出した神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園事件」から、この26日で4年目を迎えた。裁判では、今年3月死刑が確定し、植松聖死刑囚は拘置所で執行を待つ身である。

 今からちょうど2年前の同時期、植松聖死刑囚の手記などを掲載した書籍『開けられたパンドラの箱』が出版された。

 事件が急速に忘れ去られていくなかで、このまま風化させてよいのか、社会は何か変わったのだろうかという問題意識を込めての発刊だった。しかし、その一方で厳しい批判もあった。

 たとえば、ある大学教授が出版中止を求めて、2千人の署名を集めて出版社に抗議したという。

 「間違った考えが広まるのではないか」という障害者の家族などによる懸念や、出版によって本人に何らかの社会的評価や実績を与えてしまうのではないかという疑念が、その批判の根底にある。

 

変わらない植松死刑囚の主張

 まず、本書を読んで感じたのは、植松死刑囚が一貫してその主張を変えていないどころか、それがますます強固になっていることである。その異様さや突飛さには病的なものすら感じさせる。

 植松死刑囚の主張のなかで一貫しているのは、「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい」というiことである。これは、犯行時からまったくぶれていない。

 彼はこのような人々のことを「心失者」という造語で呼び、事件の舞台となったやまゆり園で彼自身が職員として働くなかで、このような「思想」を持つに至ったという。

 手記のなかで、彼は具体的なケースとして、「何もできない者、歩きながら排尿・排便を漏す者、穴に指をつっこみ糞で遊ぶ者。奇声をあげて走りまわる者、いきなり暴れ出す者、自分を殴りつけて両目を潰してしまった者」(原文ママ)などと列挙し、「彼らが不幸の元である確信をもつことができました」と主張する。

 このような醜悪な主張は、当然ながらまったく許容することはできないが、その一方で、私自身の心のなかにも、一抹の不安がよぎるのを感じないではいられなかった。

自分の心のなかを見つめて

 かつて、大学の教え子が知的障害者施設で働き始めたとき、仕事の大変さを切々と聞かされたことがある。

 私はその実情を聞いたとき、「果たして自分にそれが務まるだろうか」と自問した。植松被告の手記を読んだとき、私はこのときの自分を思い出したのである。

 そして、本書に掲載された2人のインタビューを読むと、障害者に対する社会のあり方について、さらにきれいごとだけでは済まされない現実に直面させられる。

 まず、やまゆり園の家族会代表の尾野剛志氏のインタビューでは、「子どもが津久井やまゆり園にいるのに一度も来ない人がいる」「障害を持った人が亡くなった時に、家族がお墓に入れないという例もある」(原文ママ)という現実が述べられている。

 また、自身も重度の障害者である海老沢宏美氏は、事件についてショックを受けたと述べながらも、「でも一方で、事件が起きたことに対しては驚かなかったというのが正直なところなんです。私は、重度障害者として生きてきた中で、ずっと差別をされてきました」と告白する。

 さらに、「障害を持った子が生まれてきたとなると、周りから絶対におめでとうと言われないんです」「生まれた瞬間から障害者って歓迎されていないんですよ」「いないほうがよいと思っている人が実はたくさんいるんですね」と述べる。

 このような現実を知るにつけ、私もそして社会も、程度の差こそあれ、どこか植松死刑囚の主張と地続きであるような障害者に対する違和感、戸惑い、さらには差別、偏見などを抱えてはいないかという不安を打ち消すことができない。

 誰も表立ってはそんなことを口にはしない。また、多くの人々が、事件を受けて大きなショックや怒りを抱いたのも嘘ではないだろう。

 しかし、事件が起きるまで、言葉は悪いが、人里離れた施設に知的障害者が「隔離」されるかのような現状であったことを誰も知らなかったし、障害者の問題は多くの人々にとって「他人事」であったことはたしかである。

 事件を受けても「かわいそうだね」「ひどいね」と口にはするけれど、やはり他人事であり、4年が過ぎた今は、それもきれいさっぱり忘れ去られようとしている。

遠いところで起きた事件ではない

 そして、この事件と相似形とも言えるような問題が、社会には絶えることなく起こっている。まさに事件が2年目を迎えたタイミングで起こった杉田水脈衆議院議員による「LGBTは生産性がない」という差別発言は、その代表的な例である。

 植松死刑囚は、「心失者」は社会にとって大きな負担であり不幸の源であるから、抹殺してよいと主張する。

 一方、杉田議員は、『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題した文章のなかで、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と主張し、このままでは「社会の秩序が崩壊する」と述べる。

 また、元アナウンサーの長谷川豊氏は、「自業自得の透析患者を殺せ」という主張をして、大きな問題となった。つい先ごろは、難病の女性への嘱託殺人で医師が逮捕されたというニュースがあった。この医師は「高齢者は見るからにゾンビ」「寝たきりの高齢者などへの医療は社会資源の無駄」「どこかに棄てるべき」などという主張を、SNSなどで繰り返していたと報じられている。

 本書にインタビュー記事を寄せている和光大学の最首悟名誉教授は、自身も障害のある子を持つ親として、「まず私が問題にしたいのは、植松青年が人間の条件というものを定めるところです」と述べている。

 植松死刑囚は、「心失者」は「人間の条件」に当てはまらず、生きている資格がないと主張する。

 同様に、杉田議員や長谷川氏も、そして嘱託殺人の医師も独善的な「人間の条件」を定めて、「生産性のない者」「自業自得で税金の無駄遣いである者」などを差別する。いずれも自分たちが社会の役に立たないと決めつけた人々を切り捨てる優性思想であり、ヘイトスピーチである。

 さらに、やまゆり園事件の際にも、SNS上には植松死刑囚を英雄視するようなコメントが数多く寄せられていたし、杉田議員を支持する声も本人のツイッターなどにはたくさん寄せられていた。

 程度の差こそあれ、このような言動はグラデーションをなして連続したものであり、もしかすると、そのどこかに私も、われわれも、つながっているのかもしれない。

 もちろん現実に殺害行為に至った者と、差別発言をした者やそれを支持する者を同列に扱ってはいけない。重大な刑事事件を起こした者の行為は、厳しく罰せられるべきである。また、一般の人々の軽率な発言より、国会議員の発言のほうがはるかに責任が重い。

 しかし、植松死刑囚の主張を聞いて、自らを、そして社会を振り返るということは、凄惨な事件を機に社会がどう変わるべきかという問いへのヒントを与えてくれるかもしれない。

 本書を発行した月刊『創』の篠田博之編集長は、以下のように述べている。

 犯罪とは、何かの意味で社会に対する警告と言える。社会が今どんなふうに病んでいるのか、それを示した犯罪に私たちがどう立ち向かい、どんな対応をするのか。それまでの社会システムをどう改めて、悲惨な犯罪が起こらないように予防していくのか。この事件の投げかけた問題に、果たしてこの社会は応えることができるのだろうか

社会は悪化しているのか

 本書のなかで、精神科医の香山リカ氏が「今はあからさまに『そんな人たち(注:障害者)は迷惑なのだ、存在してもらっては困る』とはばからずに言うという、そういう雰囲気もある」と述べて、「希望が無い」と悲観している。

 たしかに、SNSの時代になって、誰でも匿名をいいことに好き勝手なことを主張できるようになり、ネット上は醜悪な発言であふれている。

 ただ、これは人々がこぞって悪人になったというよりは、誰もが皆、心のなかに密かに抱えている「黒い部分」が発現しているだけなのではないだろうか。

 つまり、ネット上でヘイトスピーチを平気でする人々の大部分は、名前のある表の社会では、良識ある社会人として「差別はいけない」と「白い部分」を出して日常生活を送っている。そして、ネットの匿名の世界では、「黒い部分」をこれでもかと露わにする。

差別とどう向き合うべきか

 もちろん、ある程度の差別があったほうがよいと言っているわけでは決してない。しかし、現実的に見て、人間は多かれ少なかれ差別的な存在だ。

 まずは、その現実を直視しなければならない。「差別はある」というところから議論をスタートさせないと、空虚な理想論に終わってしまう。

 差別をあたかもないことのようにして、世界が真っ白であるかのような幻想に浸り、黒い部分を直視することを回避しているのが、現在のわれわれの社会である。

 メディアも、事件にセンシティブな問題が絡んでいることを察すると、途端に報道がうやむやになってしまう。

 その帰結の1つが、SNSでのヘイトスピーチの氾濫に見られるような「黒い部分」の噴出であり、「やまゆり園事件」のような極端なヘイトクライムだったのかもしれない(もちろん、この犯罪をこうした社会的要因だけで語ることはできない。そこには植松死刑囚自身のパーソナリティ要因や生物学的要因などを併せて分析する必要がある)。

 その意味で、植松死刑囚の手記の発刊には大きな意義がある。彼一人を死刑にしても、その言論を封じて見ないふりをしても、世の中から差別や醜いヘイトはなくならない。

 「社会全体の問題」「自分自身の問題」として、この犯罪と直面し、自分自身の内なる声を聴き、分析することによって、極端な憎悪やヘイトクライムを防止するすべを考えていかなければならない。

 その主張が本になったくらいで、影響を受けて同様の考えを持ったり、犯罪をしたりする人々が増えるならば、人間なんて所詮そのようなものなのだ。

 しかし、私はそうとは思わない。

 醜悪な主張をなかったかのようにして社会のどこかに埋めるのではなく、まずはそれと向き合って、「社会全体の問題」「自分自身の問題」としてとらえ、理性と倫理観をもってそれを克服しようとする人間の力を信じたい。

 人間はそもそも差別的ではあっても、それを自らの力で克服しようとするところもまた人間の真実であり、そこにその偉大さがある。

 そして、その端緒となることは、まず自分のなかの差別的な部分と向き合うことだ。そして、それと同じくらい大切なことは、自分のなかの「マイノリティ的な部分」「弱み」と向き合うことだ。

 そもそも、人間は誰しもどこかに「マイノリティ的」な部分を持っている。障害と認定されるほどではなくても、心身の故障があったり、そうでなくてもどこかに「弱み」を抱えている。また、年齢を重ねるに従って、誰しも心身の「弱み」は増えてくる。

 差別的な人は、自らのなかにある「マイノリティ的」な部分を恐れ、声高に「自分はマジョリティの側にいる」と叫んで、マイノリティを殊更に差別することで、自分が差別される側になる恐怖を紛らわそうとしているのだ。

 多様性を認めるということは、弱い誰かを受け入れてあげましょう、守ってあげましょうということだけではなく、自らの「普通でない部分」に向き合い、それを認め、受け入れることから始める必要がある。

 やまゆり園事件を受けて、「ひどいね」「差別はよくないね」などと言うことはだれでもできる。それはあくまで「他人事」としてのとらえ方だ。

 本書はたしかに「パンドラの箱」を開けた。その箱のなかを覗いたとき、そこに自分の顔はなかっただろうか。

(本稿は、事件から2年後、手記の発表時に「現代ビジネス」に発表した記事に加筆修正したものです)

 差別とは何か?「社会の役に立たない人間は無価値」と信じる人たちへ」

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

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