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ウィズコロナ時代のわれわれの「こころ」:社会を疲弊させる「隠喩」とは

原田隆之筑波大学教授
(写真:アフロ)

感染者への中傷や差別の蔓延

 新型コロナ感染症の蔓延が拡大するなかで,さまざまな誹謗中傷や差別がクローズアップされています。それは大まかに分けて,感染者に対する差別,医療従事者や配送業者など社会機能の維持のために働く人々への差別,これらの人々の家族に対する差別,さらには外国人への差別などあります。

 これらの差別を助長した責任の一端は,マスメディアにもあるといえるでしょう。ニュースやワイドショーは,感染者の年齢,居住地,職業などのほか,感染前後の行動を事細かに報道し,視聴者に怒りを焚きつけているかのような報道ぶりでした。そしてそれを見た人々は感染者を特定しようとして,名前や顔写真などの不確かな情報をSNSで拡散するような動きまでありました。

 マスメディアも最近は反省したのか,日本新聞協会と日本民間放送連盟が「新型コロナウイルスの感染者や医療従事者らへの差別,偏見がなくなるような報道を心掛ける」とする共同声明を発表しています。

 このような動きを見ていると,コロナに感染するよりも,感染した際の誹謗中傷や差別がこわいという気持ちになっている人も多いのではないでしょうか。

隠喩としての病

 スーザン・ソンタグは,自身ががんにかかった体験をもとに,人は病気がもたらす身体的苦痛だけでなく、その病気への隠喩による社会的意味によって二重に苦しめられると述べています。これはがんだけでなく,かつては結核やハンセン病,最近ではHIV感染症などに対してもいえるでしょう。

 たとえば,HIVは当初は男性同性愛者の病気であるとされ,性的放縦さが原因であると非難されました。HIVに感染したということは,「不埒な性行動を繰り返していた同性愛者である」という「隠喩」がついて回ったのです。もちろん,それが正しいかどうかは後回しです。こうして,病気そのものよりも大きな意味を持つようになった隠喩によって差別され,深く傷つけられるという事態に陥ります。

 もっと最近の例では,ある元アナウンサーが「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」という暴言を吐いたことを思い出します。彼の主張は,透析が必要になったのは暴飲暴食などの結果であり,「自己責任」だということでした。そして高額な医療費をわれわれの税金で負担するのは容認できないので,自己負担できないなら死んでしまえという暴論です。ここでも,腎臓病などに対する差別的で暴力的な隠喩が込められています。

コロナと隠喩

 新型コロナ感染症にも同じことが起こっていないでしょうか。

 「みんながこれだけつらい自粛をして感染しないように気をつけているのに,無責任な行動や自分勝手で気ままな行動をしていたから感染したのだ」「感染を周囲に広げたことは,社会への脅威でありテロのようなものだ」。このような批判や誹謗中傷がSNSにはあふれています。

 感染して番組を休んでいたニュースキャスターは,番組復帰の際に,感染前後の私的な行動をあたかも懺悔のように事細かに報告しました。そうでもしなければ視聴者の怒りは収まらないと思ったのでしょうか。事実,たくさんの「お叱りの言葉」が届いたそうです。

 攻撃の対象になるのは個人だけではありません。少し前はパチンコ店,そして今はホストクラブなどが批判の槍玉に上がっています。ホストクラブなど接待を伴う飲食店に関しては,「夜の街クラスター」なる言葉が独り歩きして,コロナ=社会を乱す厄介者という隠喩がますます深く色濃くなりつつあります。

人々の恐怖心

 真夏日すれすれの炎天下,ほとんど人通りのない住宅街でも,マスクをして歩いている人がいます。これは感染を恐れているというよりは,マスクをしていないことを誰かに見とがめられることを恐れているかのようです。

 再開された学校では,教師がマスクをし,フェイスシールドを装着したうえで,ビニールシートの向こう側で授業をしています。これを過剰だと言ったら怒られるでしょうか。できる限りの防御策を何重にもすることが大切なのでしょうか。しかし,それは感染防御というよりは,万一感染が起こってしまったときの批判からの防御が目的になってはいないでしょうか。

 どれもこれも,コロナよりもコロナの隠喩が怖いのです。いまやコロナは「社会的に恥ずべき病気」であるかのように扱われることもあり,病気になったことの「自己責任」が厳しく問われる病気となっています。われわれは新型コロナ感染症という病気そのものよりも,その病気が持つ社会的隠喩に恐れ,疲弊しています。

隠喩の生まれる理由

 それではなぜこのような病気にまつわる隠喩と,それに基づく誹謗中傷や差別が生まれるのでしょうか。

 その核心にあるものは,病気に対する不安です。不安については前回の記事で触れましたが(コロナと不安と心のケア),それはわれわれの健康や生存を脅かすものに対する生物的な感情です。われわれの存在にかかわる根源的な感情だとも言えます。

 それは感情ですから,理性的なものではありません。強い感情によって理性的な判断が曇っている人は,物事を理性的,論理的に理解することができなくなります。これまでも数多くの研究が,不安や抑うつ状態にあるときはわれわれの判断力や思考力が低下することを示しています。

 コロナ感染症が未知の恐ろしい病気であることはたしかですが,感染者を責めることで感染が収束するのでしょうか。われわれの不安が一時的に紛れるだけではないでしょうか。

 コロナの予防には,ソーシャルディスタンス(社会的距離)を取ることが大切だとされています。しかし,コロナの恐ろしいところは,その病気の症状だけでなく,それに付与された隠喩によって,われわれの心の距離までもが引き離されてしまうことです。

前回記事「ウィズコロナ時代のわれわれのこころ:コロナ不安と心のケア

 

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

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