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田中角栄さんの尽力で生まれた地震保険、成立の歴史と産みの苦しみ

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(ペイレスイメージズ/アフロ)

火災保険では補償されない地震損害

地震や噴火、これに起因する津波などによって生じた建物の火災や損壊などについては、残念ながら、火災保険では補償されていません。このため、地震などに備えるには、火災保険に付帯されている地震保険を契約する必要があります。地震保険は、「地震保険に関する法律」に基づいて、政府と損害保険会社が共同で運営しています。地震保険で補償されるのは、地震や噴火を直接または間接の原因として、建物や家財が火災、損壊、埋没、流失した場合になります。

地震保険成立までの産みの苦しみ

地震保険は、民間保険会社では取扱いにくい保険商品のようです。そもそも被害を及ぼすような地震は滅多に起こらないため、地震は損害保険の基本となる「大数の法則」に則らないようです。また、被害の大きさが、人口の集積度や発生時間、場所によるハザードの違いなどもよって大きく変動します。場合によっては、損害が異常に巨額となる可能性もあるため、短期での収益を重視する民間会社では、取り扱いにくい保険商品です。ましてや、世界有数の地震・火山噴火がある日本ですから、海外の再保険会社には引き受けてもらえないため、国の関与が不可欠です。このため、地震保険が生まれるまでには、紆余曲折があったようです。そこで、損害保険料率算出機構がまとめた「日本の地震保険」を参考に、地震保険のできるまでの歴史を振り返ってみます。

明治期の地震保険への取り組み

わが国での最初の地震保険の提案は、古く1878年に、ドイツから御雇外国人教師としてやってきた政治経済学者のポール・マイエットが提案した国営の強制保険制度でした。1881年に地震、火災、暴風、洪水、戦乱の5つの災害を扱う「家屋保険法案」を提案しましたが、民営保険制度を主張する内務省の反対で認められませんでした。

1890年には、旧商法第666条に、地震保険も火災保険と同視すべきとの判断で、地震保険も規定されたのですが、残念ながら、1899年の改正で震災についての規定は削除されました。この間に、1891年濃尾地震、1894庄内地震、1896年明治三陸津波、陸羽地震などの大地震が続発したことが関係しているかもしれません。

関東地震と地震保険

1923年に関東地震が発生し、損害は当時の国家予算の3倍以上の約50億円にもなりました。被災建物につけられていた損害保険会社の火災保険の保険金額は、合計16億円程度で、損害保険会社の総資産2億円程度の8倍もありました。地震による損害は免責になっていたのですが、余りの甚大な被害のため、火災保険金の請求運動が活発になりました。当然ですが、保険会社には支払義務はありませんし、支払能力もありませんでした。ですが、見舞金として7500万円程度を拠出することになりました。そのうち、6354万円は政府からの借り入れでした。現在では7兆円にも相当する大変な額でしたが、その後のインフレもあって、1950年3月には完済できたようです。

関東地震や、その後の1925年北但馬地震、1927年北丹後地震、1930年北伊豆地震、1933年昭和三陸地震津波の被害を受けて、1934年に、商工省が火災保険に地震保険を強制付帯する地震保険制度要綱案をまとめましたが、損害保険業界が反対して法案を出せなかったようです。

戦時下の地震保険

戦時下の1944年に、戦時特殊損害保険法による地震保険が成立し、1944年4月から1945年12月まで地震保険が運用されました。保険契約は保険会社が行い、政府出資法人の損保中央会が全額再保険を引き受け、無制限の損失補償をすることになっていました保険金額の限度額は1戸または1世帯について5万円でした。しかし、この20か月の間に1944年昭和東南海地震と1945年三河地震が発生し、保険料収入8750万円に対し、支出が2億3900万円にも達したようです。

戦後の地震保険の議論

終戦直後、1946年南海地震と1948年福井地震が続発し、大きな被害を出しました。このため大蔵省は、1949年に、火災保険に地震保険を強制的に付帯させる地震保険法要綱案が作りました。ですが、損害保険業界から強制保険制度に対する反対意見が出たため、閣議決定には至りませんでした。一方、損害保険協会は、1952年に地震風水害保険特別委員会を設置して地震保険案を作りましたが、政府が再保険を受けるめどが立たなかったようで、これも成案には至りませんでした。

その後、1960年代に入って、高度成長や国際的な自由化の流れの中で、保険審議会で損害保険の補償範囲の拡大の議論が行われ、地震保険も対象になりました。そこで、1963年1月に専門委員会を設置して地震保険の検討が行われ、1964年4月に地震保険引受要綱として2つ案が策定されました。第1案は、住宅総合保険の契約時に地震保険にも強制的に定率加入させるもの、第2案は契約者の意思で地震保険を任意で定額付帯するものでした。そして、その直後の1964年6月16日に新潟地震が発生しました。

新潟地震と田中角栄

新潟地震の発生したときは、ちょうど、衆議院の大蔵委員会で保険業法改正法案が審議中でした。この改正法案は6月19日に可決されたのですが、「すみやかに地震保険等の制度の確立を根本的に検討し、震災国というべきわが国の損害保険制度の一層の充実を図るべきである。」との決議が付帯されました。

この時の大蔵大臣は被災地・新潟県選出の田中角栄でした。田中角栄は当時まだ46歳、大蔵大臣には1962年に就任していました。田中大臣は、7月13日に保険審議会に対して「不時の震災に際して国民の生活安定に資するための具体的方策について」の諮問をしました。田中大臣が地震保険の必要性を主張し、政府が再保険を引き受けることを決断したことが、地震保険の制度発足につながったようです。

地震保険の成立

1966年5月18日に「地震保険に関する法律」が「地震再保険特別会計法」と共に公布・施行され、1966年6月1日から地震保険が発売されました。あわせて、再保険のため、日本地震再保険株式会社が設立されました。

地震保険に関する法律の第1条には、「この法律は、保険会社等が負う地震保険責任を政府が再保険することにより、地震保険の普及を図り、もつて地震等による被災者の生活の安定に寄与することを目的とする。」と目的が明記されています。このように地震保険は、被災者の安定に寄与することを目的とし、損害を全額補償するものではありません。

地震保険の成立当初は、住宅総合保険と店舗総合保険(併用住宅が対象)に強制的に付帯する方式がとられ、通常の火災保険には地震保険の付帯はできませんでした。保険の対象は建物と生活用の動産で、全損した場合だけ補償されました。保険の限度額は火災保険の契約金額の30%で、かつ建物90万円、家財60万円を加入限度額としていました。また、保険の総支払限度額は3000億円で、損保会社の負担は300億円、残りの2700億円を政府が負担することとしました。支払保険金総額が3000億円を超える場合には、これに応じて保険金が減額されることになります。

その後、多くの地震災害を経験する中で改善が進み、現在では、火災保険への付帯が可能となり、建物5000万円、家財1000万円、火災保険の30~50%を限度とし、全損に加え、半損(大半損、小半損)、一部損に対しても支払い行われるようになりました。また、総支払限度額は11兆3千億円、そのうち民間の負担金額は1822億円となっています。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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