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相手から「言葉」をひきだすためのインタビューのレッスン(下)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年5月29日に日本映画大学に招いていただいておこなった、ぼくの「講義」を公開します。もちろん学問的なものではなく、取材術的な経験談です。韓東賢准教授の「フィールド調査方法論」の一コマで、学生さんたちには、事前に拙著の短編人物ノンフィクション集である『壁を越えていく力』(講談社)の何編か読み込んでいただいており、質問を準備してもらいました。将来はドキュメンタリー等の世界へ進みたい学生さんが多く、彼らの質問や議論に大いに刺激を受けました。同大には過去に何度かおじゃまをさせていただいていますし、ぼくはいろいろな大学の「メディア関係」の学部」におじゃまをさせていただいていますが、同大では他大とは比較にならないぐらいの実践的教育(これがキビしい)がおこなわれていて、驚いています。文字おこしをしてくれたのは、同大の朝野未沙稀さんです。なお、質問者の学生さんの個別の名前は出しません。ぼくの話は加筆・訂正等をほどこして整理しました。小見出しは学生さんからの質問です。

■宇梶剛士さんのインタビュー記事を読んだときに僕は非常に物語的だなと思いました。身体的特徴から話が展開していく。藤井さんの他の人物ルポもそういう物語的な印象を受けます。なぜこのような書かれ方をされているのかっていうのを教えて欲しいです■

一つは、観察力の問題で、これは往々にしてあるんですけど、映像の方は観察力が鈍い方が意外にいます。これはなぜかというと、カメラでえんえんと撮っているから、カメラが撮ってくれているだろうと、あんまり細かいところを見ない人が割といます。細かく見る人もこれももちろんいますが、映像と活字では伝える情報量が全く違いますから、活字は映像にはかなわないから、がんばって観察するのです。表情の描写とか、あなたがおっしゃった宇梶さんの背格好は、映像の方が伝える力は圧倒的にあると思う。そこに文字で対抗するためには観察力しかないんです。観察をして、その人の身体的特徴とか、その人の癖であるとか、というものを何らかの切り口にして広めていけないかなというふうに僕は考えています。

ノンフィクションの場合は絵を描くように書くというのが一つの考え方としてあるわけです。その人の面貌であるとか、見た目であるとかいろんなことを細かく見る。で、それを言葉に置き換えなきゃいけない。映像の場合はそのまま出せば伝えられる。文学でもノンフィクションも違う言葉に置き換えなきゃいけないけれど、それはその人の表現力や語彙やフィルターとか、どういう編集をして言葉に置き換えるかということになってくる。それがずしも「正しい」かどうかも分からない。僕みたいに語彙が乏しいと、もっと他にいい語彙があるかもしれないといつも思います。そういうことを補うためにも観察をするというというもありますね。記者会見なんかいくとテレビはだいたいのバストアップを撮るんだけど、観察力のあるカメラマンは足元撮ったりする。すると貧乏ゆすりしたり、手元をとると凄い震えてるとか、それを織り込んで編集していくととっても全然全体のイメージが変わってきます。

宇梶さんは『不良品』という自伝本があるんです。それと同じことを書いていたら駄目だという思いもありました。もちろん被る部分はしょうがないけれど、全体として同じようなモチーフになっちゃったら、おもしろくない。宇梶さんだったら子どもの頃からグレてきて、暴走族になって、美輪明宏さんに見出されて、そこから花開いていくみたいな。サクセスストーリー的なものはあるんですけど、その中で切り取られていない断面が沢山あると思ったわけです。その一つが、彼がなぜいつも猫背のようにして座るのかという僕の疑問があった。で、それを彼に聞いたら、待ってましたみたいな感じになったんです。そこなんです、僕が1番聞いてほしかったのはみたいな。でもその質問に至るまで、二人であちこちですっげえ酒飲んで、公演旅行についていってかなり長距離の旅しました。二人で朝まで飲んで、ぶっ倒れたことも一度や二度じゃない。で、あるときに富士山の麓の宇梶さんがすごく信頼する陶芸家が住んでいて、そこに呼ばれた。青木ヶ原樹海の近くにあります。そこに行ったら元アナーキーのメンバーの人とか移住しててコミュニティみたいなにてっていた。その話は書かなかったけど、そこで僕も一晩みなさんと飲んで、翌日かな、藤井さん今日何聞いてもいいからみたいな感じで宇梶さんが声かけてきた。それまではかなり長い時間をともにしてましたが、日韓共催ワールドカップの日本戦の試合を東北のすごく田舎にあるゲイバーで観たり、どこかのサッカーバーで観たりしながら、関係ない話をずっとしてました。それは多分、向こうがこっちを観察していたと思う。こいつは、どういうやつなんだみたいな。そういうことって往々にしてあります。逆にむこうが、ほんとに自分についてこれるのかみたいなふうに観察している。本当に俺の日常に付き合えんのかな、この取材者は、と。試されてるんです。

■要らない部分と要る部分はどうやって分けているんですか■

難しいです。ケースバイケースといか言いようがないんです。通常、10取材したら1使うというのが割とノンフィクションの場合でいわれていることです。だけどこれは昔ながらの1つのセオリーなんですが、別に僕は10取材して3書いてもいいし、10取材して10使っても僕はいいと思うんです。例えば僕は今、AさんならAさんを取材しています。じゃあその人をなぜ取材して、その人をなぜ伝えたいと思って、その人のどこが面白いと思ったか大体3分以内で説明できるようになれば、取材していくうちにポイントを自分の中に整理していっているということじゃないのかなと思うんです。その喋った3分が話の核になります。企画とかをプレゼンするときも3分くらいでしなきゃ相手が飽きるでしょう。これが10分かかったり30分かかったりすると何が面白いかよくわかんなくなる。そうなるとたぶん本人がどこが面白いか混乱している。そこを基準に考えればおのずと、要る部分要らない部分の区別はついてくるのかなあと思います。

■掘り下げたらなんか出てきそうだなみたいな、それって失敗した時っていうのはあるんですか■

もちろん、あります。その最後の方まで核心に触れていないなあということはあります。「仮説」もあまり、いい意味で変わらないとこもありますし、意外に仮説通りでつまんないっていうこともあります。しかし、形にしなきゃいけないから難しいところではあるんです。ケースバイケースなのでそこにもマニュアルみたいなものは無いんですけれども、逆に言うと、自分の直感が裏切られたことを例えばそのまま素直に書くという方法もあるのかなと。本来はこう思ってきたけど、実は普通の人間だったみたいなとか、何を聞いてもはぐらかされるような答えだったとか、そういう過程そのものを書くというテもある。

それを補うという意味ではないんですけど「場面」をなるべくつくるようにする。喫茶店や応接室みたいなところで1対1でインタビューするより、移動してどこかの現場に行きますよね。その人が普段居る職場だったり、仕事場だったり、なんか思い出の場所だったりとか、そういったところを一緒にまわる。そうすると「場面」が出来ます。たくさん。その「場面」を上手く組み合わせていくと、構成がしやすくなるということはあると思います。その場でしか見せない顔とかその場でしか喋らないこととかが絶対にあります。

その人のテリトリーになるべく入った方がいいです。どっか飯食いに行こうって話になったら、その人がいつも飯食ってるところに行くべきなんです。そうすると例えば、その人の知り合いとかいっぱいいたりするし、その人たちからも話を聞けるし、その人と僕が取材している人との会話も僕は聞けるわけです。食事するときっていうのはすごくチャンスなんです。以前、写真家の荒木経惟さんと2年以上、雑誌連載の仕事した時に聞いた話なんですが、荒木さんは昼間からよくビールを飲む。で、あるとき彼にNHKのカメラクルーやスタッフがついて同行取材がついたのだけど、で、NHKの人に喉乾いたからビール飲もうって店に入ろうとしたら、NHKの人は仕事中ですからって断ったんですって。(笑)

NHKだからしょうがないけど、そこはいっしょに飲んで、その画も撮るべきなんじゃないかって。もったいないなあ、と。森達也さんを取材したときに、とりあえずオウム真理教の本部のマンションへ行ってみようと、世田谷区の南烏山に行って喋ってたんです。オウムが入居しているマンションには「オウム帰れ」という横断幕があって、森さんが説明して、それをカメラマンが写真撮ってたら、向こうから「森さーん」と声がして、森さんが撮ったオウムのドキュメンタリー「A」の主人公の荒木広報部長が出て来た。そこから彼らの会話が30分ぐらいあって、それを全部僕は丸々頂きました。「場」は思わぬ色んな化学反応というか、予想外のことが起きてくる。余白とか想定外のこととかそういったところにオイシイところがあることが多いので、そこを逃さないようにすることが大事かなと思うのです。その取材対象者といっしょにいる「現場」に立ち会えているのは、取材者である自分しかいないという「旨味」を最大限に生かす。

■藤井さんの書かれた人物ルポの中に、レイプを受けられた方のルポがありますが、心にトラウマを抱えた方の取材をしているときに、多分そういう方って一番最初にももう、悲しいと思うんですけど、掘り起こすわけじゃないですか、相手の嫌な思い出を。で取材対象者をどんどん掘り起こしていくうちに、もういやだ、取材もう無理みたいな状態とかはあるんですか■

ありますよ、もちろん。じゃあ、そのときは中断して、終わって、また、問題は「次」があるかどうかです。こちらペースにするのではなく、人物取材は相手ペースだし、本来どんな取材も相手ペースなんですが、相手に合わせることです。特にそういった辛い体験や経験を聞く場合はそうです。僕は犯罪被害者の本もいっぱい書いてますけど、やっぱりどういうふうに「待つ」かということと、あとはやっぱり相手がこれ以上話したくないって正直に言える関係が先にあるってことが大事だと思います。頑張って無理して喋っちゃう人も多いから、そこをちゃんと言える関係になっておくということ。

■真摯に、しつこく、対象者に接していくということなんですけど、その作品で仕事が終わった後、その対象者とはどういう関係を築いていくのかその先、あとそのずっとかけてきたものが半年かけてきたものが終わった後、また新たな対象者を見つけるまでのモチベーションみたいなものを聞きたいんです■

取材者やライターのタイプによって違うと思いますが、一期一会で表現したら終わりっていう人もいます。僕の場合は取材した人はそのあと仲良くなっていて、プライベートでも会っています。多少傲慢な言い方をさせていただくと、取材を受けた側にとって、「取材」という行為が非常に稀な経験で、得難い、良い時間だったということにもなるのかなと。精神科医の名越康文さんが言ったんだけど、「藤井に取材をされたのが一つの人生の経験である」みたいなことを、『壁を越えて~』の帯にほんとうは使う予定でした。僕はすごく嬉しくて、短い時間でも、濃密なタブーのない会話を繰り返すというのは得難い経験だと思うんです。そこでいい関係を切り結ぶことが出来るとは思うんです。ただ、逆もあって、書いたものが気に入らないとか、間違いが多いとか、という理由で関係が壊れていることもありえるでしょう。

僕はかなり慎重に相手の言葉は書くようにしています。言葉のニュアンスってすごく難しい。映像は喋った人の言葉を編集すれば「生」のまま出せるけれど、もちろん編集することによって恣意的な加工はできますが、活字に置き換えるとかなりニュアンス変わったりすること多いんです。相手が言っていることを文字にすると、こんなふうじゃないっていうことっておうおうにしてあるんです。そこは僕はすごく慎重にやってます。ちゃんと録音をして間違えないようにきちんと再現することが大事なんですが、僕は人物ルポで相手と喧嘩しようと思ったりとか批判しようとして書いているものではなくて、相手を深く知りたい、それを社会に伝えようと思っているので、取材によって良好な関係が築けるのは幸いなことです。取材した時点というのはその人の人生の一時を切り取っただけだから、そのあとの変化にも興味がありますし、それを取材者として見届けたいという思いもありました。森達也さんや名越康文さんとは共著本までつくる仲になりましたから。(笑)

■藤井さんに質問をしたら、仕事柄か、じっと強い目線で返されるかと思ったら、意外と目線を合わせられない。それが意外でした■

眠いからです。冗談です。(笑)僕は相手のインタビュー中に相手がしゃべるときは、僕は相手を見てます。だけど自分が喋っているときは割と目はあちこち見ています。目を合わせません。喋っているときも聞いているときも見つめられてたら、お互いやりにくいかなと。うまく目線を切ったりとか、考える時は大体、ちがうところを見たりとか足元見たりとかするほうがラクなんです。

■藤井さんが取材対象者に会う時とか取材に行くときに、まあ他の取材者が持っていかないもの、自分はこれを持っていくみたいな、その仕事でのアイテムって言うんですか、そういうものはありますか■

特にお土産持っていくとか、これを持っていけば一発で掴めるぜ、みたいなのはありません。よく組んでいるディレクターで必ずプリンを持って行く男がいるんですけれど、そのプリンはわりと場を和やかにしますが、決定打にはならない。(笑)

佐野真一さんが書いた『あんぽん』というノンフィクションがあります。孫正義さんの自伝的ノンフィクションなんですけど、彼は単行本を書く時に、孫正義へインタビューを二回しかやってないんです。世界一忙しいくらいの人だから、二回会うのも結構大変なんです。で、その1回1回は90分くらいらしいんですけど、最大限に引き出すためにはどうしていたかというと、インタビューの前に彼のルーツの朝鮮半島の曽祖父くらいまで会いに行っているんです。孫家の本家の墓まで行っている。で、孫家の一部の人しか知らない山の中まで入っていった。そういうのがまず、大きな土産話になりますよね。そうすると、佐野さん、そんなところまで行ったんですかみたいな話になる。それでその時に家系図みたいなものを地元の人から預かった。日本に行ったら正義さんに、ぜひ見して欲しい、で、孫一族はあなたを待っています、というメッセージまで託されるんです。孫さんは、それを見せられて、これは初めて見ましたみたいなふうに驚く。そこから話しが弾んでいく。どんな質問よりも、いい「土産」が質問になるという好例だと思う。それから2回目のインタビューの時には、たしか、孫さんが生まれ育った佐賀県の鳥栖の、今のJR鳥栖の駅前にある在日コリアンの集落の地図を持って行った。当時、孫一家はそこで豚を飼っていて、バラックハウスがいっぱいあって、そこの中で家族が暮らしていた。その地図を鳥栖まで佐野さんは取りに行く。そんな地図よくありましたねという話になり、また盛り上がっていくわけです。孫さんがどんどん勝手に喋り出している。自分の過去の話とか思い出話とか、過去の記憶を。つまりはその地図なり家系図ってものが彼の記憶の引き出しをすごい勢いで開けているわけです。これを「土産」と呼んでいいのかわからないけれど、これは実は大事なところなんです。こういうレベルの「土産」は事前の取材がものをいうし、取材者の腕の差が出ます。だからこそ相手と会えるチャンスが少ない方を取材するときは、やっぱりその人のことを出来るだけ先回りして、本人より本人に詳しくなっていき、その過程で「土産」を得るわけです。

NHKで「ファミリーヒストリア」という番組をやっているでしょう。芸能人の過去4代くらいまで遡って、よく調べてますよね。自分の2代前3代前って分からないでしょう。そこまで調べると、見せられる方もびっくりしますよね。自分の曽祖父とか曾祖母ってこんな人だったんだみたいな。

僕は佐野さんの孫さんの家系図のレベルのものはなくて、例えば福本伸行さんだったら、福本信行初期作品集というほとんど手に入らないものがあって、それを全部入手して、持っていったら、福本さんはそれを読みだしたんです。うわー懐かしいって言って。で、そのうちの一個の作品が、実は自分の家族をモデルにした漫画だってことを初めて教えてくれた。決定的な「土産」のことを僕もいつも考えていますけど、なかなかない。でも、それはその人のことを先回りして、本人より本人について詳しくなろうと、いう準備の中で「お宝」は発見できる可能性は高いと思います。

■取材しているときに、半年かけて取材するとおっしゃったんですけど、その間は他の人を並行して取材したりとか、されますか。切り換えは?■

もちろん、します。人物ルポだけをやってるわけではないですし、複数の人を同時に取材することもあります。僕はこれまでラジオのパーソナリティやったりテレビのコメンテーターやったり、今もローカル局でコメンテーターをやっていますし、大学の非常勤講師もやってます。同時にいくつもの取材を並行してやってます。その時々に切り替えてやっていくしかないけれど、切り替えはなかなか難しいですね。一個のことに没入したりすると、そこの世界から帰ってくるのがなかなか大変です。切り替え方は人それぞれいろんな切り替え方があると思うんです。あんまり参考にならないかもしれないけど、ある人は机を変える。5、6個机があって、テーマを変えると机も変える、と。そんな贅沢な空間がある人だけですね。

■先ほどおっしゃっていたように、その犯罪被害者の方たちの取材ってあったとして、そういった取材対象者に感情移入しすぎちゃうっていう、でご自身の気分が滅入ったりすることはありますか■

人間ですから、あります、もちろん。どんな取材であっても対象者に感情移入しますから、その犯罪被害者だけじゃなくて犯罪加害者を取材する人だって、人間ですから、するでしょう。それぞれ重いものを取材対象から受け取ります。今でも仲の良い精神科医の名越康文さんは、精神科医なのになんかお寺に行けとか言いますし(笑)、神社に行けとかね。そうすると気分が変わるとか言います。それはそれで僕は正しいと思います。神仏に背負っているものを半分背負ってもらうという感覚ですから、手を合わせて祈るということは。

僕はどんな取材でも、そのあと黙々と歩きます。まあ車で行った場合はもちろん車で帰りますが、どこかで帰り道で一人でいる時間を作るんです。そこでいろいろなことを反芻します。一人で歩いているうちに自然に気持ちが切り替わっていったりすることはあります。知らない街にいったりすると、その地元の居酒屋に飛び込んで考えたりもします。取材したことを考え直していると、放心状態になることが多いです。しばらく、ぼーっとしてます。きちんと取材ができたという実感があると、その後もしばらく気持ちが高揚しているというか、ちょっとした興奮状態にありますから、それをすこし落ち着かせるためです。これはなんの役にも立ちませんね。(笑)

みなさんからの質問は事前に教えてもらってますが、皆さんからイレギュラーな質問が来たりして、僕の中の引き出しが勝手にあいて、全く準備していないことをいろいろ話をしました。用意して質問はもちろん大事なんですけど、その場で臨機応変に聞いていくことの楽しさとか、面白さのうほうが大事なんじゃないかと思います。僕もたまに大学生からインタビューを受けるんですけど、質問事項をずっと読み上げる人が多いです。一番すごかったのは有名私大の学生が10人くらいで来て、一人一問読みあげていった。僕が答えると、ありがとうございました、で終わり。はい、次の人ってなってびっくりした。それも1問1句間違えずに読む。横道にそれることも、寄り道もない。インタビューはそのライブ感の中で自分がどう楽しめるか、なのにそれがない。学生さんだから当たり前かもしれないけれど、箇条書きしてものを読んでいくって、質問しているほうがたぶん面白くないと思うんです。

先日、BS番組のリポーターとして沖縄に行って、メディアの幹部や、沖縄の自民党幹部や保守系の元政治家の人たちにインタビューしてきました。よく自民党からは「沖縄のメディアは偏向している」という声が聞こえますが、そういうことについて対立する立場の人たちにインタビューに行ったんです。ちょうど、反辺野古を訴えた「5.16県民大集会」の後で、とくに出民党は敏感になってました。いちおう簡単な質問事項を書いておくれというから送ってはいたのだけど、インタビューの直前に数日前の記事をすべて読んだら、ベタ記事で、自民党が県民集会についてのコメントを初めて拒否、というのが出てた。で、これを使おうと思って、自民党の幹部に会った途端、「なんで今回、自民党は3万5千人集まった反辺野古の集会でコメントを、初めて地元紙に出さなかったんですか。今までは一応出しておられたでしょう?」と水を向けたら、あとは質問する必要がないぐらい、どんどん話してくれた。地元紙への批判がえんえんと続いた。用意していた質問事項は忘れました。(笑)

臨機応変に対応できる方が、面白いインタビューが出来るんじゃないかと思いました。大上段に構えた「大文字」の質問をするより、「小文字」の質問のほうが会話のキャッチボールに入っていきやすいんです。

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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