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相手から「言葉」をひきだすためのインタビューのレッスン(上)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年5月29日に日本映画大学に招いていただいておこなった、ぼくの「講義」を公開します。もちろん学問的なものではなく、取材術的な経験談です。韓東賢准教授の「フィールド調査方法論」の一コマで、学生さんたちには、事前に拙著の短編人物ノンフィクション集である『壁を越えていく力』(講談社)の何編か読み込んでいただいており、質問を準備してもらいました。将来はドキュメンタリー等の世界へ進みたい学生さんが多く、彼らの質問や議論に大いに刺激を受けました。同大には過去に何度かおじゃまをさせていただいていますし、ぼくはいろいろな大学の「メディア関係」の学部」におじゃまをさせていただいていますが、同大では他大とは比較にならないぐらいの実践的教育(これがキビしい)がおこなわれていて、驚いています。文字おこしをしてくれたのは、同大の朝野未沙稀さんです。なお、質問者の学生さんの個別の名前は出しません。ぼくの話は加筆・訂正等をほどこして整理しました。小見出しは学生さんからの質問です。

■準備段階の時、この人たちをなぜ取材していこうと思ったのかを知りたいのです■

皆さんが読んで頂いた『壁を越えていく力』という本には11人のルポを入れてますけれど、本のタイトルを入れる時に、全体の共通点、つまり、ぼくかこの人たちを選んだ理由があるかどうか編集者と随分話し合ったんです。が、あんまり見つからないんです。なので、すごく雑駁に言うと、その時々に自分のアンテナに引っかかってきた人、というふうにしか言えないんですが、ただもう少し考えてみると、インタビュアーとしての直感なんですけど、社会で言われているその人のイメージ、例えばその人がとても「悪い」イメージだったり、例えばね、俳優の宇梶剛士さんが元暴走族の総長で、身長デカくて、っていうような一面的なテレビのくくられ方しかなくて、それは記号的なんです。暴走族、総長、喧嘩強い、俳優という「記号」みたいなものでしか見られていない、語られていないんじゃないかっていうことがあって、僕は彼の書いた『不良品』という自伝を読んだり、出演作品を観たり、語られつくされていない部分がいろいろあるんじゃないかっていうふうに思った。だからそういった社会での語られ方のその向こう側に何かを感じる人。マスコミ、とくにテレビは、人間をわかりやすいキャッチーなコピーで伝えてしまうけれど、でも本当は違うんじゃないかっていう直感で。必ず人間っていうのはどんな人でも「落差」があり、多面体です。その一面しか大体メディアはつかまえない傾向が強いので、ぼくの妄想含めて、「感じる」人です。あるいはこの人って社会では理解されてなさそうだなとか、あるいは自分がインタビューしたらもっとこういうふうに聞いてあげられるのになとか、いろいろな場面で「感じる」。そのときに「取材欲」がわくわけです。自分の直感としか言い様がない。その背景や過去を含めて「掘り甲斐」がありそうだなと感じるということです。

■取材対象者を決めてから、取材対象者にとって失礼が無いように準備をされると思いますが、どれくらい準備をしてから取材するんですか■

準備はし過ぎて悪いということは基本的には無いと思います。僕の場合は、相手が映画俳優なら作品を見る。漫画家なら漫画を読む。漫画家の福本伸行さんなんかは、麻雀漫画だけでめちゃめちゃ量があるんで、初対面までにぜんぶ読めなかった。間に合わなかった。もちろん代表作は読んで行きましたが。海堂尊さんも取材していますがあの人も膨大な作品があるんですけど、やはり初対面に間に合わなかったので、取材と並行しながらどんどん読み足していきます。それからその人が過去に受けたインタビュー記事であるとか、書かれたものであるとか、本人が書いたものとか、そういうものはインターネットや図書館とか、世田谷にある大宅文庫等、あらゆるデータベースを使ってできるだけ調べていきます。いまの若い世代のかたは使われないかもしれませんが、大宅文庫に行くと過去のマイナーな雑誌とかもかなり揃いますから、おすすめです。おカネがかかりますが。マイナーな媒体で大事なことを言っていたりする場合があるんです。例えば映画関係者だったら、一般的な媒体ではインタビューを受けてもたいして面白くない宣伝的なことしかしゃべってないのに、映画の専門誌の取材だとかなりマニアックなことや、エピソードを語っていることもあります。さきほどの海堂尊さんも、これはペンネームですが、現役の医師なので、本名で書いている医学書などがあるんですが、それがすごく面白かったりする。なるべく漏れなく全部読むようにします。つまり、これらは「直接的情報」と僕の中では呼んでいるんですけど、本人について書かれたもの、本人がしゃべったこと、本人が誰かについて喋っていること、あるいは本人が絡んだ何か、すべてです。

それから「間接的情報」と僕は言ってますが、海堂尊さんでしたら、彼は病理医なんです。その前は外科医。それから彼はAIというオートプシー・イメージングという新しい分野をつくった。死後画像診断です。そういう医学業界の言葉とか専門用語がいっぱい出てくるんです。病理医とは何をするのか分からないです。彼の病院に行っても、顕微鏡覗いている。つまりはその医学の基本をある程度学ぶ必要がある。その病理学について書かれた本とか、あるいはオートプシー・イメージング、とか法医学とか、基本的な知識はいります。法医学というのは変死体等を解剖して、死因を調べるという医学ですけど、日本ではどういう状況になっているんだろう、とか。そもそも解剖はどうやってやるんだろうとか。基本的な知識はある程度は勉強しないと海堂さんとの対話が成立しないですね。福本伸行さんの場合は麻雀おルールを知る必要があったけれど、やはり最後まで麻雀については勉強が足りなかった。麻雀を理解しないと彼の言う「勝負」という感覚が掴めないと思ったのですが、取材期間が短すぎた。(笑)

麻雀入門読んでも、じっさいにやってみないとわからない。もう、しょうがないから最後まで麻雀素人でいきました。中学や高校のときにすこしやってただけなんで、全然わかんないんです。

初対面の時、わからない話がいろいろ出てくると、その時は、分かってるように、うんうんって頷いて聞いて分かっているフリをします。で、後で急いでそれを復習して調べる。一番分からないのは人名です。例えば福本さんだったら、福本さんのお師匠さんにあたる方や先輩にあたる漫画家の人名がどんどん出てくるんですけど、わからないので、それはあとで調べてその人の作品を読んでみるとかをしました。漫画の登場人物の名前が普通に出てくると、もっと分からないので、結構そういうところは後で読んで追いつくのがたいへんでした。直接的情報と間接的情報の吸収、これは両方やっていった方がいいです。

■藤井さんの人物ルポを読ませて頂いて、構成がちゃんとまとまっていて、それぞれ始めから終りまでちゃんと固まっているっていうか、構成は事前に書く前に決めていらっしゃるんですか■

決めてません。ただ、構成は決めませんが、「仮説」は立てます。仮説とはどういうことかというと、きっとこの人はこういう人生を歩んで、もしかしたらこういう挫折を味わい、あるいはだからこそ今のこういったお仕事をされてるんではないかなとした、ぼんやりとした妄想のようなものです。取材をしていくうちにそれが裏切られたりしていくので、その裏切られる過程が面白いのです。仮説を立てておくと、自分の見立てがどう違っていたかがわかる。

最終的に映像にしたり文章にしたりする構成は、取材しながら考えていきます。取材を重ねていくと、このエピソードは文章の冒頭に使いたいとか、どこかの章の入り口に使いたいとか、起承転結のこの部分に使いたいというふうに、腑分けされていくと思います。この話は使おう、この話は使えないなというふうに取捨選択も出来てくるので、取材をしながらそういうアイディアは思いついたらメモっておきます。

取材には結局終わりがないんですけど、構成が見えてこない時があります。仮説はだんだん変わっていったり裏切られたり壊されたりしていくんだけど、構成が見えないことが多いですけど、悶々としていると、ふと、この取材場面をこう使いたいとふうにアイディアが降りてくることがあるんです。(笑)

ですが、なかなかいい構成だなと思って書いてみても、編集者に見せると面白くないから、こうしたらいいと思いますというふうに言われる場合も多い。そうやって、自分の考えてた構成が壊れてしまう場合もあります。短い20枚くらいの文章から、何百枚にもなる単行本まで割とよくあることです。映像の場合には編集を丸投げしちゃうことが多いでしょう。活字の場合はそれほとんどやらないんですけど、僕は最近その映像のやり方を見習ったほうがいいなと思っています。ライターが面白いと思っていることと、編集者が面白いと思っていることと、読者が面白いと思っていることと割とずれがあることが多いんです。なので、いったん編集者に全部書いたものを丸投げして、どう思うか僕は割と聞くようにしています。あのライターの中には絶対この構成以外考えられないっていうこだわりを持つ方もおられるんですけど、割と僕はそのあたりは柔軟というか、信頼できる編集者だと、だいたい編集者に従った方が面白いっていうことが実は多いんです。『壁を越えていく力』はアエラ掲載時も担当したもらった長瀬千雅さんというフリーの編集者が、単行本化するときも編集してもらったんです。やっぱり彼女の言う通り構成の方が面白くなるんです。優秀な第三者の目で読んでもらうのはとても大事かなというふうに思います。

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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