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事件当事者の名前を出す「意味」がこれほどまでに議論されない国で考える(第六回)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年2月に川崎で起きた13歳の少年が18歳の少年らによって無残なかたちで殺害される事件が起きてから、少年の実名報道に対する議論がかまびすしい。少年法をもっと厳罰化せよという政治家もあらわれ、社会はそうした意見におおきく共振しているように見える。一方で、18歳選挙権法や国民投票法などの成立を見据えた流れもあり、少年法も18歳に引き下げるべきだという議論も合流してきた。

少年法の厳罰化と実名報道は、はたしてリンク議論なのか、報道に携わる者はどう考えればいいのか、社会は現在のヒートアップ気味の世論をどう受け止めるべきなのか。問題点を整理しながら、『英国式事件報道 なぜ実名報道にこだわるのか』の著者である共同通信記者の澤康臣さんと語り合った。

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■インターネットと少年法61条の関係を考える

■インターネットでの発信も原則は実名でおこなうべき

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■インターネットと少年法61条の関係を考える■

藤井:

昨年、佐世保で起きた同級生殺害事件の加害少女の父親が自殺しました。メディアのせいだと指摘する識者もいます。週刊誌もふくめたインッターネットの誹謗中傷の書き込みが追い詰めたのではないかと。

澤:

ネットの問題のとらえ方は世代によっても違うと思います。大手メディア、あるいは伝統的なメディアの影響力はネット時代であっても強いので、大手メディアが実名報道するかどうかの議論には今も意味はあると思う。しかし、社会への情報拡散をゼロにしなきゃいけないと言われているもの、たとえば少年の実名については、いったんすこしでも出てしまったら、それをゼロにするのはネットでははるかに難しいと思います。イギリスでも少年裁判所に付され、実名報道が禁じられたケースでもネットに名前が出ることはままありますが、それへの規制や対処はあまり聞かないですね。

藤井:

今年起きた13歳の少年が18歳らの少年らによって殺害された川崎事件で、容疑者の家、つまり逮捕前の17歳の主犯格の自宅を映しながら、ネットで生中継(投稿)した少年がいました。彼は14歳だそうです。警察官が職務質問して、周囲に迷惑だからやめるように諭すと、他のマスコミのほうが迷惑をかけていると反論した。彼の行為の是非はともかく、それはそれで正論ですよね。少年には「自分は市民記者なんだ」という意識があり、自分の顔をさらしてやっています。言い方は古いけど、ネット中継が身体化されたような新人類的な行為をどう考えるのか。そういう現状に61条含めて、既存のメディアからの議論が行われていないし、追いついていない。

澤:

気軽に発信できるメディアは大事でし、その14歳の少年はまじめな気持ちでやったと思うんです。我々が14歳のころ、ネットとカメラがあったら私だってやっていたかもしれない。ある容疑者を晒す目的かどうかは別にして、大手メディアに対抗できるようなそんなメディアツールは使っていたと思いますよね。普通のメディアが知っていることを黙っていて伝えないということは欺瞞だ、偽善だというその子の結論には賛成しませんが、そこをふざけきったやつだとも思いません。大阪の鶴橋でヘイトスピーチをやった若い女の子とはまた別のような気がします。

早稲田のジャーナリズムスクールで、大手メディアが実名だ、匿名だと議論するのはまったくくだらないと大学院の学生に言われました。名前は出るという時代であることを大前提にしなければならない。そこを見ないで議論して何の意味があるんですかと批判を受けました。妥協するかどうか別にして、受け入れないといけないところまで来ている。確かに、これは止まらないです。

藤井:

なし崩し的になっていると我々の世代は思ってしまうけれど、若い世代にとってはデフォルトなんです。

澤:

そうすると、ぎちぎちのインターネットができない国家にするか、という話になりますがそれはムリ。インターネットにあらゆる情報が出まくるということを前提にした、更生などの仕組みを考えたり、家族のケアを考えたりをしていかねばならないと思います。情報拡散をくい止めたりする対策も一定程度は必要だとは思いますが、これは実効性ある方法があるのか疑問です。

藤井:

問題なのは、そういった「実名晒し」とヘイトスピーチ的なものと連動しやすいというか、ネットの住人たちがネトウヨ的体質を持っていることは否めないので、そこで発生した差別表現や脅迫言動については厳しい対処が必要だと思います。

澤:

匿名報道に市民に実名情報を完全に遮断する目的があるとしたら、今はこれは無理です。インターネット以前から現場では実名が出ていましたが、いまは現場とネットがつながっているかのうように、情報が現場からどんどんネットに流出する状況です。かつては現場レベルで情報を止め、拡散を防ぐことができたけれど、いまはまったく状況が違います。インターネットのほうが早かったりもします。スウェーデンのプレスオンブズマンと話をしてきたのですが、匿名報道が必要な場合でもスウェーデンでもネットに実名は出ているそうです。刑事事件の発生直後、捜査段階、場合によっては公判段階でも実名を控えようという報道実務が主流の国です。2000年以降は議論の中心が被疑者匿名から、被害者匿名にシフトしていますが、ネットには全部出ていることがよくあるんだそうです。ですが、マスコミはマスコミの基準を維持しています。ただしこれはケースバイケースで、しかもメディアによっても独自判断をし、殺人事件の被告人の名前を地元紙は出したが全国紙を出さないという判断が冷静にされているそうです。匿名報道だからといって、水も漏らさない報道管制を敷くことではないんです、もはや。複雑な様相です。インターネットに名前が出るからしょうがないという考え方じゃなくて、それを前提にしつつケースバイケースで考えて、対応していくべきでしょう。

藤井:

隠されているから暴きたいという心理があるのだとしたら、既成のマスコミが先陣に立って議論を提起して、名前を出すことをしたら、どういう化学変化が起きるだろうか。インターネット放送で、ぼくは「ニコ生ノンフィクション論」という生放送を二年やっていましたから、実感としてよくわかるのですが、大手既存メディアはほんとうのことを書かない、伝えない、「マスゴミ」だという意識が蔓延しています。一方で、ネット上のデマやウソを鵜呑みにして排外主義に走る傾向もあります。根っこには知っているくせに書かないと大手メディアは信用できないというネット住人の意識が露骨に感じられました。

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■インターネットでの発信も原則は実名でおこなうべき■

澤:

マスコミが隠しているからネット議論では興味を持たれる、出したら興味を失う、となるかどうかは私はわからなくて、マスコミも出したらネットでももっと情報の全体量が激増する可能性もあります。発信者がマニア的な人々だけではなくなるわけですから。マスコミがマスコミ的な基準や判断を持つちいさなサークル化していることに対し、カウンター的な暴露があるというのはメディアの多様性の意味ではいいことだと思いますが、問題はそこにきちんとした動機があり、きちんとした議論が生まれるかどうか。今は叩き目的だけになっているから。

藤井:

カウンターはぼくもいいと思うけれど、それがほとんどぜんぶ匿名だというのが問題でしょう。発信する者には社会的責任があるのに、それを負うことがない。

澤:

わかります。まったく同感です。匿名言説がなぜこれほどまでに、あたかも正統なことかのように取り扱われるんでしょうか。匿名でものを言う、表には出ないくせにぶつくさ文句はたれる、のはほんとう

に嫌です。

藤井:

出版社や書き手は実名で発信しているわけだから、裁判を起こされるわけで、もちろんネットの言説に対する名誉棄損の裁判もたくさんありますが、それが誰かなのかをつきとめるところから始めなければならないから、訴える側はたいへんです。匿名のリスクを背負わない発信や表現は原則的に相手にしないという土壌が醸成されていくことが必要だと思います。内部告発的なものときちんとより分けることは必要ですが、そういったメディアに対するリテラシーは大事です。無責任発信社会は何も生まない。

澤:

闇から鉄砲撃つようなバッシングは嫌です。カウンターの書き込みも、大事なのは中身です。マスコミという特定の発信者に偏らない、自分で細部まで調べ上げるというような報道は市民のためにはいいことだと思いますが、叩くカタルシスを得るためにやっている人は、そういうことをしない傾向が強いです。名前と顔だけ晒して、叩けばいいと。

藤井:

我々の責任は自分の顔を出して、責任のありかをはっきり明示してものを書いていくしかない。それが紙であろうと、ネットであろうと。

澤:

どんな市民も意見を言う権利はある、一人一人が大いに意見を言おうじゃないか、公共圏に出ようじゃないかという、参加と自治の民主主義社会をより深化させる方向になるために、報道の仕事をまじめにやるべきだと思っています。匿名の多い記事が与えるメッセージは、普通の市民は匿名でどっかに隠れてて下さい、世の中そういうものですというものになってしまいかねない。これは基本的によくない、と心に留める必要があると思います。ニュースは歴史であり、ジャーナリズムはジャーナルすなわち記録であること、検証可能なものを残すこと、ディテールの大事さ、パブリックに参加することの大事さを議論しながら、市民を信じる前提で、無理はできないけれどなるべく匿名はない報道をしていきたいです。

藤井:

同感です。長時間、ありがとうございました。

(終わり)

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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