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二〇一四年、作家の仲村清司さんと沖縄で語り合ったこと 第一回

藤井誠二ノンフィクションライター

2014年の正月、ぼくが那覇市の中心部にかまえている仕事場で、那覇在住の作家・仲村清司さんらといっしょに、東京から着いたばかりの社会学者の宮台真司さんを待っていた。仲村さんと宮台さんは初対面のせいだろう、人見知りの仲村さんはすこし緊張しているように見えた。タクシーが停まる音が聞こえたので、階段を降りていくと小型のスーツケースを持った宮台さんがおりてきた。ぼくが二人を紹介すると、すぐ近所の拝所で初詣をすませ、仕事場ですぐに対談に取りかかった。

年末に仲井真知事が、普天間基地の移設先として少なくとも県外と言っていた公約を破り、辺野古に米軍の新基地建設を認めてしまった直後だった。沖縄は怒りに湧き、いま思えば、ここから翁長新知事の誕生につながる流れが起きていたといえる。仲村さんと宮台さんは、一方的に日本政府を責めるだけでなく、なぜ仲井真知事は「転んだ」のか、与党や官僚は沖縄はカネで言うことを聞くと見ているのか、なぜ沖縄問題は膠着してしまうのか等を、版元も決めないまま語り合った。

このテの「沖縄」の内部をも批判の対象にするような議論は沖縄ではタブー視される傾向にあるが、『本音の沖縄問題』(講談社現代新書)で、仲村さんはヤマトに踏みつけられてきた沖縄の歴史だけでなく、沖縄が米軍基地の見返りに莫大な補助金を受け取り続けてきた過程に問題はなかったという「責任」も照射した。そんな仲村さんの思いをコーディネイトするかたちで、ぼくは長年の付き合いがあり、日本を代表する知性である宮台さんに白羽の矢を立てたのだった。

若い時期から頻繁に沖縄を訪れ、行動する社会学者として沖縄と「内地」の関係を考察し続けてきた宮台さんは快諾し、『これが沖縄の生きる道』(亜紀書房)はこうして生まれた。この本をつくる過程で、仲村さんとぼくは沖縄の路地裏を歩き回り、飲み喰いしながら、語り合い続け、濃密な時間を共有できた。

仲村さんは、大阪の此花区の出身だ。彼の祖父は1900年生まれで、大正時代に東京に出稼ぎに出た直後に震災にあって大阪に来た。その後、父親を大阪の呼び寄せ、1958年に仲村さんが生まれた。そして、16年前に沖縄に移住。大阪生まれの「沖縄人」、つまりウチナンチュ二世だ。2014年、知事選・衆院選で沖縄は政府の思惑をきっぱりと拒否する結論を出した。仲村さんとそのことを振り返った。

「1995年の米兵による少女暴行事件が発生するまでは内地では基地問題はほとんど無視されていたのが現実です。今もそういう部分はあるのですが、それまでは沖縄イコール基地ではなかったわけです。それが米兵による少女暴行事件をきっかけに沖縄の怒りが爆発し、日本の尻尾が、胴体を動かすような状態になりました。当時、いま首相にしたい人は誰かというアンケートがあったのですが、前の知事の太田昌秀さんが一位に選ばれましたということからも沖縄の怒りの深さがわかります」

仲村さんから、米軍基地の話になると、”県民感情”という言葉で一括りにしてしまうメディアへの批判をよく聞いた。

「県民感情という言葉は”反基地感情”と同義語で、基地問題と絡めて使わることが多く、”県民の総意”という言葉もその延長線上にある。沖縄問題には政治問題、経済問題、雇用問題、貧困問題、自然破壊などいろいろあるけれど、沖縄とヤマトの間で溝が深まっているのはこの基地問題です。

僕が移り住んだのは1996年ですから、少女暴行事件の一年後。その後の16年間には、辺野古への新基地建設があったり、サミットがあったり、沖縄ブームがあったり、さらには民主党政権になり、鳩山首相の『(普天間の)最低でも県外』発言があったり、さまざまな問題が起こりました。いいかえれば、沖縄とヤマトがお互い嫌でも向き合わなければならない時期であったし、事実、お互い腹の底を探りあった時期だった。だからこそ、とことん対話をして、互いが互いを理解しあえる時期にすべき16年間だったと思うんです。にも関わらず、結果的には沖縄とヤマトの溝がいちばん深まった16年になってしまった。

基地問題の根っこをつくったのはアメリカで、1950年代に米軍が強引に土地を強引に接収したことが現在の基地問題の根幹の原因になった。にもかかわらず、復帰後もその問題がまったく解決されなかった。密約問題で明らかになったように沖縄返還交渉は基地の存続を前提にしていました。ですから、祖国復帰は沖縄返還交渉を隠れ蓑にした、日米安保体制の再編強化=基地機能の維持強化で、日本全体の米軍基地の整理統合=沖縄への基地集中と固定化のための政治取引だった。要するに解決すべき矛盾を抱えこんだまま施政権が日本に返還されたことが、かえって諸々の沖縄問題を複雑化させたことになります。

その後、沖縄ブームがあって、お互いが見つめあうべき時期にできるチャンスも生まれたのに、例の最低でも県外の公約違反もあって、互いの関係はご破算になってしまい、県民感情は反ヤマトの一方向に向いてしまいました」

いわば膠着状態がより悪い方向に向いているということだ。しかし、一方で、ぼくも1ヶ月のうちに半分近く沖縄に通う生活を続けてきて、「沖縄内部」が抱える問題も見過ごしてはならないと思うようになった。たとえばそれは「格差」の問題だ。ヤマトと沖縄は依然として経済格差は大きく開いているが、じつは、県内のほうが格差が顕著なのだ。

「16年間、沖縄に住んできて見えたのは、数字ではっきり言いますと、年収1千万円以上所得がある人たちが沖縄県は全国でいくと9位なんです。人口でいうと、約10パーセントで地方都市ではダントツです。別に沖縄に限ったわけではありませんが、官公労働者と民間労働者を比較すると所得の開きは倍くらいあります。沖縄の県民所得は年収200 万程度です。これは東京の半分の額で全国平均の七割しかない。つまり沖縄の中に一部の富裕層と、圧倒的に多い貧困層が存在することになる。この、いわゆる貧しい人たち、苦しい生活を強いられている人と、たくさん貰っている人が二極化していて、難しい言葉でいうと沖縄には”階級社会”の問題が存在するということです。沖縄に根強く存在するこの階級間の貧困問題や雇用問題をほったらかしにしたままで、反ヤマトのイデオロギーだけが先行してナショナリズムだとか独立だとか言っても僕にはピンとこないのです」

復帰後の失業率は全国ワースト1位を独走している。交付金や減税措置等もふくめた基地を負担させられている見返りとしての経済に依存すればするほど、失業率は高くなっている。この構造の責任はもちろん交付金漬けにしてきた政府にあるのだが、構造を変えることができないでいる沖縄の側にも一定の責任があるのではないか。そうした指摘を『これが沖縄の生きる道』の中でも仲村さんと宮台さんは語り合った。

「あるジャーナリストが、復帰前までは沖縄の人たちは『何が大切か』どうかを考えたが、復帰後は『何が損か得か』しか考えなくなったと指摘しています。けだし名言だと思う。その損得には軍用地も含まれていますが、いまや軍用地は優良資産として扱われ、土地そのものが投機の対象になっています。もし、軍用地の名義が内地のブローカーなどにわたると、かりに返還されたとしても、跡地利用の合意形成に支障を来すおそれもあります。地域が分断されて、共同体としての生活と生産の場を確保できなくなったらどうなるか。何が大切なのかどうか、いまほど問われているときはないと思います」

それは返還地の跡地利用に巨大モールを誘致することにより、周囲の町が加速度的に廃れていっている現状や、沿岸を埋め立て続け、美しい海岸をこわして住宅地などをつくり続けてきた「判断」にもあらわれているのではないか。

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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