Yahoo!ニュース

【連載】暴力の学校 倒錯の街 第52回 「死を忘れない」ネットワーク

藤井誠二ノンフィクションライター

【連載】暴力の学校 倒錯の街 第52回 「死を忘れない」ネットワーク

目次へ

「死を忘れない」ネットワーク

「陣内さん支援ネットワーク」を立ち上げた佐田正信は、事件直後から精力的に動き回り、事件から三力月後の十月一日には飯塚市で「陣内知美さんの死を忘れない飯塚集会」を開いている。その後も裁判の傍聴は欠かさなかった。体罰根絶を求める署名ハガキは、上京して文部省に手渡した。

佐田は、九六年七月学校が知美の追悼集会をおこなう四日前に、独自の追悼集会を開き、その年の九月三十一日にネットワークを発展的に解消し、「陣内知美さんの死を忘れない追悼集会実行委員会」を結成、その舵取りを務めている。一九九七年は七月十三日、九八年は七月二十六日に追悼集会を開催した。

飯塚市の東側に隣接する直方市に住む佐田が事件を知ったのは、事件当日の深夜のニュースだった。実は、近大附属には佐田の高校時代の同級生が教諭として勤めており、彼は体罰をふるっていることを佐田に悪びれるふうもなく語る男であったため、「ひょっとしたら、あいつがやったのでは……」という思いがよぎった。事実、私が卒業生に取材をすると、その男性教員は暴力教員のひとりであることがわかっている。

佐田は東京の大学を出たあと郷里に戻り、家庭教師をやりながら不登校の子どもたちの居場所を運営していた。といっても、フリースクールではなく、自宅を子どもたちに開放し、その話し相手になっていたのである。

「この事件は教育の場で起きたことであるので、何らかのかたちで関われないだろうかと思っていたんです。そう思っていたときに、加害者の宮本の嘆願署名通勤が巻き起こり、同時に被害者である知美さんや陣内さんを誹謗するデマが飛び交うようになりました。これは異常事態だと危機感をもって、ネットワークを立ち上げたのです」

佐田は事件直後から現在に至るまで、毎月一回は必ず元春を訪ね、深夜まで話を聞き続けている。陣内家の精神的な支えになったのは、まぎれもなく佐田らの地道で情熱的な運動である。そんな佐田がそれまでの運動にはなかった新しいベクトルを元春に提案したのは、実は宮本が陣内家に姿を見せた日の夜のことだった。佐田の提案は逆転の発想とも言えるものだった。

佐田は私にこう語った。

「七月二十七日に宮本と出くわした日に、あることを陣内さんに話そうと思って行ったのです。それは、宮本をわれわれの運動に引き入れたい、ということです。知美さんが死んでしまったことをしっかり詫びて、こんなことは二度と起こさないという地平に立って彼が発言してくれれば、社会的に影響力を持ち、体罰への歯止めになるんじゃないかと思ったんです。だから、陣内さんに宮本はいつ来るのかを聞いて、私が宮本に宛てた手紙を渡してほしいと言おうと思っていた。でも、いきなり会っちゃった。

加害者が社会的に発言してくれる重さは、ぼくらが百万の字句を使うよりも響くだろう。うちの子どもを叩いてくれというような親や、体罰をよしとしている教師たちに響くだろう。そして将来的には、宮本も陣内さんも癒されるだろう。宮本にとってハードルは高いと思うが、宮本がなんらかのかたちで実行したら拍手をおくりたい。あとはどう向こうが判断するか……」

佐田は宮本に次のような手紙を書き、保護司に託す。一九九七年八月二十五日のことである。

《残暑、厳しきおり、如何おすごしでしょうか。

私は毎月一度、陣内家にお参りにいっておりまして、七月二十七日に陣内さんのお宅で、あなたバッタリ出くわしたときには、大変びっくりしたと何時に、この二年の時の経過の速さに改めて感慨を持ちました。あれから二年経ったんですね。

聞くところによると七月十七日に仮出獄されたのだとか。二年前の同じ日に逮捕された貴方でした。その間、貴方は約一年の刑務所暮らしをなさっていたことになります。その短さは、敢えて問題にしますまい。問題は、貴方がこの二年の間、何を考え、これからどうしていこうとなさっているのかに尽きると思うからです。

陣内さんのお宅に行かれて、恐らく、貴方は陣内さんの対応に大変な厳しさを感じたことでしょう。この二年間は、陣内一家にとって、全く心癒されることのない日々でありました。それは、貴方のお詫びの気持ちがご遺族にいまのところ、残念ながら全く伝わっていないことの証に他なりません。

一連の、二度の保釈申請、控排、貴方のお連れ合いさんが、「裁判がはっきりするまで」という理由でお参りを取り止められたことなどの行動の積み重ねが陣内家のみなさんの目には、「誠意がまったく感じられない。このままでは、宮本さんに心を開きたくても、開けない」という印象に映っています。貴方は裁判所で「仏門に入りたい」と言いました。あの発言はいま、どうなっているのでしょうか。貴方に対しての対応の冷たさは、貴方自身が生み出したもので自業自得だと思います。

このような結果は、この二年間陣内さんの側でその気持ちを聞いてきた、そして、「とにかく、このような事件は最後にしたい」と思ってきた私としても大変に残念なものであります。

私たちが、この二年間何をしてきたかということについては同封する資料(筆者注・ネットワークの通信や追悼集会の資料等)を読んでいただければ、おわかりになると思います。

先日、保護司の方に電話を差し上げたところ「宮本さんは、事件を心から悔い改め、知美さんを弔おうと思っているようだ」と言われました。だとすると、なおさらいまの状況は、貴方にとって、恐らく、耐えられないくらい残念なことでしょう。

そこで私は、貴方が折々に述べられてきた深い反省と弔いの気持ちを心から信頼して、この双方にとって、誠に残念な状況を打開するために、次のことを提案したいと思っています。

それは、二つあります。まずは、私たち「陣内知美さんの死を忘れない追悼集会実行委員会」がこれからも毎年、夏に主催する予定の「陣内知美さんの死を忘れない追悼集会」に出席していただくこと、なるべく早めに、マスコミなどを通じて、事件から二年たった現在の心境を語っていただくことです。貴方は、折々に、深い反省を述べられてきましたが、その気持ちを具体的なかたちで表していただきたいと思っています。

陣内さんも「もし、宮本さんがそうしてくれるなら、他に何も言うことはない」とおっしゃっています。保護司の方も、「私は、両方の方が、これから少しでも心開いて、お互いの生活を送っていかれることを心より願っている。その点からも貴六の提案に、宮本さんが応えていくことは、亡くなった知美さんへの何よりの供養になるし、ぜひ私からも宮本さんに、せっかくの年に一度の機会なのだから出かけていって供養の気持ちを表しなさいと勧めたい」とおっしゃってくださいました。

なかなかにハードルの高い提案だろうとは思いますが、その提案に応えて下さることが、貴方にとっても、よい道ではないでしょうか。

私が貴方にこのような提案をするに至った背景を簡単にお話ししたいと思います。

私は日頃、不登校の若者や、障害を持った方たちとのお付き合いを通じて学校問題に関わってきた者として、私の地元である筑豊で起こった今回の事件に重大な関心を持ち、事件が起こった直後から、まずは事件の被害者である陣内さんのお宅をお訪ねすることを手始めに「陣内さん支援ネットワーク」の代表として幾つかの活動を、多くの方と積み重ねてきました。

余りに凄い勢いの体罰容認の論調や、それにもまして凄まじい知美さんや彼女の家族に対しての誹謗中傷に心を痛めた二年間でした。私たちの運動の目標は、集会の名前も示している通り「知美さんの死を風化させないこと」「この事件を教訓に二度と再びこのような事件を起こさないこと」であります。

私たちは去る七月十三日(一九九七年)に、二度目の「陣内知美さんの死を忘れない追悼集会」を飯塚総合会館でおこないました。そのときの模様は同封の新聞記事に詳しいのですが、その集会の後の交流会である方が、

「私たちは二年間、このような悲しい事件はもうこれで最後にしたい、という思いで運動を重ねてきた。私たちが日標としてきたのは、宮本さん個人を責めることではなく、この事件をきっかけに、あらわになった体罰をふるわざるを得ないような全国的な学校状況をしっかり見つめ、それを改めていこうとすることであるはずだ。そういう意味では、体罰をふるわざるを得ないような学校状況で、教員として生徒として出会わなくてはならなかった知美さんと宮本さんは双方とも被害者といえると思う。もちろん、宮本さんの支援の人たちが『あんな札付きの生徒と出会ってしまった宮本さんは被害者だ』と言っている意味合いとは全く違う意味だけども。

宮本さんも、自分が起こしたことを心から悔いておられると思う。そして、もう二度とこのようなことを誰にも経験してほしくないと思っておられるはずだ。だとするならば、私たちがこれから毎年やっていこうとしている、年に一度の追悼集会への参加を呼びかけてみてはどうか。彼が心から謝罪し、二度とこのような事件を起こしてほしくないという気持ちで集会に参加してくれたら、何よりの誠意ある行動だと思うし、彼の事件の当時者としての思いが周りの人に伝わることは、体罰事件への何よりの抑止力になるだろう。それこそが私たちが目指している、そしてまた、最後にしたいという思いを実現していく方法ではないかと思う。何より、知美さんの供養になると思うし、陣内さんの心を開いていく、また、宮本さんの心に救いをもたらす道ではないかと思う」

と語られました。

その思いは、実は参加者の方に大変な共感をもって迎えられたのであります。私自身も、自分が作り出してきた、そして一生を通して関わり続けていこうと決意している運動の原点を改めて認識させられた発言でした。この発言と、それに共感なさった方たちの存在と、私自身の思いに突き動かされて、この提案をしています。

実は、私は交流集会の直後に「この提案をしよう」と心に決めて、その後、幾日かで構想をまとめ、七月二十七日に貴方が帰られた後、陣内さんにこのお話をしました。

「宮本さんに私たちの運動に加わってもらいたい」と切り出したところ、最初はさすがにムッとされていましたが、私の真意をご理解いただくにつれ心より納得され、「もし、宮本さんがそうしてくれるならば、これほどのことはないし、知美も浮かばれるでしょう」とおっしゃってくださいました。

保護司の方も私の提案に共感してくださり、自らも「宮本さんに、それを勧めたい」とおっしゃってくださいました。どうか、私たちの意をおくみ取りいただき、私の提案に応えていただくことを、伏してお願い致します。

保護司の方のご厚意でこの手紙を託して、貴方のもとに届けていただくことになりました。私たちの提案に対し、後々の行き違いの恐れをなくすために、文書の形でご返事をいただければ幸いであります。私たちの今回の提案は、貴方にとって難しい提案のような気もしますが、もし貴方がこの提案に応えてくださる意志を表していただけるならば、心よりの共感と得心と拍手をもって貴方をお迎え致します。

人間は未来に向かって生きていく生き物です。どうか、よいご返事をいただけることを待っております。

一九九七年八月二十五日 佐田正信

追伸 私はとにかく、月に一度陣内さんのご家族にお会いしてきました。これからも続けていこうと思います。この二年間、陣内家のみなさんは、大変な状況に翻弄されてこられました。誹謗中傷、嫌がらせ……。そんなことと、日々直面しながらの二年間でした。そして彼らが、唯一つのことを待ち続けてきた二年間でもありました。その、たった一つのこと、それは貴方を心から許し、貴方に心開ける日がくることであります。

どうか、どうか、そのささやかなたった一つの願いをかなえてあげてください。 私は夢見ています。今までは立場の違った歩みをしてきた私たちが、知美さんの死を無駄にしないための努力を、それぞれが生涯続けていくという一点で、お互いの手と手が結べる日が来ることを……。》

目次へ

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

藤井誠二の最近の記事