iPod誕生の裏側~スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの

(写真:ロイター/アフロ)

スティーブ・ジョブズが亡くなって6年が経過した。彼が生前残したものは、われわれの生活を一変させるインパクトをもたらしたことはご存知のとおりだ。iPhoneなどその確たる例だろう。同時に、ジョブズはいまの音楽産業にも大きな影響を残している。産業の流れを変えた彼の功績を今後7回にわたって振り返り、これからの音楽産業はどこに向かっていくか、そのヒントを見つけていきたい。最初はiPod誕生秘話を紐解いていこう。そこには、日本企業Sonyが多大なる影響を与えていたのだ。

■受け継がれる革新の炎

ある炎があって、それが燃え移ると全てが変わってしまう。

薙ぎ払い、輝き、感動が広がっていく。ひとたび炎の勢いが失せると、世界は停滞の闇に包まれる。しかし、その炎が失われることはない。人類共通ともいえる精神の燭台に燃え続けていて、松明をかざして聖火を取り、世界に再び光を与える者が現れる。

若き日のスティーブ・ジョブズにとっても、そうした存在はあった。シリコンバレーの礎を築いたヒューレット・パッカードの創業者や、エレクトロニクス業界を先導したSonyの共同創業者、盛田昭夫だ。

90年代後半。Appleに帰ってきた理由をジョブズは語ったことがある(※1)。

「業界が混迷しているからだ。まるでボートにタイヤをつけたような車を作っていた70年代のデトロイトみたいだ」

マッキントッシュが切り開いたパーソナルコンピュータ業界は、スペックと価格破壊の他に面白みのない「終わった業界」になろうとしていた。Windows 95の登場で、時代の中心はハードウェア業界からソフトウェア業界へ。そして休む間もなくインターネット業界へ革新のメッカは移動していった。

「あなたはかつて『コンピュータ界のSonyになる』とおっしゃったことがある」

1999年2月。幕張メッセでカラフルな5色のiMacを発表したジョブズに、筑紫哲也が尋ねると「その通り」と答えた(※2)。

「私達はSonyを尊敬している。彼らは何度もイノベーションを起こしてきた歴史がある。そして、すばらしいデザインを繰り出してきた。現在のコンピュータ業界はイノベーションも消え失せ、美しいデザインも無い。革新と美をコンピュータ業界に取り戻したいんだ」

同年10月5日。サンフランシスコのAppleイベントで、壇上のジョブズは2日前に逝去した盛田昭夫を讃えた(※3)。

「Sonyはコンシューマエレクトロニクス市場を創りあげた。トランジスタラジオから始まり、トリニトロンテレビ、ビデオ、Walkman、そしてCD…」

エレクトロニクス産業でイノベーションを次々と巻き起こした会社を創った盛田昭夫の人生に、ジョブズは自分の使命を重ね合わせようとしていた。現役時代の盛田が親しくした海外の若者は、マイケル・ジャクソンとスティーブ・ジョブズのふたりぐらいだったという(※3)。

「天国の盛田さんが、きょう発表することに微笑んでくれればいいと思う」

そう言って、ジョブズはビデオカメラがつながるiMac DVと、映像編集ソフトiMovieを発表した。

その頃、インターネットは音楽生活を変えようとしていた。

アメリカではNapsterが社会現象を起こし、連日テレビで報道されていた。mp3形式の音楽ファイルを無料でダウンロードできる、夢のようなソフトだ。それは著作権法に違反した行為だったが、音楽ファンたちの熱狂はとどまることを知らなかった。

それはSonyのWalkmanやCDの登場以来となる音楽生活の変化でもあったのだ。だが、新しいiMovieは映像のためのソフトだったし、iMacには音楽ファンたちが求めていた、mp3からCDをつくる機能がなかった。

結果、ジョブズが盛田に捧げたiMacの新作は、あまり売れなかった。ジョブズは子供が生まれたばかりだった。お気に入りのSonyのビデオカメラで撮りためた息子の映像を、Macで気軽に編集してみたかった。きっとみんなもそうだと思ったのだ。

だが、正解はビデオではなく音楽だった。そうジョブズは悟った。

■Sonyがくれたチャンスを掴む

ジョブズがmp3プレイヤーの製造を社内で主張し始めたのは、2000年の秋ごろだったという (※4)。本来、得意なことに集中し、苦手なことはパートナーを探すのがApple復帰後の彼のポリシーだ。デジタルガジェットの自社開発は信念に反していた。

「誰も助けてくれないなら、自分たちで創るまでだ」

かつてジョブズはそう言って、iMovieを自社開発した。動画編集ソフトのトップ、Adobeに開発を断られたからだ。同じような経緯がmp3プレイヤーの開発でもあったことは想像に難くない。

1998年、韓国でMPManという名のmp3プレイヤーが登場。ドイツからはRio(オーディオプレーヤーブランド)も登場し、1999年にはコンパック(アメリカのPC企業)からハードディスクを搭載したmp3プレイヤー(PJB-100)が出ていた。コンパックはiPodより2年早く、初代iPodと同じ5GBを搭載していた。

しかし、どのメーカーの製品もブレイクしなかった。

Rioは10曲しか取り込めないし、コンパックのはバカでかい上に、転送時間が死ぬほどかかった。USBですらなかったからだ。どちらも曲名の入力からプレイリストの作成まで小さな液晶でやらせようとするので、とんでもなくボタンを連射する必要があった。

mp3プレイヤーは新しもの好きのギークが試し買いする、ニッチな周辺機器に過ぎなかった。

Sonyでも様々な試作機が製作されていたようだ。

当時、Sony本社によく遊びに来ていたジョブズは、様々な提案を持ちかけていた。VAIOにOSX(Macのオペレーティングシステム)を載せる提案もあった(※2)。デジタルイメージング(紙の文書などをデジタル化する技術)での提携は実現し、2005年にはAppleイベントに安藤国威(元ソニー株式会社社長)が登壇した。

だから音楽プレイヤーの分野で何らかの提携を、ジョブズがSonyに持ちかけていたとしても不思議ではない。ジョブズはSonyに、「21世紀のWalkman」を一緒に創ろうと持ちかけた。

Sonyはデジタルガジェットを製造するノウハウがあり、Appleはソフトウェア開発のノウハウがあった。二社が手をあわせれば、世界を変えられる。そう持ちかけたのだ。

だが、交渉は決裂した。音楽を録音するカセットテープやMDを販売していたSonyは、録音メディアの要らなくなるmp3プレイヤーを心配した。CDの販売を崩壊させたmp3文化に寄与するのもためらわれた。

結局、Sonyは便利なハードディスクではなく買い増しの要るメモリースティックを、人気のmp3ではなく独自規格のATRAC(Sonyが開発したオーディオ技術・規格名)を選択。1999年12月に、64MBのメモリースティックを付けてメモリースティックWalkman(NW-MS7)を発売したが、会社の都合を押し付けたこの製品は成功しなかった。典型的なイノヴェーションのジレンマだ。

書籍『iCon』にはAppleへの復帰以来、全く新しいものへの起爆剤を探し続けていたジョブズが描かれている(※3)。「チャンスがあるなら、必ず見つけ出してやる」とジョブズは希求していた。

「Sonyにはmp3プレイヤーがありませんでした。ジョブズは、これなら市場を独占できると考えたのです」

『iCon』の著者、ジェフリー・ヤングはディスカバリーチャンネル(アメリカの衛星・ケーブルテレビチャンネル)でそう答えている(※4)。発想の転換だった。Sonyがmp3プレイヤーをやらないなら、自分がやればいい。ジョブズはクリステンセン教授の愛読者だったが(※5)、目の前にあるのは、『新市場型破壊的イノベーション』のチャンスだった。

mp3プレイヤーがニッチなのは、ごちゃごちゃして誰も満足に操作できないからだ。シンプルで使いやすいUIにすれば、ふつうの音楽ファンがmp3プレイヤーを買うようになる。非消費者が転じて、巨大な新市場になる。マッキントッシュにGUI(PCをマウスで直感的に操作できるようにしたインターフェース)を採用し、パーソナルコンピュータの可能性をオタクの手から大衆に解放したときと同じ構図だった。

Appleに復帰したほんとうの理由、再び宇宙に衝撃を起こすチャンスが訪れようとしていた。

■iPodの父、ファデル登場

2001年2月。幕張でiTunesと共にデジタルハブ構想(マッキントッシュを中心としてデジタル機器がつながる構想)が発表されて間もない頃だ。

一匹狼のハイテクコンサルタント、トニー・ファデルは冬の休暇をスキー場で楽しんでいた。リフトに乗って心地よい冷風が頬を撫でると、携帯が鳴った。見知らぬ番号だった。相手は、Appleのハード部門を統括するジョン・ルビンシュタインだと名乗った。折り入って急ぎの相談があるという。

林檎のロゴを敬愛していたファデルは、休暇を早めに切り上げ、カリフォルニア州クパチーノのApple本社に赴いた。

彼はフィリップス社でWindowsベースのハンドヘルドPC(持ち運べる携帯情報端末)をプロデュースし、50万台を売り上げた実績があった。当時、Palmを皮切りにPDAのブームが起こっていたので、大方Appleはハンドヘルドでもやりたいのだろう、とファデルは想像していた。

だが、ルビンシュタインが持ちだした話は、mp3プレイヤーについてだった。

ファデルは驚いた。彼には当時、アイデアがあった。音楽配信とmp3プレイヤーを一体にしたサービスで、音楽業界に革命を起こしてやろうと動いていたのだ。12人ほど仲間を集め、Sonyやフィリップスに話を持ち込んだ。だがSonyに断られ、ちょうどサムスンにアイデアを打診中だった。

■iPod誕生のきっかけとなった東芝のHDD

ルビンシュタインがファデルに頼んだのは、市場調査と戦略策定支援だった。

「僕らが作ろうとしているものに本当に意味があるのか、事前に評価出来る人物が必要だった」

そう、ルビンシュタインは語る(※6)。mp3プレイヤー市場でほんとうに勝ち目があるのか、外部の冷静な目も交えてリスク評価する必要があったのだ。彼はジョブズから開発のGOサインをもらったばかりだった。

先のMacワールド幕張イベントのため、ジョブズと共に日本へ出張した際のことだ。ルビンシュタインは東京で、待望していたパーツが遂に登場したことを知った。ノートPC用よりも更に小さい、1.8インチのハードディスクだ。

ハードディスクの小型化は、コンピュータ業界にイノベーションを次々と促してきた歴史がある。8インチのHDD(ハードディスク)が登場すると、時代はメインフレーム(大型コンピュータ)からワークステーション(PC程度のサイズの業務用コンピュータ)へ。5インチが登場するとデスクトップコンピュータの時代へ。2.5インチが登場すると、ノートPCが主流の時代となった。

音楽産業に起こる破壊的イノベーション
音楽産業に起こる破壊的イノベーション

その度にハードディスク業界の主役が変わり、既存顧客に縛られた会社が倒産の憂き目に会った。顧客の言う通りにプロダクトを技術改良していくと、いずれ会社は倒産の危機に瀕する。この不可思議な現象はなんなのか。これを研究したのが、ジョブズの愛読していた『イノベーションのジレンマ』だ。クリステンセン教授の理論は、ネットの登場後、レコード産業が陥った現状を正確無比に説明している。

ノートPCを産んだ2.5インチの次に登場したのが、1.8インチだ。開発した当の東芝は、これを何に使えばいいのか見当もついてなかったという。ノートPCより小さいコンピュータ? よくわからない。

だが、ジョブズは違った。ポケットに入るハードディスクがあれば、音楽産業に革命を起こせる…。そう、踏んで登場を待っていたのだ。

「ようやく作れるようになりました(※7)」

ルビンシュタインの報告に、ジョブズは勇んだ。さらにこの日本出張で、プロダクトの薄型化に必須の技術が見つかった。Sonyの福島工場にあった最適なポリマー電池だ。ジョブズはGOサインを出した。

かつて必要なパーツを待ちきれないせいで、会社から追放された苦い経験がジョブズにはあった。1年後に実現できるかもしれないスペックのCPU(PCの中央処理装置)を前提に、2代目Macの開発スタートをごり押ししたのが、スカリー(Apple元CEO、ジョブズを追放した)たちからすれば致命的だったという(※8)。不可能を可能にする彼得意の「現実歪曲フィールド(不可能なことも可能に思わせてしまうジョブズの力を現した言葉)」も、技術ロードマップまでは捻じ曲げられないことを彼は学んでいた。

一方その頃、レコード産業はNapster(音楽の共有を主目的としたファイル共有サービス)のもたらした違法ダウンロードに勝つため、定額制配信を進めようとしていた。ストリーミングをベースにした音楽サービスは時期尚早だったが、気付かぬ音楽業界は失敗へ向かっていた。音楽人は、技術ロードマップについて学んだことがなかったからだ。

世界のどこにもない音楽プレイヤーを創るため、ジョブズは、彼の真骨頂ともいえるプロダクト・プラニングに入った(次週へ続く)。

本稿は「未来は音楽が連れてくる Part 2 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの (OtoBon)」の一部をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

※1 『iCon』(スティーブ・ジョブズ 偶像復活/ジェフリー・S・ヤング (著), ウィリアム・L・サイモン (著), 井口 耕二 (翻訳))第10章

※2 筑紫哲也×スティーブ・ジョブズ 「電脳社会の新世紀」 http://youtu.be/YNIAIovwkGg

※3 Apple Event Oct. 9, 1999 http://youtu.be/ngW5qCBRwxk

※4 『スティーブ・ジョブスII』第29章

※5 『スティーブ・ジョブズは何を遺したのか』安藤国威・Sony元社長インタビュー

※6 『iPodは何を変えたのか』第3章

※7 『スティーブ・ジョブズII』第29章

※8 『Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言』ジョン・スカリーの章