ローマ教皇が祈るAIとロボットの有効活用 キリスト教の目的とデジタル世界
先日、スーパーでおばあちゃんが林檎を選んでいるのを見た。このスーパーは、近々閉店する。近くに他のスーパーはない。おばあちゃんはもう、林檎が食べられない。
11月12日、GIGAZINEに「フランシスコ教皇が「ロボットと人工知能が常に人類の役に立ちますように」と祈る」と題する記事が掲載された。よく知られているように、第266代ローマ教皇のフランシスコ教皇は、テクノロジーとの関わりが深い。教皇による11月の「祈りの意図」では「ロボット工学と人工知能の進歩が、常に人類に役立つことを祈る」と記されている。
教皇もいうように、ロボット工学を「公益と結び付ける」とき、よりよい世界の実現につながる。しかるに、技術の進歩が不平等を増大させるのであれば、それは真の意味での進歩とはいえない。すでにローマ教皇庁は、2020年2月にThe Rome Call for AI Ethicsを発表しているが、6つの原則の2つめには「インクルージョン(包含)」として、すべての人間の要求に配慮しなければならないと掲げられている。
AIやロボットは、「すべての人間」に分け隔てなく、恩恵を与えるものでなければならない。したがってそれは、犯罪に使われたり、人を殺す道具に使われたりしてはならない。AIやロボットなどのテクノロジー、つまり手段は、人びとを不幸にするためではなく、幸福にすることを目的に、存在すべきなのだ。だから教皇は、ことさらAIやロボットの倫理的利用を訴える。そうすれば、少なくともキリスト教圏の人びとは、幸せに暮らせるのだから。
筆者も含め、日本に住む多くの人びとは、キリスト教徒ではない。ゆえにまた、キリスト教の原則 Principle に従って行為することもない。しかしながら、悩める人のために親切にしたいと思う気持ちは、人類に共通のものであろう。たとえキリスト教徒でなくとも、弱き人、見捨てられた人 Outcast のために祈ることはできるし、また行動することもできる。
デジタルビジネス・トランスフォーメーション
近年、DXという言葉が巷を賑わせている。しかしこの言葉は、ときに誤解された文脈で用いられることがある。
端的にいって、DX(デジタルトランスフォーメーション)とは、アナログないし物質のデジタル化のことではない。黒板を電子黒板にすることでもなければ、紙の作業をiPadで行うことでもない。本当の意味は (1)トランスフォーメーション(変革)を (2)デジタルなテクノロジーを用いて実現すること という意味である。この文脈において、イメージとしては Digital “for” Transformation に近い。
なぜ変革を起こすのか。それは、変化する社会の中では、必然的に困っている人 Outcast が生まれるからである。つまり変革は、誰かを困らせるためではなく、すでに困っている人がいるがために、起こされるのである。このときデジタルなテクノロジーは、彼らを助けるための可能性や能力、アリストテレスのいう可能態 dynamis といえる。それが実践において開花し、現実態 energeia となったとき、人びとは救済される。
したがってDXは、組織内の文化・プロセス変革に留まらず、外部に影響を与えることを目指す。あるいは、すべてのビジネスは外的な社会に影響を及ぼすものであるから、組織内の文化やプロセス変革もまた、デジタルビジネスの創造に向けて行われる。かくしてDXとは、変化の中で生じる「困っている人」を助けるために、多くの人びとに影響を与えることが予見されるデジタルなテクノロジーを用いて行われる、ビジネス創造のことをいうのである。
これらはすでに常識なのだが、ことに日本の企業や役所、教育現場などでは、いまなお「デジタル化」をDXとみなす人が多い。そのゆえに、単にデジタル技術を取り入れれば、何か変革が生じるのだと考えてしまうのである。しかしDXは、デジタルかどうかの前に、いかなる変革を起こすか、あるいは「困っている人」を助けるかの話である。目的なき手段を振りかざしたとて、何ごとかを達成することはできない。そればかりか、人びとの負担となることさえも、少なくない。
DX推進の考え方
デジタルなテクノロジーは、多くの人びとを助けるための、潜在性ないし可能性である。それゆえに、キリスト教の目的達成と、親和性が高いのである。それは、あまねく人類に救いの手を差し伸べることであり、とりわけ、見捨てられた人 Outcast を救済することである。
繰り返していうが、筆者はキリスト教徒ではない。だが、すべての人と同様に、社会内に存在する人間である。その意味するところは、互いに他者とともに、ゆえにまた、他者のために生きるべく存在するということである。結局のところ、人間が自分らしく生きるということは、いかなる人びとのために生きるのかを、決めることなのである。
DXもまた、人間らしく生きることから、独立しない。身近な人であれ、遠く離れた人びとであれ、自分の手で誰かを救うことを、DXは意味するのである。その手だてが「デジタル」というだけのことであり、そしてそれは、たしかに有効な手だてといえる。それをビジネスとして開花させたとき、多くの人びとに恩恵が与えられるのである。
まもなく筆者は所属する大学を辞任するが、その理由は、このまま地方大学の教員でいたら、多くの人びとを救うことができないと思ったからである。林檎が食べられないおばあちゃんはどうなる。貧しくて大学に通えない子供は。虐待されている児童は。過労死すれすれの学校教員たちは。時代に取り残されて、淘汰されていく企業の社員は。
無人走行車があれば、おばあちゃんに林檎が届けられる。通信制大学があれば、安くて質の高い学びの機会を与えられる。データ分析環境が整えば、児童虐待を予見できる。学校にロボットが導入されれば、先生と子供たちが一緒にドッジボールを楽しむことができる。あまねく企業にDX推進室を立ち上げられれば、企業が価値化されて、すべての人びとが笑顔で働けるようになる。
新約聖書のルカによる福音書10章には、「善きサマリア人のたとえ」という話がある。いかなる手段を用いようとも、見捨てられた人の隣人となるのは、かれを助けた人であろう。だから、イエスは云うのである。「行って、あなたも同じようにしなさい。」