Yahoo!ニュース

なぜ日本は「冷たい人」の国になってしまったのか

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 目も当てられないほど、痛ましい事件が頻発している。

 事件の加害者たちが、なぜ罪を犯したのかは分からない。しかし、人が突発的な行動を起こすのは、抑圧から逃れるためであることは明らかである。そうであれば、その人を追い詰めた社会にも問題があるといえよう。弱き人に救いの手を差し伸べなかった「冷たい人たち」が、恐ろしい怪物を生み出したのである。

 いうまでもなく、自分が不幸だからといって、他者に危害を加えてよいはずがない。だが、多くの人がそうするように「一人で死ね」と突き放してしまえば、これからも事件は起きるだろう。新たな犠牲者が生まれないためにも、根本的な解決のためには何が必要なのかを、一緒に考えてほしい。

善きサマリア人

 キリスト教の新約聖書、ルカによる福音書10章には、善きサマリア人という話がある。

 ある律法学者が、イエスを試そうとして言った。「何をしたら永遠の生命が受けられますか。」イエスは返答した。「律法には、なんと書いてあるのか。あなたはどう読むのか。」律法学者は言った。「心を、精神を、力を、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよと、また自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよとあります。」

 イエスは応じた。「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、命が得られる。」しかし律法学者は、自己弁護のために次のように返した。「それでは、私の隣人とは誰のことでしょうか。」こうしてイエスは、善きサマリア人の話を説くことになる。

 ある人がエルサレムからエリコへと向かう途中で、追いはぎに遭った。追いはぎは、その人の着ている服をはぎとり、また殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。そこにたまたま、祭司が通りかかったが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じようにレビ人も通りかかったが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。

 ところが、あるサマリア人の旅人が通りかかったときには、その人を憐れに思い、近寄ってきて、傷口に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をしてやり、それから自分のロバに乗せて、宿屋に連れていって介抱した。

 翌日には、銀貨二枚を宿屋の主人に渡して、こう言った。「この人を看てやってください。よけいに費用がかかったなら、帰りがけに、私がお支払いします。」

 以上が、善きサマリア人の話である。当時のユダヤ教の祭祀は、大祭司、祭司、レビ人の三つの階級に分かれていた。彼らは主ヤハウェを継ぐレビ族の子孫であり、祭祀はその職務を全うし、人々を導く役目をもっていた。また、その他のレビ人も祭祀を支援する人びとであった。その彼らが、奪われた人に救いの手を差し伸べなかった場面を、イエスは説いている。

 一方でサマリア人とは、イスラエル人とアッシリアの異邦人との混血である。彼らはユダヤ教と異教徒の教えを混合させた宗教をもっていたため、人々から疎まれていた。その彼らが、祭祀やレビ人とは異なり、慈しみを与えた場合をたとえにして、善きサマリア人の話を説いたのである。

隣人とは誰のことか

 この逸話をもとに、善きサマリア人の実験と名づけられた有名な実験がある。

 プリンストン大学のジョン・ダーリーとダニエル・バッソンは、神学校に通う学生に対して、次のような実験を行った。教室にいる学生らに、次の時間に行ってもらう談話の場所へ向かうように促すのだが、その道すがら、さも体調が悪そうにうずくまっている人を彼らに見せる。

 談話の場所へと向かう前に、半分の学生には「もう遅刻だ。先方は待っているから、急いだほうがいい」と促す。残り半分の学生には「まだ時間はあるが、そろそろ向かったらどうだろう」と促す。前者の学生がその人の前で立ち止まったのは、たったの10%。後者の学生は、63%であった。

 祭祀とレビ人は、どうして半死の人を助けなかったのか。その理由は、旧約聖書の民数記第19章に、人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れるとの記述があったからであろう。もし半死の人を助けてしまえば、その後の職務に支障をきたすことになる。彼らは冷たい人だったのではなく、事情によって助けられなかった。これが、善きサマリア人の話の意味するところである。

 人は、忙しさにかまけていたり、さし迫った業務に追い立てられたりしていると、自分のことで頭が一杯になってしまう。神学を志す学生は、強い信念をもって神学校に入学したはずだ。その彼らとて、目の前に現れた弱き人を見棄ててしまうのである。

 現代の日本人は、働き詰めの毎日を送っている。過密なスケジュールをこなし、今日明日の生計の資を稼いでいる。誰もが終わりなき日常を生き、誰もが助けを必要としているはずだ。だから言いたい。少しの間、隣の人のことを考えてほしい。自分と同じように、助けを必要としている人がいることを想像してほしい。その人のために、少しだけ気遣いをしてあげてほしい。助け合う余裕すらない社会は、健全な社会とはいえない。

 善きサマリア人の話を終えたあと、イエスは律法学者に質問した。「さて、あなたはこの三人のなかで、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うだろうか。」律法学者は答えた。「その人を、助けた人です。」

 したがって、イエスは言った。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

遠藤司の最近の記事