「新型コロナはどこから?」 HIVでも起きた不毛な陰謀論との接し方は?

実験室でCOVID-19患者の血液サンプルを研究する研究者(写真:ロイター/アフロ)

新型コロナ人為論を巡る対立

 新型コロナウイルスの起源を巡り、各国の対立が深まっています。中国では3月に外務省の趙立堅副報道局長がTwitterで、米軍が武漢市にウイルスを持ち込んだと主張(後に訂正)し、4月にはアメリカでトランプ大統領が新型コロナウイルスは武漢の研究所を発生源だと主張。先日もポンペオ国務長官が「武漢の研究所から発生したことを示す多くの根拠がある」と発言したと報道され、ウイルスの発生源とその責任を追求する動きを強めています。WHOも5月1日に専門家による緊急委員会の内容を公表し、ウイルスの起源を特定を進めることを表明しており、ウイルスの起源を巡る対立は今後も続くとみられます。

 このようにウイルスの起源が国の対立にまで発展している現在ですが、病原体の起源を巡って国家同士の問題に至ることは過去にもみられました。今回はかつてエイズで見られた国際的な偽情報の例から、病を巡るフェイクとその影響を見ていき、こういった話への対処法を考えたいと思います。

HIV生物兵器説の誕生

 1983年7月、インドのニューデリーの日刊紙『パトリオット』にある記事が載りました。匿名の手紙を掲載する形で載せられたその記事は、後天性免疫不全症候群(エイズ)は米国防総省の生物兵器研究の結果生まれたと主張するものでした。1980年代の初め、エイズは正体不明の病気として恐れられており、1983年5月に発表されたエイズ患者から分離されたウイルスも、まだエイズの原因なのか不明という状況でした。

 しかし、この記事が掲載されたパトリオット紙には裏がありました。1992年に亡命した旧ソ連の情報機関、国家保安委員会(KGB)職員のヴァシリー・ミトロヒンが持ち出したKGB内部文書のコピーには、1975年だけでインド国内でKGBによる偽情報記事が5510も掲載されたことが記されており、インドはソ連の偽情報工作の一大拠点でした。そして、同じく亡命KGB将校の証言によって、パトリオット紙もソ連の偽情報を流すために1962年に創刊されたことが明らかになっています。

 一般的に情報機関というと、情報を様々な手段で収集することがその目的と思われるかもしれません。しかし、旧ソ連の国家保安委員会(KGB)では、情報を広めることも重要な任務と位置づけていました。しかし、ここで広める情報は正しい情報ではなく、偽の情報。今風に言うならフェイクニュースです。その目的は、対象国の信用を毀損することから、混乱をもたらすこと、国民の認識操作まで様々で、その活動は「アクティブメジャー」と呼ばれていました。

旧KGB本部(現在のロシア連邦保安庁本部(筆者撮影))
旧KGB本部(現在のロシア連邦保安庁本部(筆者撮影))

 パトリオット紙のエイズ報道はKGBによる反米感情を煽るための工作活動だったのです。ところが、この記事はインド国内ではそれほど相手にされず、一時期は忘れ去られていました。

東ドイツの参加

 ところが1986年になって、このエイズキャンペーンに東ドイツの情報機関、国家保安省(シュタージ)がKGBのパートナーとして参加します。シュタージは、ロシア生まれの東ドイツ人生物学者ヤコブ・ゼーガル博士をキャンペーンに使うことを計画しました。

 KGBといった旧共産圏の情報機関は、情報活動に使うエージェントを役割に応じて様々な分類をしていました。その一つに「影響力のエージェント」(Agent of influence)があります。影響力のエージェントとは、外国の世論に影響を与えるために偽情報を流すエージェントのことで、KGBは影響力を持つ政治家やジャーナリスト、学者といった人々を利用し、そうした人々は無自覚(あるいは自覚的に)にソ連のエージェントとして働きました。ゼーガル博士はその影響力のエージェントとして利用されたのでした。

 ゼーガル博士は妻と共著で「エイズ-その自然と起源」と題したパンフレットを発表しました。その中でエイズを引き起こすウイルスは、アメリカ陸軍の研究施設であるフォート・デトリックで、ビスナ・ウイルスとヒトT細胞白血病ウイルス1型(HTLV-1)から合成されたものだと主張したのです。

HIVとHTLV-1の電子顕微鏡画像(CDCライブラリより)
HIVとHTLV-1の電子顕微鏡画像(CDCライブラリより)

 エイズの症状が初めて公にされたのは、1981年6月に米疾病予防管理センター(CDC)の『疫学週報』に掲載された症例報告ですが、現在の研究ではエイズを引き起こすヒト免疫不全ウイルス(HIV)はそれ以前から存在し、20世紀前半に中部アフリカで発生したと考えられています。人類がウイルスを観察できるようになる前から存在していた訳で、HIVが人為的に生み出されたという説は成り立ちません。

 しかし、生物学者の肩書を持つゼーガル博士によって書かれたパンフレットはKGBやソ連メディアによって世界中に拡散されました(しかも、フランス人生物学者として紹介されることが多かった)。1986年9月には第8回非同盟諸国首脳会議が開かれたジンバブエのハラレにパンフレットが出回り、翌月にはイギリスのサンデー・エクスプレス紙の一面記事となり、40カ国以上に拡散されました。このエイズキャンペーンについて、ニューヨーク・タイムズ紙はKGBの偽工作の中で最も成功したものだと述べています。

 しかし、このキャンペーンも長続きしませんでした。事態を憂慮したアメリカ国務省が調査を行い、KGBの偽情報工作であることを立証し、ソ連に抗議しました。1987年12月にソ連のゴルバチョフ書記長が訪米した際、書記長はアメリカに対する偽情報工作をやめるよう指示したことを明らかにし、実際に1987年前半にまで見られたソ連によるエイズ陰謀論の宣伝が収まっている事が確認されました(読売新聞1987年12月24日朝刊)。

日本でも拡がるエイズ陰謀論

 ところが、エイズに関する偽情報キャンペーンを始めたソ連が工作をやめてもなお、エイズ陰謀論は世界に拡がり続けました。ゼーガル博士はその後も(ソ連や東ドイツが消滅した後も!)エイズ陰謀論を主張し続け、1992年には日本でも著書が発売されています。

 筆者が調査したところ、1993年5月の産経新聞にゼーガル博士の著書に肯定的な読者書評が掲載されています。これは専門家でない人の書評だからまだいいのですが、1994年1月に愛媛新聞に掲載された現役医師によるコラムの中でも肯定的に触れられており、医師であっても信じてしまう人が出ている有様です。

 HIV生物兵器論は、当時も既にKGBの偽情報であることが明らかになっているのにも関わらず、そのことが全く知られておらず、依然として信じる人が後を絶ちません。ネット通販でゼーガル博士の著書レビューを見ると肯定的評価だらけで、近年の評価も多いことからも、一度広まった偽情報を抑えることの難しさが窺えます。

多く出回る新型コロナウイルスフェイク

 さて、現在に話を戻すと、毎日のように新型コロナウイルスがどこかの研究所から流出したとする話は、毎日のように報じられていますが、その中で説得力のある証拠を示したものは一つもありません。また、EUの偽情報検証サイト"EUvsDisinfo"では、2020年5月4日現在、コロナウイルスについて453のフェイクニュースを確認しています。今、もっともフェイクが活発なのが新型コロナウイルス関連と言えるでしょう。

コロナウイルスについての偽情報一覧(EU vs Disinfoより)
コロナウイルスについての偽情報一覧(EU vs Disinfoより)

 フェイクニュースが多く出回っている中で、根拠の不確かな話にいちいちつき合う必要はないでしょう。新型コロナウイルス人為論については、専門家や専門機関の多くが否定的であることからも、当面は脇に置いておくのが賢い対応だと思われます。

【参考】

Thomas Boghardt "Soviet Bloc Intelligence and Its AIDS Disinformation Campaign", Studies in Intelligence Vol. 53, No. 4 (December 2009)

米国務省 "A Report on Active Measures and Propaganda, 1986-87", August 1987

ジャック・ペパン著,山本太郎訳『エイズの起源』みすず書房

 また、ニューヨーク・タイムズ紙がYoutubeに公開している動画”Operation InfeKtion: How Russia Perfected the Art of War”の前半は、米ソの様々な関係者がエイズを巡る偽情報戦を証言しており、映像表現も相まって分かりやすいです。英語ですが字幕機能を使って日本語に自動翻訳させれば、おおよその内容は掴めることができると思いますので、一見をオススメします。