「江戸城の防御力は世界最高」記事の虚実

江戸城桔梗壕と桜田巽櫓(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ)

 先日、Yahoo!ニュースにこんな記事が掲載され、話題を集めていました。

 「江戸城の防御力は世界最高レベル」 授業では習わなかった「お城のスゴいところ」を専門家に聞いてきた

 配信はITmediaの軽めの話題を扱う『ねとらぼ』。自転車系ブロガーの著者が「大学院で考古学を学び、発掘調査をしていた経験を持つ元考古学者のSさん」に、江戸城についてインタビューしたという形で記述されています。ただ、専門家といいつつも、その素性や経歴は一切謎で、どういう専門家なのかも不明です。

 そして、その内容に各方面から疑問の声が出ています。Twitter上でもっともシェアされた疑問は、志学社代表取締役・星海社フェローで、『戦国北条五代』『戦国大名武田氏の戦争と内政』『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』(いずれも星海社新書)などを手がけた、編集者の平林緑萌氏のツイートです。以下に引用してみましょう。

 平林氏の言うように、上杉謙信と武田信玄が江戸城を攻めたとは現代に伝わっていません(近くには来ていますが…)。平林氏の疑問ツイートが拡散されたためか、2019年5月27日11時付で「初出時、『上杉謙信と武田信玄は江戸城を攻めようとしましたが』とありましたが、誤りでした。お詫びして訂正いたします。」と訂正が行われています。他にも楠木正成についての記述も読者からの指摘で削除されており、ツッコミがかなり来ているようです。

 しかし、平林氏のツイートにもあるように、この記事には他にも疑義が多く、それがYahoo!ニュースに掲載されてそれなりに読まれたとなると、影響力は計り知れません。そういう流れに少しでも抵抗したいと思い、ささやかながら自分も軍事面での疑義がある点について書いてみたいと思います。

「江戸城の防御力は世界最高レベル」?

 記事のタイトルにもなっている「江戸城の防御力は世界最高レベル」は、恐らくねとらぼの編集がつけたもので、記事中では「江戸城はあらゆる城の中で屈指の防御力を誇る、難攻不落の城ですよ。世界的に見ても超ハイレベル」と多少ニュアンスが異なります。何をもって「超ハイレベル」「世界最高」かは明白ではないですが、本当に江戸城の防御力は世界最高なのでしょうか?

 建造年代も新しく、広い堀を備えた江戸城が、日本でも最高峰の防御力を備えているのは間違いでないと思います。しかし、城、軍事要塞というものは、対象となる脅威を想定して造られるものです。戦国時代は日本の内戦であり、主要な脅威は日本の大名とその軍です。ここに大きなポイントがあります。

 日本が戦国時代を迎えていた頃、西ヨーロッパでは『イタリア式築城術』(稜堡式城郭)がみられるようになりました。これは、大砲(攻城砲)の登場によって、高い城壁や塔を備えた中世ヨーロッパの城が脆弱なものとなったため、構造物を低くし土塁(厚い土の壁)を張り巡らせ、城の外に向かって鋭角に突出した形状(稜堡)を備えたものでした。

イタリア式築城術により造られたオランダのブルタング要塞(Wikimedia Commonsより)
イタリア式築城術により造られたオランダのブルタング要塞(Wikimedia Commonsより)

 この構造は大砲に対して堅固にするとともに、こちらの火力を最大限に活用するためのものです。稜堡は銃や大砲の死角を無くすとともに、相互に火力を発揮できるように造られています。このイタリア式築城術はヨーロッパに広がり、17世紀にフランスのヴォーバンにより完成され、ヴォーバンが設計した『ヴォーバンの防衛施設群』はユネスコの世界遺産に登録されています。

 一方、江戸城の頃の日本の城は、高い石垣や天守閣を備えたものです。例の記事にも、江戸城の石垣写真に「見上げるような江戸城の石垣」とキャプションがついています。なぜこのような違いが日欧で生まれたかは、日本では鉄砲が大量に使われたのに対して、大砲の利用は後になってからのことだったためと言われています。大坂冬の陣では徳川方の大砲による砲撃で、動揺した大坂方が和議に応じるなど戦果を見せ始めましたが、翌年の大坂夏の陣で豊臣家が滅びて戦乱が終わると、日本の城は進歩する必要が無くなりました。

高い天守を備えた大阪城(復元天守)(筆者撮影)
高い天守を備えた大阪城(復元天守)(筆者撮影)

 これを踏まえると、江戸城の防御力が「日本最高」なのは間違いないと思いますが、「世界最高」かどうかは考慮する余地があります。日本国内の大名相手には問題なくても、世界に視野を広げて同時代ヨーロッパの大砲相手にするとどこまで持つか。これは優劣の問題というより、想定する脅威に対応しているかそうでないかの話です。

 そして、江戸城の主である徳川幕府もそこは分かっていました。幕末に開港した箱館では、箱館奉行が奉行所の防備の不備を認識し、幕府に箱館防衛の上申書を提出します。それを受け建造されたのは、ロシア等の外国の攻撃を想定してイタリア式築城術に基づき設計された五稜郭でした。

五稜郭の図(パブリックドメイン)
五稜郭の図(パブリックドメイン)

西日本の馬はポニーサイズで鎧武者が乗ったら身動きが取れない?

 記事では江戸城以外でも戦闘について触れていますが、次のような記述がありました。

 「あと、東日本は馬の産地でしたが、西日本は馬が少なかった。あってもポニーくらいの仔馬サイズのもの」

――数十キロの鎧を着た90キロくらいもある侍が乗ったら身動きとれないんじゃ?

 「そうなんです。なので西日本は武将ですら徒歩移動だった……という説もあるくらい。」

出典:「江戸城の防御力は世界最高レベル」 授業では習わなかった「お城のスゴいところ」を専門家に聞いてきた

 この記事の記述では西日本の馬としていますが、「日本の馬はポニーサイズ」、「鎧武者が乗ったら動けない」という説は今でも目にしますし、かつてそう主張した研究者もいました。記事中の馬(ポニー?)の写真には「戦闘能力低そう……」というキャプションまでつけられています。しかし、ミリタリーライターの樋口隆晴氏によれば、日本馬が戦闘用の乗馬に適さないとする説は、すでに否定されているものとされます。

 まず、ポニーの定義は「肩までの高さ(体高)が147cm以下の馬」とされますが、中世の中央ヨーロッパで騎兵が使っていたノリーカー種の平均体高も147cmでポニーに分類されるものも珍しくありません。このことから、世界的にも同時期の騎兵用の馬はポニーが少なくない事がわかります。体高147cmと言っても、頭の高さは190cmくらいあるので人間よりも大きく、一般的な「ポニー」のイメージとはかけ離れています。

日本在来馬のひとつ木曽馬(Yanajin33撮影)
日本在来馬のひとつ木曽馬(Yanajin33撮影)

 で、実際日本の馬はどうでしたでしょうか。鎌倉時代末期の材木座遺跡(神奈川県鎌倉市)から発掘された馬の平均体高は129.5cmでこれらより小さい(ただし、頭までは当時の日本人と同じくらいの高さ)ものでした。つまり、東日本の馬もポニーなわけです。同時期のアジアの馬も同様の体高で、ユーラシアを制したモンゴル騎兵の馬も同じような大きさでした。ポニーでは戦えないとする記事の記述と、真っ向から反します。

 しかし、軍馬としての能力は体高だけでは測れず、日本馬は速力こそ遅いものの、持久力や山地踏破性に優れているとされます。そして、現実に日本馬に乗って騎射するために日本の馬具は最適化されており、馬の大きさだけで戦闘に適さないとは言えないでしょう。実際、秀吉の朝鮮出兵の際の明軍の記録に、日本軍の騎兵に悩まされたという記述もあります。

 ただし、戦国時代の西日本では下馬戦闘が主流となっていて、東日本のように騎馬戦闘に慣れていなかったことは、江戸時代初期に書かれた『雑兵物語』に記述があります。恐らく、日本馬がポニーサイズだという話と、そのへんの話を混同して「西日本の馬はポニーサイズで戦えない」になってしまったと思われます。

専門家とはなんだろう

 この他にも、信長の三段撃ちの記述とかも怪しいところがあるのですが、短い上にあくまで余談としているのでここは置いておきます。ただ、私に分かる軍事的なこと以外でも、普請の記述や鬼門の記述に疑義を持つ方も散見でき、記事全体を見てもどこまで信用できるか怪しいところがあります。

 ただ、このような信憑性に疑義がある内容を、専門家を名乗る人が匿名で話していいものだろうか……という疑問は拭えません。専門家が信用できるかどうかは、過去の実績をみて判断されるものです。専門家として知見を提供するなら、匿名にする必要は無いと思いますし、なぜ匿名にして記事化したのか、正直分かりかねます。

 問題はこういう記事がねとらぼだけで掲載されるならまだしも、日本で一番影響力のあるYahoo!に掲載され、それなりに読まれていたことですが……。まあ、この記事がYahoo!の片隅にでも掲載されることで、少しでも中和されればいいかなあ、と思います。

【参考文献】

久保田正志「土塁から石垣へ、山城から平城へ 鉄砲が創った白亜の城」『歴史群像』2002年6月,学研パブリッシング

福田誠「日本初の稜堡式要塞 箱館 五稜郭」『歴史群像』2002年12月,学研パブリッシング

樋口隆晴「図解 武器と甲冑(第1章)武者ノ世(5)馬と馬具」『歴史群像』2017年2月,学研パブリッシング

平山優『検証 長篠合戦』2014年8月刊,吉川弘文館