今季限りで現役引退した元阪神タイガース・林威助選手が歩んできた足跡

引退し、晴れやかな笑顔を見せる林威助氏(撮影:中川春香)

■元阪神タイガース・林威助選手が現役引退

(写真提供:中信兄弟)
(写真提供:中信兄弟)

  阪神タイガースで背番号31番を継承した林威助選手が祖国・台湾のプロ野球・中信兄弟で活躍したのち、今季限りで引退をした。

 最愛の母に見守られながら9月30日、引退試合とセレモニーを行い、15年間のプロ野球人生に別れを告げた。

 それでは林威助選手が日本の1軍の舞台で躍動するまでの足跡を振り返ってみよう。

■日本の高校野球に憧れる

(写真提供:中信兄弟)
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 林選手が日本の野球に興味を持つようになったのは中学生のときだ。台湾でテレビ放映されていた日本の高校野球を見て、とりこになった。そして「日本で野球がしたい」と強く思うようになっていった。

 当時の林少年には自信があった。小学生時代は硬式野球のリトルリーグのピッチャーで世界優勝をしている。中学でも2年、3年ともにピッチャーで全国大会、アジア大会に優勝し、世界3位に輝いた。

(写真提供:中信兄弟)
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 だからといって誰でもすぐに日本に行けるわけではないが、林選手にはたまたま縁があった。

 「中学のコーチがある台北の社長と知り合って、その社長と柳川高校の当時の理事長が友だちだったので、そのルートで」と、日本行きの話が舞い込んできた。

 けれどそのころ、林選手の父が病気になり、泣く泣く断念して高雄の高校に進学した。

 高校1年の終わりごろにまた、日本行きの話が浮上。そのころには父の病状も回復しており、相談したら背中を押された。そこで1年遅れで柳川高へ進むこととなった。

 「言葉もわからないし不安はあったけど、ずっとテレビで見てきた甲子園を思い浮かべると、不安より楽しみのほうが大きかった」と期待に胸をふくらませて日本に渡った。

■柳川高校での衝撃

(写真提供:maru)
(写真提供:maru)

 ところが日台の違いに驚くばかりだった。まずは練習だ。

 「台湾は週に一日半は休みあるのに、日本の高校はまったくない。平日は学校が終わって毎日練習で、土日は必ず試合」。野球づけの毎日だ。

 環境も衝撃だった。「柳川は田舎で、思い描いてたのと全然違った。ドラマで見るじゃないですか。東京とか大阪みたいなの。そういうのを想像してたから、柳川に着いた瞬間、『自分が住んでるところより田舎やん!』って(笑)」。最初は言葉の壁もあり、とにかくつらかったという。

 何度も辞めようと思った。「台湾のいろんな人に相談もした。でもボクが『帰りたい』って言っても『いや、ダメだ。辞めてはいけない』と叱咤された。それにお父さんとも約束していたので…」。

 日本行きを決めた直後に亡くなった父は、我が子が日本野球界で活躍することを願っていた。

(写真提供:中信兄弟)
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 腹をくくり、日本で野球を続ける決意をした林選手は、やがてチームの主軸として成長していった。

 2年夏の県大会の決勝で敗れ、惜しくも甲子園切符を逃した。しかし「全然泣かなかった。どうせ来年もあるわと思っていたから」と、早くも翌年の出場に気持ちを切り替えていた。

 「けっこういい成績を出したから。8試合で7本ホーマー、7割近く打って打点も2~30くらい。来年はもっと楽しみやなと」。

(写真提供:中信兄弟)
(写真提供:中信兄弟)

 そんなウキウキした気持ちだった林選手は翌日、監督の言葉で奈落の底に突き落とされる。

 「1年遅れて入っているから、お前は来年の甲子園にはいけない」。

 そればかりか、その後の秋の九州大会もセンバツも、公式戦にはいっさい出られない。そして練習試合でさえも相手の監督の許可が必要だという。

 「ショックやった。頭が真っ白になって…。目標がなくなったわけだから」。しばらくは何も手につかなかった。放心状態だった。「大学に行くにしても3年生の成績を見られる。その3年の試合に出られないんだから」。ここまでの人生で、これほどつらいことはなかった。

 そこでまた思った。「帰ろう」と。もう日本にいる意味はない。

 しかしそのとき、頭に母の顔が浮かんだ。「お母さんに心配かけると思った。お父さんとの約束もあったし、今ここで帰ったらなんもならん。3年頑張ったら、あとはなるようになるやろうって思うようにした。でもきつかった」。

(写真提供:yukiko)
(写真提供:yukiko)

 ひとつ考えたのは、そのままプロにいくことだ。「当時は日本の教育を5年受けないとドラフトにかからない。今は3年だけど。そのときの勢いなら外国人枠でプロいけそうな感じがあった。実際、ほしいと言ってくれるスカウトもいたので」。

 けれど監督に反対された。「外国人枠だと結果を出さないとすぐにクビや。それより大学にいってしっかり勉強して、練習して技術を磨いて、日本人枠でドラフトにかかることを目指そう」。そう諭された。

 「監督には感謝してますね」と振り返る林選手。これまで節目節目で適切なアドバイスを授けてくれる人が必ずいた。

 「ボクは運がいい」と言うが、それはきっと常に真摯に一生懸命に取り組んでいる林選手が、自らの手で引き寄せているに違いない

■近畿大学に進学するも、度重なるケガ

(写真提供:中信兄弟)
(写真提供:中信兄弟)

  近畿大学に進学すると、いきなり頭角を現した。1年春に首位打者ベストナインに輝いたのだ。ここでまた「プロにいけるな」と自分自身に期待した。

 しかしそのころ、左ひじの痛みが限界に達していた。「ひじが変形していたんです」。

 小中学時代、投手として投げまくった。「当時はアイシングなんて知らないし、投げて投げて…」。明らかに登板過多による影響だった。

 「いつか手術しないといけない。するなら早めにしたほうがいいと思って」と夏すぐに手術した。難しい手術ではないと思ったが、「そのあと治りもよくなくて、力が入らなくなってしまった。見たらわかりますけど…」。

 よく見ると、今も左右が別人の手のように違う。左のひじから下は、右と比べて細く厚みも薄い。「どれだけ鍛えても戻らないんです」。

 それでも当時は「やるしかない」と必死に前を向いた。

(写真提供:中信兄弟)
(写真提供:中信兄弟)

 次に訪れた試練は大学3年の右ひざのケガだ。膝蓋腱の腱鞘炎だった。「あぁこれでもうプロは無理やな」と落ち込んだが、4年まではしっかりやろうと誓った。

 痛みはあったが、スカウトが見にくるときは痛み止めを服用して試合に臨んだ。熱心に通ってくれたのがタイガースの佐野仙好スカウトだったが、その目の前でホームランをよく打った。

 佐野スカウトに見初められ、「1年間はリハビリに専念しなさい」とケガを承知でタイガースが7位で指名してくれた。「ありがたいです」とここでも感謝の言葉を口にする。

■タイガースでのルーキーイヤーはリハビリイヤー

(撮影:筆者)
(撮影:筆者)

 プロに入り、実際にリハビリの日々はつらかった。「入った当時、井川)がまだ寮にいて、年下やけどエース。『わっ!井川や!』って(笑)。すごいなと思ったけど自分はまだリハビリ中でなんもできない。まるで別世界の人。同じ寮に住んでても天と地だと思った」。

 自分自身をもどかしく感じていた。「このままじゃ2~3年もするとクビになる」と焦りも出てきた。

(写真提供:中信兄弟)
(写真提供:中信兄弟)

 1年目の終盤になって、ようやくバッティング練習ができるようになった。ファーム本隊が遠征中のことだ。鳴尾浜での残留練習で、いきなりバックスクリーンを飛び越える当たりを2本かっ飛ばした。

 当時の水谷実雄コーチが目をまん丸にして腰を抜かさんばかりに驚いた。「こいつはスゴイ!」と。「ひざさえ治れば、すごい打者になるぞ」と大いに期待を懸けられた。

 そして2年目、ファームで実戦を積んで1軍に昇格した。2004年のアテネ五輪チャイニーズタイペイ代表にも選ばれた。

 「そこからちょっと自信が出てきた。『あぁ野球ができてるな』って」。その後のめざましい活躍は、多くの人の知るところだろう。

■台湾プロ野球へ

(写真提供:中信兄弟)
(写真提供:中信兄弟)

 2013年、タイガースを退団した林選手は、実はそこで引退するつもりだった。いずれ指導者になりたいという希望を持っていたので、その勉強を始めるつもりだった。

 しかしここでもまた助言してくれる人がいた。「まだ現役でできるなら、台湾でもプレーしたほうがいい。これまで日本のプロしか見ていない。台湾のプロを知らない。いきなり台湾で指導者になって“日本式”でやっても、選手はついてこれない。どういう環境か見てみてはどうか」。なるほどと思った。

(写真提供:中信兄弟)
(写真提供:中信兄弟)

 自身の体に相談すると「まだできそうだな」という結論に至り、ドラフト3巡目で兄弟エレファンツ(現・中信兄弟)に入団し、4年間プレーした。

 2年目からはキャプテンも任され、日本で学んだ挨拶などの礼儀作法や全力プレーをチームに浸透させた。

 台湾のプロ野球は打高投低だ。「ピッチャーも細かい配球はないし、バントやエンドランとか細かい作戦もあまりない。ただもう打て打てになっている」という。

 「これから国際大会で戦っていくには、日本のような緻密な野球も覚えないと勝てない」。高校で3年、大学で4年、そしてプロで11年。18年間で体得した日本野球のよさを、これから指導者として台湾野球に注入していくつもりだ。

■一球撃命

 「一球撃命」―林選手が大切にし、心の拠りどころにしてきた言葉だ。「ボクが考えたんですけど、“一球入魂”というような意味です」と明かす。

 「一球入魂」よりも、より激しく、そして腹が据わった感がある。

 選手時代も「一球撃命」で必死に突き進んできたが、これからの第二の人生も変わらず、いやそれ以上に「一球撃命」で前に向かっていく。

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