日本人も「ブラック・ライヴズ・マター」と無縁じゃない! 音楽や映画から知る、その理由(前編)
不正義への「怒り」が、各地で噴き上がった
まさに世界各地で天をも焦がすほどの勢いで、憤りの炎が燃えている。5月25日、米ミネソタ州はミネアポリスにて発生した、警察官によるジョージ・フロイドさん殺害事件に端を発する「怒り」のデモのことだ。これが全米はもちろん、欧州やアジアなどでも連鎖しつつ、空前の規模で日々繰り広げられているのは、各種報道のとおりだ。
その最大の旗印となっているスローガンが「ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter)」だ。だがこれについて、日本の一部では「アメリカの黒人だけに関係するもの」だという誤解が根強くある。そんなことは決してない。なぜならばこれは、日本人にとっても完全に地続きの問題なのだから。たとえば小沢健二も、このように気にしている。
つまり「ブラック・ライヴズ・マター」は、いつもいつも「肌が黒い」という理由だけで「白人」から差別されているかわいそうな黒人がいるから、「差別はやめましょう」と諭して仲裁するような運動――では「まったく」ない。
これは「怒りの」運動だからだ。不正義を正すための「戦い」だからだ。「いつもいつも」アメリカでは黒人ばかりが、警官による不当な暴力の行使によって、命を落とし続けていること――このことに対する、もはや我慢の限界を超えた激怒の渦が、いま世界中を覆っているものの正体なのだ。
つまり、殺されたフロイドさんは黒人だったが、しかし「彼を死に至らしめた」不正義と戦う者に、なんの人種的限定やら、資格やらが必要なわけもない。あるとすれば「自分自身も」「自分の愛する人も」いつでもたやすく、同様の不正義の行使による「被害者」となることを直観できる人にとっては、まさに「他人ごとではない」――この直観を持てるか、どうか。逆説的に「そのことだけが」問われている、とは言えるのだが。
つまりこの点において、世界中の人々の全員が、フロイドさんの死と無縁ではないのだ。1789年のフランス人権宣言以降、すべての人類は、まったくの無条件に、完全に等しく平等な「人間として当たり前の尊厳」を保障されなければならない、からだ。「いつの日にか」完全なるこれを達成するために尽力し続けることは、人類の全員に課せられた責務であって、例外は一切ないからだ。
しかしその途上である現在は、ありとあらゆるところでバランスを欠いた、間違ったおこないがまかり通っている。そのひとつであり、まさに喫緊の課題に対処するときのスローガンこそが「ブラック・ライヴズ・マター」の本質だ。
日本にも、このことに気づいた人はいる。そうした人々は、すでに一連の抗議活動への賛同と連帯の意志を、さまざまな方法で示してはいる。ただ、その数が依然として、あまりにも少なすぎるように、僕には思えてしょうがない。
これほど重要な問題であるにもかかわらず、これほどの不正義を目の前にしても、なぜか「腹が立たない」人もいる、ようなのだ。ここ日本には。
ゆえに本稿では、日本の人にもわかりやすく「ブラック・ライヴズ・マター」運動の要点のみを整理してみたい。音楽や映画、あるいはポップスターらの発言などの文化的事象を題材に、解説を試みてみよう。本稿がこの運動を知る道筋への入り口、とっかかりのひとつとなれば幸いだ。
繰り返すが、この問題は、対岸の火事ではないのだ。遠く離れた大陸での出来事かもしれないが、しかし「日本人だから」という理由で無視していい問題ではない。「日本人も人類の一員」ならば、無視はできない。
いま無言でいるということは「人の尊厳への根源的冒涜行為を容認する」ことになってしまうからだ。人道に対する罪が、すぐ目の前であったとき「あなたは目を背けるのか」ということが、問われているのだから。
1:「ブラック・ライヴズ・マター」運動は、なにを目指しているのか?
これについては、英語版ウィキペディアの冒頭文がわかりやすいので、訳出してみよう。
「ブラック・ライヴズ・マター(以下BLM)とは、アフリカ系アメリカ人のコミュニティを起源とする国際的な人権活動で、黒人に対する暴力や、制度的人種主義に対抗する運動をおこなっています。警察による黒人の殺害や、人種観に基づくプロファイリング、警官の残虐行為、米国の刑事司法制度における人種的不平等といった幅広い課題について、BLMはつねに、抗議の声を上げ続けています」
(出典:The Atlantic, August 31, 2017 より)
この運動は2010年代に、SNSを通じて大きく広がっていった。言い換えると「大きくならざるを得ない」ような、警官による黒人に対する不当にして残虐な行為が、あとを断たなかったからだ。今回のフロイドさんの事件は、ひとつの典型例と言える。
現時点までに確認できるところでは、フロイドさんは事件のそのとき、なんら一切武器も持たず、暴力など警官への威圧的行為すら、なにひとつおこなっていなかった。しかし、4人の警官によって手荒く拘束され、そして拷問にも近い形で路面に組み伏せられ、頸部と背中を圧迫された。苦しいと主張し、助けを懇願する声も聞き入れられず、そのまま最期の時を迎えた。
このようなひどい事件が起きた理由は、考えられるかぎりただひとつ、彼が「黒人だった」からだ。大柄な黒人男性だったからだ。白昼堂々おこなわれたこれら蛮行の一部始終は、現場にいた通行人などの人々に目撃され、また、動画にもおさめられた。この動画が拡散していって、人々の怒りに火を点けた。
この「警官の残虐行為」について、それが行使される現実について、見事に歌い上げた名曲がある。ひとつはケンドリック・ラマー「オールライト」(15年)、もうひとつは、チャイルディッシュ・ガンビーノ「ディス・イズ・アメリカ」(18年)だ。
2:「スポティファイのBLMプレイリスト」から学ぶこと
しかし「このようなひどい行為」は、なにも2010年代に始まったわけではない。ずっと昔から、連綿と続いてきた。繰り返されてきた(そして、そこが今回の怒りの熱量へとつながっている。「いつまで、こんなことが続くのか!」という)。近年のスマートフォン普及によって容易に可視化され始めただけのことだ。
だから「BLMへと結実していった」抵抗精神の源流とは、最短距離では、少なくとも米60年代の公民権運動のころにまで遡ることができる。つまり、ソウルやファンク音楽の隆盛と、ほとんど同じ時代に歩調を合わせるように発展してきた精神性だということだ。
といったところから、スポティファイのオフィシャルがプレイリストを編み、6月2日の「BlackOutTuesday」に合わせて公開された。
「オールライト」も「ディス・イズ・アメリカ」も入っているが、なによりもオープニングがジェームス・ブラウンの「セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド Pt.1」(1969年)なのがいい。(現時点では)全60曲、4時間10分の堂々たる大作プレイリストだ。ぜひ試してみてほしい。こちらがそれだ。
3:邦訳は「黒人の命も大切だ」でいい
どうやら、ネット界で論争があったようだ。「Black Lives Matter」をどう日本語に訳するのか、という問題だ。今回のフロイドさんの件の報道に当初よく使用されていた「黒人の命も大切だ」というのは、意味をよくとらえた悪くない訳だと僕は考える。
なぜならば、このスローガンを日本語に訳すには、直訳では駄目だからだ。「世界全体へのカウンター」という意味が必要となる。その「世界」とは、一体なにか? 上記の「制度的人種主義(Systematic Racism もしくは Institutional Racism)」に支配されきった「この地球の大部分」にほかならない。
単純に言うと、この地球上のいたるところで「黒人の命『以外』は大事」とでも言っているかのような「システム」が、すでに出来上がってから長いのだ。アメリカはもちろん、ほかの先進諸国も、それに追随する国も、みんな似たり寄ったりの「システム」に準拠している。これこそが「不正義の源泉」だ。
だからこそ「無視」されて、なにかというと平気で踏みつけられる黒人の命に「も」ほかの人種と「同等の価値が当たり前にあるのだ!」という意味が、英語のこのフレーズには宿っている。とくに「システムの最上段」にいるつもりになっている白人とも「まったく同じだけの価値があるのだ!」ということを、たったひとことで言い表すことができる言いかたこそが「Black Lives Matter」なのだ。ゆえに、大前提となるべき世界観も含んだ上でのシンプルな意訳として、「黒人の命も大切だ」以上の適切な日本語のフレーズを、僕はちょっと思いつかない。
いかにこの世界が不正義に満ちているか。「白人に有利に」あらかじめ作り上げられているか――これについては、ビリー・アイリッシュの発言から引いてみよう。「BLM」運動を非難するために作成されたと思しき「All Lives Matter(すべての命が大切だ)」というスローガンがあり、ハッシュタグとなってSNS上をよく流れていることを、ご存知だろうか? どこにでもいる逆張り連中が好んでポストするこの文言について、アイリッシュは正面から戦いを挑んだ。インスタグラムに、こう投稿した(邦訳はこちらにある)。
「好むと好まざるとに関わらず、白人は最初から特権を与えられているんだよ。白人だというだけで、社会は特権を与える。貧乏でも苦しんでいても、白い肌だというだけで、他の人たちよりも特権がある」
「肌が白いというだけで、命の危険を感じないで生きていくことができる。あなたたち白人はみんな、特権があるんだよ!」
もちろん、彼女も白人だ。だからこれは、言いも言ったり、まさに血を吐きながら特攻するような捨て身の態勢で、現在の「BLM」運動の阻害を試みる勢力へと戦いを挑んでいったわけだ。本当に彼女には頭が下がる。ロッカーの鑑だ!
~ひとまず、前編はここまでだ。後編にて「制度的人種主義」の本質および、いかに日本が「ある種のレイシズム」の総本山であるのか、解説してみたい。