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星野源は安倍首相に「政治利用」されたのか? 音楽と政治を「分離」したがる日本人の病理とは

安倍首相のインスタグラムより

星野源は「かわいそう」なのか?

 降ってわいたような騒ぎが、日曜日のネット空間を駆け巡った。4月12日、「外出自粛」要請下の日本列島が、(イメージ上の)てんやわんやの状態になった観がする……のだが、どうにも僕には、腑に落ちないところがある。まずは、事件を最初から振り返ろう。

 その起点となったのは、12日の午前9時11分、内閣総理大臣安倍晋三の公式ツイッター・アカウントから発せられたひとつの投稿だ(同様のものは関連のインスタグラムからも発信されていた)。新型コロナ感染症対策として「外出を控え、自宅にいましょう」と呼びかけるものだ。これが物議をかもした。添付された動画が火種となった。この動画は、左半分に「うちで踊ろう」を演奏し歌う星野源がいて、右半分には、それを観ながら自宅でくつろぐ安倍首相がいる、というもの。こちらが該当ツイートだ。

 この件にかんして、ネット界は荒れに荒れた。いろいろな意見が飛び交ったが、大多数がツイート内容と動画に批判的であり、また同時に、安倍総理の政策をも非難するものだったのは、時節柄当然のことだろう。

 とくに僕が目を奪われたのは、人気アーティスト星野源の人気動画コラボ企画が「政治利用された」として憤っている人が、少なくはないように見えたこと。そんなことが、あるわけがないじゃないか? いや「あってはならない」ことでもある。

 なぜならば、これはごく普通に見て「アーティスト公認」の出来事だからだ。星野源が自民党支持者なのか、内閣総理大臣安倍晋三の支持者なのか、それはわからない。だがしかし、この日曜日に安倍首相が発したツイートの「内容」には賛同し、そこに自分の動画が使われることを許諾した――という意味しかなさない。どう考えても。

 この原稿を執筆中の12日午後5時現在、該当のツイートも動画も削除されていない。もし今後削除されたなら、また話は別になるが、しかしいままでのところは「星野源が不本意に『政治利用』されてしまった」とみなせるような痕跡は、一切なにもない。にもかかわらず、「星野源を擁護する」意見のなかには、かなり特殊な「ものの見方」があった。その典型例が、前述の「利用されてかわいそう」論だ。

 なぜ、そんな見方をするのだろうか? いや「したがる」人が、とても多いのだろうか?  そもそも自民党が嫌いだから? 安倍首相が嫌いだから? 新型コロナ対策が、徹頭徹尾「箸にも棒にもかからない」愚策ばかり、だから?――しかし「だとしても」星野源には星野源の政治信条がある。

 彼はいい大人で、しかも日本国内では「とても成功している」アーティストだ。なのに今回の件で、たとえば「無垢で天真爛漫な音楽家」が、悪の総理大臣に「政治利用」されて「穢されてしまった」――というふうに見える人がいるならば(というか実際、結構な数いるようなのだが)、それは星野源に対して「失礼」というものだろう。彼の自由意志を認めていないことになるわけだから。

 星野源の政治信条が気に入らなければ、その点について非難する権利自体は、誰にでもある。また、それが理由でファンをやめる自由だってある。しかし「これは彼の本心ではない(かもしれない。そうであってほしい)」という態度や考えかたは、明らかに歪んでいる。混乱しすぎだ。

 星野源が保守思想の持ち主でも、それは彼の自由だ。あるいは「いまは政治的な立場を捨てて首相に協力すべき」という物言いによって、結果的に「政権を擁護する」スタンスを取ったとしても、彼がそう考えるのなら、誰が止められるものでもない。

 ただもしかすると、以下のように考えたい人もいるのかもしれない。

「本当は星野源は嫌で嫌でしょうがなかったんだけれども、一国の首相から頼まれたから『断り切れなかった』だけなのかも」

 などと想像する人も、いるかもしれない(「だとしても」結果は同じなのだが……)。

 とはいえ、もしその想像どおりだと仮定するならば、そっちのほうがより一層「まずい」。なぜならば彼はこの場合、表現者としてのプライドを捨てたに等しいからだ。首相の要請が「嫌なもの」だったならば、文字どおり「身を賭して」拒絶しなければならない。「嫌なのに、言い出せなかった」のならば、それはすなわち根本的に「アーティスト失格」というものだ。そんな不確かな、不誠実な者が芸術作品を作れるわけはないから(だがしかし、そんなことは「あるわけない」と、やはり僕は思っているが)。

スプリングスティーンがレーガン大統領にもの申す

 音楽アーティストと「利用しようとする政治家の対立」には、アメリカになるが、こんな有名な例がある。1984年、当時のアメリカ大統領だったロナルド・レーガンが、二期目を狙う選挙戦のキャンペーン・ソングとして、ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」を使った。アーティスト側には、無許可で。このことに、スプリングスティーン・ファンのコア層はみんな、烈火のごとく怒った。

 それは「誤解にもとづく使用」だったからだ。リベラル派として知られるスプリングスティーンの政治信条と、レーガンのそれは、まったく相容れるものではなかったからだ。しかしこの当時「ボーン・イン・ザ・USA」は、あまりにも売れてしまっていた。だから本来の歌詞の意味、ヴェトナム戦争の帰還兵の苦しみを歌った内容が、まるで力強いタカ派愛国ソングのように誤解されたあげく、大流行していた。

 保守アメリカの復活を目指していたレーガン陣営が「この解釈」にのっとって同曲を使用したのは明らかで、だからスプリングスティーン自身も楽曲使用に不快感を表明。自らのコンサートのステージ上で「大統領は俺の『ネブラスカ』を聴いたとは思えない」と言って、アメリカの闇のなかで煩悶する庶民を描いた旧作アルバムの名を挙げ、そこに収録されたナンバー「ジョニー99」を歌った。

 それはこんな歌だ。工場が閉鎖され、ラルフは職を失う。仕事は見つからない。住宅ローンが払えない……(まるで、いまのコロナ禍の世相みたいだ)酔っぱらった彼は銃を片手に街に出て、夜勤の店員を撃って逮捕される。判決は懲役99年。つまり日本で言うところの「懲役太郎」調の異名として、このときからラルフは「ジョニー99」と呼ばれることになる……。

ニール・ヤングはトランプ大統領に抗い続ける

 現在のアメリカ大統領であるドナルド・トランプとニール・ヤングの確執も記憶に新しい。トランプは2016年の選挙戦時、最初の出馬表明のタイミングでヤングの人気曲「ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド」を無許可で使用した。ヤング側は即座に抗議し、使用中止を求めた。だがしかし、トランプは「言い返した」。なぜならば、ヤングとトランプは旧知の仲であり、彼はトランプの持つ施設でライヴをした経験もあったからだ。なのに楽曲の使用を断るとは「偽善的ではないか」――というのが、トランプ候補者側の言い分だった。

 つまり逆に言うと「旧知の仲」だったとしても、ヤングは「やるべきことをやった」わけだ。政治家としてのトランプの信条、思想を「支持できない」ならば、自分の作品の使用を決して認めない――これは、当たり前のことだ。そしてさらに、ヤングは今年の選挙戦を巡っては「トランプの再選を阻むため」に、カナダ人だった彼が(投票できるように)アメリカ国籍まで取得。これまで果敢な活動を繰り広げていた。

 2016年の選挙戦と「キャンペーン・ソング」の関係性、あるいは、アメリカ政治と「歌」の長く深いかかわりついてご興味あるかたは、こちらの論考をご覧いただきたい。

 ともあれ、このようにしてアーティストが自らの矜持を示すことは、もちろん「日本でも可能」だ。自らの政治信条や思想とはかけ離れた形で、あるいは、作品そのものの本質を「曲解」された方向性で、政治家に「無断使用」されたときには、厳重に抗議した上で、それを取り下げさせるべきだ。もちろん、法的に可能な範囲で、というただし書きはつくのだが(だからヤングも苦労した)。

 ゆえに、今後件の動画が星野源側のアクションによって取り下げられたり、あるいは、本人のステイトメントとしてなにか発せられないかぎりは、星野源が「不本意に利用された」という事実は一切あり得ないわけだから、考える必要はない。

なぜ日本には「音楽に政治を持ち込むな」という人が、一定数いるのか?

 これに関連して、かねてより僕が不思議に思うことがある。日本の人はよく「音楽に政治を持ち込むな」と言うらしい。今回の星野源も、そうした観点から嫌がられているフシもある(アーティストが「政治家とかかわった」からという理由で)。だがしかし、そうした観点を持つこと自体が、やはり本質的に間違っている。

 なぜならば、音楽どころか、あらゆる芸術、表現活動とはそもそも「すべてが政治的」なものだからだ。童謡も、古典絵画もちょっとしたイラストも、全部だ。アイドル・ソングも、昭和歌謡曲も同様だ。歌詞が直接的に「政治的」でなかったとしても、その存在の総体が、なんらかの形で社会的な影響を与えざるを得ない表現は、すべてが「政治的」なのだ。その理由は、現代社会に生きる人間とは、そのひとりひとりが「きわめて政治的」な存在だから。そしてそれが、当たり前だが、民主主義というものの根本だ。

 また言うまでもなく、50年代アメリカに端を発する、ロックンロールの誕生以降に発展していった「ポップ音楽」とは、その起点から現在に至るまで、どこをどうとっても「きわめて『高度に』政治的」なものしかない。日本のJポップも、もちろんその最広義の定義のなかにある。だから「政治的なもの」しかない。

 どうやら、この当たり前のテーゼから無縁のオモチャのようなものとして、音楽やら「カルチャー」やらを愛でたいと考える欲求や習慣が、日本の一部には根強くあるようだ。だがしかし、それは国際的にごく普通の「現代社会」とはそぐわない。さらに言うと、いま現在の、尋常ならざる状況下においては、平時よりも一層、芸術から政治性が浮き上がってきても、とくに不都合はないのではないか。

 つまりいろんな意味で、今日は星野源がかわいそうになった。ただ僕自身は、日本政府のコロナ対策のすべてが根本的に間違っていると考える者だ。だからもし僕が「歌う人」で、同様の依頼を安倍首相サイドから打診されたなら、その場で丁重にお断りする。もちろん勝手に使われたのなら、即座に削除させる。

作家。小説執筆および米英のポップ/ロック音楽に連動する文化やライフスタイルを研究。近著に長篇小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』、音楽書『教養としてのパンク・ロック』など。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてデビュー。93年、インディー・マガジン〈米国音楽〉を創刊。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌〈インザシティ〉に参加。そのほかの著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、教養シリーズ『ロック名盤ベスト100』『名曲ベスト100』、『日本のロック名盤ベスト100』など。

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