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四国の田舎球団発メキシコの名門チーム行きの「ジェットコースター」【平間凜太郎物語3】

阿佐智ベースボールジャーナリスト
平間凜太郎(本人提供)

 毎年のようにプロ(NPB)へ人材を輩出している四国アイランドリーグplusで1年目2年目と圧倒的な成績を残しているのもかかわらず、ドラフトで平間凜太郎の名が呼ばれることはなかった。長いイニングを投げることを示すため、3年目には先発に転向し、ここでも100イニング以上を投げた上、防御率1点台で最多勝を獲得するなど文句のつけようのない成績を残したが、結局ドラフトにかかることはなかった。

 原因は自分でもわかっていた。「年齢」だ。2年目シーズン終了時で27歳。プロの世界ではもうドラフトするには遅いと判断する。例外がないことはないが、それは社会人野球で余程の活躍をした選手で、「即戦力」どころか、「即主力」と判断された者がまれに20代後半で指名されるくらいだ。「鉄は熱いうちに打て」というが、20代後半はプロ野球界ではもう「熱くない」と判断されるのだ。

 どうみても自分の成績に至っていない選手が次々とNPBの門を叩いていくのを見ながら、平間の心は穏やかではおれなかった。

「もちろん後輩がドラフト指名されるのはうれしいんですよ。今でも石井(大智、阪神)や藤井(皓哉、ソフトバンク)なんかとは連絡も取ってますよ。でも、やっぱり年齢なんだなって…」

 独立リーグ2年目、クローザーとして2年連続セーブ王を獲得し、防御率は0.43と驚異的な数字を残した。41回3分の2を投げ、自責点はたったの4点。それでも調査書が1通届いただけで、結局ドラフト指名はなかった。

「もう限界かな」

 平間の目標は国外でのトップリーグへと変わっていった。もともとメジャーリーグに憧れていた平間の脳裏に青々とした芝が広がるボールパークが浮かんできた。

幸い、高知球団には、NPBでの職員経験もある海外の野球に詳しい人物がいた。メキシカンリーグへの選手の橋渡しもした経験をもつその人物に平間は海外でのプレーの希望を伝えた。

 話は突然やって来た。高知での3年目のシーズンを先発投手として迎えていた2022年6月、メキシコシティに本拠を置く名門球団・ディアブロスロッホスから航空券が届いた。その時のことを平間ははっきりと覚えている。

「ちょうどチームが前期優勝を決めようかというところでした。それまでもメキシカンリーグの話はちょいちょいあったんですけど、なかなか進展しなくて…。じゃあもう仕方ないから、シーズンに集中しようっていう思いで投げてたんです。6月1日だったと思います。チケットが届いたの。それで、6月6日のダブルヘッダーで僕たち優勝したんですけど、その1試合目に僕が完封したんです」

 チームの優勝を置き土産に平間はメキシコへ旅立った。

メキシコナンバーワンの名門、ディアブロスロッホス・デ・メヒコ

「メキシコシティ・レッズ」としてアメリカでは知られているディアブロスロッホス・デ・メヒコはメキシコ野球界の名門中の名門だ。創設1925年とNPBより古い歴史を持つメキシカンリーグにあって最多の16回の優勝を誇り、レバノン系メキシコ人の富豪でMLBサンディエゴ・パドレスのオーナーグループにも名を連ねるアルフレド・アープ・ヘルをオーナーにもつこのチームはリーグ随一の資金力をもつ。

 事前にこの名門チームの概要については、ファイティングドッグスの先輩から聞かされていたと平間は言う。

「楽天でプレーされていた横山さん(貴明、2014-18年)が、高知にも在籍されていたんですけど、僕が1年目の時に一緒だったんですよ」

 横山は名門・早稲田大からドラフト6位で楽天に入団。3年で芽が出ず戦力外通告を受けたが、なおも野球を諦めず、トライアウトリーグからメキシコ球界入りを果たしている。結局、ディアブロスでも登板機会のないままリリースされ、その後、独立リーグで2シーズンプレーして29歳で現役生活に別れを告げている。その横山からメキシコの話を聞いた平間は、横山が引退したのと同じ29歳になったが、いまだ現役を続けている。

到着して中2日、いきなりの先発マウンドで初勝利

 ファイティングドッグスの前期優勝を見届けた平間は、機上の人となった。名門球団だけあって、用意されたのは成田からの直通便だった。国際便に乗るのは、高校時代に山梨県選抜で海外遠征をした時以来のことだった。

 条件は独立リーグと比べ物にならないくらい良かった。契約金はなかったが、月給が5000ドル。球団の事実上の親会社の銀行で手続きせねばならなかったので、実際に手にするのが手間だったが、他の球団のような給料遅配という「メキシコあるある」はなかった。

 しかし、一方で、事前に目にしていた「メキシコ」はろくな国ではなかった。情報を仕入れれば仕入れるほど「危ない国」という恐怖感が高まるだけだった。

不安を抱えながらの到着だったが、市街地にほど近いメキシコシティーの空港に着くと、GM補佐が迎えに来てくれていた。イバン・テラッサと名乗るその男は、ついこの間までプレーしていた元選手だった。若き日はアメリカのマイナーリーグでもプレーしていたというその男は、平間を車に乗せると、英語で聞いてきた。

「疲れてるだろ、まずはホテル行くか?まさか球場で体動かしたくはないだろ?」

平間の「球場に連れて行ってくれ」という言葉にイバンは少々驚いたようだったが、ハンドルを市街地の南にある球場の方向に切った。

 ディアブロスの本拠地はオーナーの名をとってエスタディオ・アルプ・エルと名付けられている。今シーズンはMLB公式戦も開かれ、ダルビッシュ有(パドレス)がそのマウンドにも立ったメキシコ最新鋭の球場だ。「野球場」とも呼べないようなグラウンドを練習拠点とし、時として外野にさえ芝の生えていない球場でプレーしていた平間の目には、そのボールパークはキラキラと輝いて見えた。ロッカールームに入った途端、平間の足はすくんだ。

「こんなところで僕がプレーできるのかって、感動しましたね。こんなすごいとこで投げていいの?って(笑)」

 到着直後だったが、その感動が疲れを吹き飛ばしたのだろう。平間はトレーニングを少し行い、球団が用意してくれたホテルで最初の夜を過ごした。ホテルも今まで泊ったことのないような星付きホテルだった。

 翌朝、再び球場に出向き、チームメイトと顔合わせをした。選手たちが両手を上げ、並んで作った「トンネル」をくぐりながらもみくちゃにされながら、平間はディアブロスの一員となった。

「儀式」が一通り終わった後、もういつでも投げれると首脳陣にアピールした平間に早速初仕事が与えられた。

「明後日のダブルヘッダーで先発してくれ」

 平間が入団するのと入れ替わりで、ディアブロスを去ったのが、あのロベルト・オスナ(ソフトバンク)だった。メジャーのセーブ王も故障と素行面の問題から、前年から母国メキシコに舞い戻る羽目になっていたのだ。メキシコでクローザーとして復活したその姿にロッテが目をつけ、シーズン半ばに引き抜いていったのだ。

 そんな事情もあり、高知で2シーズンクローザーを務めていた平間はリリーフが自身の役目だと思っていたが、チームからはいきなりの先発を言い渡されるかたちとなった。

夢見心地の初登板

 2022年6月12日、平間はダブルヘッダーの第2試合の先発マウンドに立った。

「フワフワしていた」と本拠地での初登板を振りかえる。調子はいいとは言えなかった。なにしろいきなりの実戦だ。マウンドから見えるのは独立リーグでは目にすることがなかった。二層式のスタンドが迫ってくる。日曜の試合とあって、スタンドには7000人近いファンが詰めかけていた。そんな大観衆を目にするのは、社会人野球の都市対抗以来だった。

 平間の名が場内にコールされると、そのスタンドから「ハポネ(日本人)」の声が上がった。

 登板前はいつも緊張するという平間だったが、不思議とこの日は緊張しなかった。時差ボケとあまりに現実離れしたシチュエーションのせいだったのかもしれない。ノリのいいラテン系のスタンドからの声援も、スイッチを入れてくれた。

 対戦相手のデータなどなにもない。そもそも相手バッターがどこの誰なのかもわからない。ただ懸命に腕を振るだけだった。データがないのは相手も同じ。平間の独特な投球フォームに、相手バッターも戸惑った。得意の「ナイアガラカーブ」がこの日はさえわたった。終わってみれば、グアダラハラ・マリアッチス打線を6回無失点。味方が序盤に大量点をあげてくれていたため、勝利は間違いない。7イニング制のダブルヘッダーにあってほぼパーフェクトな仕事だった。マウンドから降りる平間を前にスタンドが揺れた。「ブラボー」。

 打高投低のメキシカンリーグにあって、これ以上ないデビュー戦だった。翌日から、スタンドの声は「リンタロウ」に変わった。

「後で聞くと、得意のカーブの回転数が3400出てたらしいんで。海外でも通用するんだっていうふうに思えました」

この夏も高知でプレーした。(筆者撮影)
この夏も高知でプレーした。(筆者撮影)

いきなりのトレード、メキシコ球界の厳しさ

 しかし、好調は長くは続かなかった。2試合目から平間はトップリーグの厳しさを痛感する。そもそも、メキシコにいるひと月半の間、平間のコンディションは下降線をたどっていた。

 実際、メキシコでひと月半を過ごした後、平間は高知に戻ることになったのだが、帰国後、ストレートの速度は明らかに落ちていた。平間は2試合目以降、「自信をもって投げたストレートで空振りが取れなくなっていた」と振り返るが、メキシコでは高知でのコンディションを維持できていなかったことは間違いない。帰国後、トレーナーの指導の下、2週間ほどかけて10キロ以上落ちた球速を戻したと言うが、そういう自分にあったコンディション維持ができる環境にないというのも、海外で野球プレーするということなのである。

 2試合目の登板は、平間にとって初登板以上に忘れられないマウンドとなった。日本ではほとんど報道されることはなかったが、初登板直後にあったオールスター戦明け2戦目のマウンドは、メキシコ野球史上初の「日本人対決」となった試合だった。

 初のビジターとなったこの試合の遠征先は、アグアスカリエンテスだった。「熱い水」を意味するこの地名はラテンアメリカに数多く、その名の通りきまって温泉が湧いている。ディアブロスとはリーグが違う北地区への遠征にはフライトが用意されていた。

 アメリカからの鉄道建設の技師がこの国に野球を伝えたという故事にちなんだこの町のチームの名はリエレロス、英語でレールロードメンという。このチームの先発投手は、高木勇人。かつて巨人でローテーションを担ったベテランだった。

 試合前、平間はフィールドで高木にあいさつした。初対面ではあったが、時期は違えども社会人時代同じ東海地区でプレーしていた(三菱重工名古屋出身)高木は快く無名の平間を受け入れてくれた。高木自身、前年は独立リーグ(BCリーグ神奈川)でプレーしていたこともあり、ある種のシンパシーを感じていたのかもしれない。

 メキシカンリーグ初の日本人投手対決は、早々に決着がついた。初回に味方打線が先制してくれたにもかかわらず、平間はその裏に2点を失いあっさり逆転を許す。3回に再逆転もその裏、1アウトも取ることなく再びブラボス打線に逆転を許すと、そこでお役御免となった。2イニングで5失点。平間のマウンド姿を長らく見てきた高知の吉田監督が、「打たれだしたら、自分を見失う」と独立リーグで無双を誇っていたエースの欠点を見抜いていたとおり、一段も二段もレベルの高いリーグでその悪癖が露呈したかたちとなった。

 対する高木も4失点だったが、7イニング制の平日ナイターでリードを保ったまま5イニングを投げ切れば、このリーグでは十分な仕事だった。

 中4日で巡ってきた3試合目の先発は、5回1アウトまで2失点と上々の出来だった。しかし、この日は球場が悪かった、低地のユカタン半島のメリダでは、高原のメキシコシティのようにボールが飛ばない。だから高原地区の試合のような空中戦は少なくなる。この日の試合も、9イニング制で行われながら1対2というこのリーグではまれなロースコア戦となったおかげで、平間は白星ではなく、黒星を手にする羽目になった。

 中5日での次の先発登板が平間にとってディブロスでの最後となった。かつてディアブロスと同じメキシコシティに本拠を置いていたティグレス(タイガース)との南地区看板カード。ホーム球場をほぼ満員にする1万4000人の大観衆を前に、3回5失点と背信のマウンドとなってしまう。ディアブロスでの4試合、すべてに先発して1勝3敗、防御率5.51。打高投低のメキシカンリーグあっては、とりたてて悪い数字ではない。しかし、7月に入り、1月半にもわたる長いポストシーズンを勝ち抜く戦力を整えていく必要に駆られたチームは、平間を放出することを決めた。

 この結果について、調子が上がらなかった以上に、メキシコ野球のレベルの高さ、緻密さを感じたと平間は振り返る。

「四国でも自分なりに対戦相手の中でキーマンを決めて、キャッチャーと何度も話し合って対策はするんですけど、メキシコに行ってみて、データの多さに驚かされました。多分、最初にいいピッチングしたんですが、その瞬間に他のチームは全部資料集めて僕を丸裸にしていたと思います。僕は、そのデータを読めなかったんですが、うちのチームでももらったデータの量がすごかったです」

 そのデータが出回った瞬間、ストレートが走らなかったこともあいまって、得意の「ナイアガラカーブ」が通用しなくなった。変化球は見極められ、ストレートはファウルされる。そこには、ブンブン振り回してくるラテン野球のイメージはなかった。

「バッターは、確かに力あるんですけど、僕、メキシコでそんなにホームラン打たれてないんです。僕に対しては徹底してゴロを打ってきました。とくにメキシコシティのグラウンドは硬いんで、彼らが力強く叩きつけたら内野の頭をワンバンで越えちゃうんです。そういうヒットばっか打たれてましたね。間違いなくパワーはあるんですけど、ピッチャーによって対策してくるし、小技も使ってきます。とにかく、ちゃんとデータを見て、このピッチャーは今何マイル、どこに投げてるって分析した上で、自分のスイングの軌道と合わせきていた印象です。彼らの目標はやっぱりメジャー。やっぱり上を目指してる集団なので、感覚だけでやってる人間なんかほぼいなかったですね。力強いストレートがないと、通用しないっていうことは痛感させられました」

 トレードについては、冷静に受け止めることができたと平間は振り返る。

「1回失敗すれば、すぐにクビだっていうのは、高知にいるときから横山さんから聞いていましたから。実際調子も良くなかったですし。もうこれが最後だったいう気持ちでいつもマウンドに上がっていました。僕がディアブロスにいたひと月ほどでも5人ぐらい入れ替わったので、こんな厳しい世界なんだってのは実感しましたね」

 その言葉通り、移籍先では、先に放出されていた、ついこの間までのチームメイトが出迎えてくれた。

(続く)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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