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社会人時代、チャンスをもらえなかった投手が独立リーグで一気に開花した理由【平間凜太郎物語2】

阿佐智ベースボールジャーナリスト
平間凜太郎(元高知ファイティングドッグス)

 さらなる高みを求めて社会人野球から独立リーグに進み、メキシコのトップリーグ、メキシカンリーグで勝利投手になった男がいる。その名は、平間凜太郎。彼のアマチュア時代については、前回、「生真面目さゆえ社会人野球を退団。独立リーグに新天地を求めた右腕のストーリー【平間凜太郎物語1】」(https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/33e04c7c02b5c025b51fdf3a031dcaa1f26981c9)で公開したが、今回は、独立リーグ時代のストーリーを語ってゆく。

 高知ファイティングドッグスは、高知市街から車で小一時間のところに位置する練習グラウンドのある越知町の隣の佐川町に寮を構えている。社会人時代も寮生活だったが、食事付きだったし、チームも都会にあったため外食も可能だった。しかし、高知の片田舎では食事は自分で作らねばならない。独身男にとっては、本来なら面倒なこの作業だったが、平間はこれも楽しんだ。

「高知に来て、自炊大好きになりました(笑)。今まで料理なんか包丁すら握ったことない人間が、ほんとにほぼ毎日自炊するようになったぐらいですよ。寮の近くに町民プールがあって、その中に銭湯と水風呂とサウナもあるので、練習が終わると、そこ行って疲労取って、そのまま買い物して、料理もして、食べるみたいな生活でしたね」

 生真面目で時として自分を追い込んでしまいがちな平間にはこの独立リーグという環境は合っていたようだ。

「こっち(独立リーグ)に来て、ダメならダメで、『やっぱりこういうことをしたからこういう結果になったよね、じゃあ次はこうしてみよう』って、トライ・アンド・エラーを繰り返せるようになりました。社会人の場合、試合数が少ないですから、やっぱり安定したピッチャー使うじゃないですか。だから、どうしても同じピッチャーを使うことになるので、成長できるピッチャーの数が限られていると思うんです。そういう意味で独立リーグは毎週末試合あるわけですから、チャンスをもらえる回数が増えますよね。やっぱり毎日試合があるって環境が、僕に合ってたなって思います。僕はどうしても『やらかしてしまう』人間なので、失敗しても次があるっていう環境にかなり救われました」。

「脱力」からの卒業

 平間の才能は四国で一気に開花した。その変化は自身も驚くほどだった。

「社会人3年間では実力は伸びませんでした。高校時代に僕は149キロ投げてるんです。それって今でも山梨県の記録のはずです。それ更新したのは、高知に来てからですね。もう1年目に153キロ出しました。それまで大学、社会人と7年間、球速を更新できなかったのに。練習はやっていたから落ちることはなかったんですが、アマチュア時代は、どうしてもそれ以上は出せなかったんです

 自分で考えて練習するようになったことが一番大きかった、と平間は自身の「開花」の要員を分析する。加えて独立リーグに進んで、NPBの第一線で投げた経験のある指導者に出会ったことも大きかった。高知ファイティングドッグスを率いていたのは、南海ホークスにドラフト1位で入団し、20年の長きにわたってプロの第一線でプレーしてきた吉田豊彦だった。

「社会人時代も臨時コーチとして元プロの方がいらしてくれました。元中日の鹿島(忠)さんなんか、熱心に指導してくれました」

 多くの元プロに指導を受けた中でも印象に残っているのは、メジャーに旋風を巻き起こした野茂英雄との出会いだったと平間は言う。社会人2年目の時に臨時コーチとして目の前に現れたレジェンドを前に、平間は臆することなく質問を続けた。夢中になると周りが見えなくなる悪い癖が功を奏したかたちだ。その姿が印象に残っていたのだろう、1年後チームを再訪した野茂は、平間を捕まえるとこう声をかけた。

「お前、1年前より全然良くなってるやん」。

 その言葉がある意味支えになり、実業団を退社、独立リーグに挑戦できた。

「あの言葉ですごく自信を持てたんです。実績なくて、試合では投げてなかったけど、チャンスさえもらえれば上を目指せるって」。

 吉田との出会いに話を戻そう。

 平間は言う。

「吉田監督には技術面よりは、メンタル面を指導してもらいました。それがすごく大きかったと思います。入っていきなりクローザーを任されたんですけど、監督は社会人でも実績のなかった僕に、『一番最後をおまえに投げさせてるっていう意味は、もうお前に(試合を)任せたってことだからな。つまり、お前で負けてもいいんだ』って言ってくれたんです。すごくうれしかったですね。それまでそういうふうに責任感じて投げたことなかったですし、失敗しても『次もお前に任せるぞ』って言ってもらったことが、自分の中で心のゆとりにつながりました。そこが独立リーグに来て一番成長したところだと思います。だからこそ今自信持って投げれてるのかなと思います」

 一方で、社会人時代とは真逆の指示を吉田からは受けた。NPBの第一線で投げてきた吉田は、平間に社会人時代のトレーナーに口酸っぱくして指導されてきた「脱力」からの決別を要求してきたのだ。それはアマからプロへのステップアップの要求だったのかもしれない。現役時代、先発もリリーフも経験してきた吉田は、その経験を平間に伝えた。先発なら試合の流れを読み取ることを優先に多少点を取られてもいいが、抑えなら1球目から全力で投げれる準備をブルペンでしておくようにと。そして勝ち試合の最後を締めくくるクローザーに平間を抜擢した。

 根が素直過ぎるくらい素直な平間は、社会人時代にはめていたリミッターを外した。常に100%投球。周囲を見る余裕がないのは相変わらずだったが、アマチュア時代にあった力みは消えていた。独立リーグでのルーキーシーズンが終わってみれば、チームの総試合数76の半数以上に当たる45試合に登板。チームの勝ち星である35勝の半分以上に絡む3勝18セーブを挙げて防御率は0.79。チームの2位躍進に貢献した。翌2021年シーズンも、39試合に登板し、2勝14セーブ、防御率0.43。まさに無双状態だった。

平間を開花させた「反骨心」

 もうひとつ、平間を独立リーグで開花させたのが、持ち前の「反骨心」だ。

「社会人辞めた時に、当時の監督さんにお前なんかが上を目指せるわけがないって言われたので、見とけよっていう気持ちはありました。四国に行って、僕は3年連続でタイトル獲って、最後はMVPもいただいたんですけど、タイトルを獲ることで僕は評価を得ることができると思っていました」

その反骨心は、今や毎年のようにドラフトでNPBに選手を送り込むようになった独立リーグ界のエリート集団、徳島インディゴソックス相手にむき出しとなって表れた。

「実は、実業団辞めて独立リーグに進もうってなったとき、徳島にも話が行ったんですよ。でも、『うちは25歳以上は獲らないから』って、門前払い食らいました。当時僕は25歳。入団するとそのシーズン中に25歳オーバーになるからってことでしょう。でも、その後、同い年のピッチャーを獲ったんですよ。だから徳島戦は燃えましたね」

 だが、その独立リーグ1年目に平間の反骨心をさらに燃え滾らせる出来事が起こる。

「その徳島に、目の前で優勝決められるんですよ」

 以後、平間の徳島戦でのピッチングはさらに冴えをみせた。

「今シーズン(2023年)、僕、防御率散々だったんですけど(4.80)。徳島戦だけは良かったんです。DeNAに入った井上絢登君もずっと抑えていました。今年初めてホームラン打たれたんですけど、彼言っていました。『平間さんからやっと打てた』って。でもその1本きりですから」

3年連続投手タイトル、MVP。それでもかからないドラフト指名 

 独立リーグで開眼した平間は、ルーキーイヤーから3年連続でタイトルホルダーとなった。1年目2年目はセーブ王、3年目は途中メキシカンリーグでプレーしながらも先発投手として最多勝を獲得している。

 しかし、その八面六臂の活躍とはうらはらに調査書は来たものの、プロ(NPB)から声がかかることはなかった。

「1年目、2年目は調査書が届きました。でも、先発で最多勝獲った3年目にはもう来ないようになりました。要するに需要がないってことですね。年齢ってよく言われていたので、3年目が終わって28歳。僕にその年齢を覆すような実力がなかったっていうことですね」

 日本でやるだけが野球じゃない。次第に平間の視線は海の向こうに向くようになっていった。

(続く)

*写真は筆者撮影

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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