Yahoo!ニュース

生真面目さゆえ社会人野球を退団。独立リーグに新天地を求めた右腕のストーリー【平間凜太郎物語1】

阿佐智ベースボールジャーナリスト
今シーズンを高知ファイティングドッグスで送った平間凜太郎

 あれは7月終わりのことだったか。

 独立リーグの試合は、全国津々浦々様々な球場で行われる。

 高知県東端、室戸市。市内を行くバスの乗客の少なさにこの町の置かれた現状が映し出されている。曇天の中、昼になると役所から、「今日はマリン球場で高知ファイティングドッグス対愛媛マンダリンパイレーツの公式戦が行われます。皆さん球場にお越しください」というアナウンスが街に向けて流されていた。この過疎が進む町にあって、独立リーグの試合は数少ない娯楽であるようだ。

 高台にある球場は、町の規模に不相応なくらい立派なものだ。収容人数約9000人は町の総人口1万人とさほど変わらない。市民全員がこの試合に足を運ぶわけがなく、結局、観衆は240人と発表された。ずいぶんさみしい数字に思えるが、現在の日本の独立リーグにあっては特段少ない数ではない。

 いくぶん古くはなっているが、整備された球場は、現在アマチュア野球のキャンプ地としてこの町の活性化に貢献している。

 試合は、4点を奪取したファイティングドッグスが完封リレーで勝利した。8回にセットアッパーとして相手打線を3者凡退に打ち取ったのは、今シーズンで独立リーグ4年目となる平間凜太郎だった。今年は結局、防御率4.80、勝ち星なしの9ホールド、2セーブに終わった彼だが、ファイティングドッグスに2020年に入団して以降、3年連続でタイトルを獲り、リーグトップレベルの投手であった。そして彼はメキシコのトップリーグ、メキシカンリーグで1勝を挙げている。

下町が生まれの「いごっそう」

 出身は東京の下町だった。「野球一家」の長男に生まれ、5歳で野球を始めたと言うが、「センスも素質もなかった」と自身を評する。

「もう親戚一同が野球大好きで、小さい頃から遊び道具と言えば、バットとボールでした。でも、ほんと投げるだけでしたね。打撃のセンスもないし、走るのは遅いし、守備も下手だったし…」。

 家族はなぜかジャイアンツではなくタイガースのファンだった。本人も名リリーバーの藤川球児に憧れた。のち、独立リーグに身を投じた時、その憧れの藤川とチームメイトとなり、アドバイスをもらったのは選手生活の宝物だ。

 地元の少年野球チームでは投手を任された。というより、本人曰く、他に守るポジションがなかった。

 それでも、1歳違えば体格が全く違う小学校低学年にあって、1年の時から2年生のチームでマウンドに登っていたということは、投手として大成する素質をもっていたということだ。肩の強さは当時から群を抜いており、当時流行っていたストラックアウト・ゲームでは、ボールを的に通さずに、その剛球でゲーム機そのものを壊して喜んでいた。舌打ちをしながら父親はゲーム機が壊れるたびに新しいものを買ってくれたが、内心息子の才能に期待を抱いていたのだろう。平間本人も、この頃から目標をプロに定めるようになっていた。

 剛球投手はそのまま成長を続け、高校2年時には、控えながら甲子園への出場を果たした。大学にもスポーツ推薦で進学。プロ選手も輩出している専修大学への進学のその先にはプロがあるように思われた。

 しかし、ここまでは多くの「ドラフト候補生」が歩む道だ。ここから精鋭たちはさらにふるいにかけられるが、このふるいに平間が残ることはなかった。大学では1年の秋には神宮の先発マウンドに立ったが、大学野球の精鋭の集まる「戦国東都」では平間の球は通用しなかった。続く2年春を最後に、平間は神宮のマウンドから遠ざかる。再びその場所に戻ることができたのは、最高学年になってからのことだった。もうプロのスカウトにアピールする時間はなかった。

 ずっと公式戦で使ってもらえない中、現実的な目標を考えた時に、卒業後も野球を続けながら少しでも上のレベルを目指すには場は社会人野球しかなかった。残り2シーズンとなったリーグ戦に参加するため、平間は監督の指示を愚直に守った。

「4年生の春のキャンプで、監督に言われたフォームで毎日200球投げました」

 最終学年の春のリーグ戦で与えられた10回の登板機会は、社会人の道を切り開いた。平間は大学卒業後、都市対抗出場14回を誇る新日鐵住金東海REX(現日本製鉄東海REX)に進むが、その頃にはプロへの夢は失せていた。

「大学時代の実績もなかったですし。社会人でも入ってすぐ肩を故障しましたから」

 実業団には3年在籍した。しかし、出だしが悪かったせいか、満足いくプレーはさせてもらえなかった。与えられた役割はもっぱら地方予選初戦の先発。つまりは主力投手温存のための要員だった。チームが勝ち進むにつれ、自身の存在は薄くなり、都市対抗本選はおろか、出場がかかった予選終盤ではベンチを温めるのが常であった。秋の日本選手権予選でも出番はなかった。そのうち、後輩が入ってくると、平間は自分の存在がどんどん追いやられていくのを肌で感じるようになった。

今年7月、インタビューに答えてくれた。
今年7月、インタビューに答えてくれた。

「脱力」に取り組んだ社会人時代

 そんな中、自分の考え方を大きく変える出会いがあった。平間は「あの時」をこう回想する。

「とにかく僕はがむしゃら練習してました。誰よりも練習するっていう信念でやってきたんですけど。社会人2年目に大学の先生がメンタルトレーナーとして入ってきたんですよ。その先生に言われたんですよ。『君、このままじゃ人生破滅するよ』って。『破滅』ですよ。なかなかすごい言葉じゃないですか。その言葉、僕、怖すぎました」

 チームに合流してたった半年の専門家に平間は自分の持ち味と考えていた「がむしゃらさ」を否定されたのだ。

 平間は自身を「200球投げ込めって言われたら210球投げるような人」と評する。5歳で野球を始めた時から、朝5時半に起きて父と朝練という習慣を続けてきた。放課後はバッティングセンターに行き、帰りはランニングという生活だった。それでいて、アスリート学生にありがちな「教室は寝室」のようなこともなかったという。

 高校に進んでからも、ある意味常軌を逸した平間の練習熱心さは変わるところがなかった。試合で打たれれば、その晩は一晩中ネットに向かってボールを投げた。そんな「憑りつかれた」と表現すべき練習熱心さは「平間伝説」として今も母校・山梨学院高校に残っているという。

「東京から来た公立高校に練習試合で負けたんです。まあ、相手のピッチャーが佐々木千隼(DeNA)君だったんで、今考えると、負けても仕方なかったんですが(笑)。でも、当時はそんなことわかりませんから、僕にすれば、東京から来た公立高校に負けたっていうのが悔し過ぎて、一晩中日が昇るまでランニングしてました」

 その鬼気迫る生真面目さが競技生活だけでなく、セカンドキャリアにおいても裏目に出るとメンタルトレーナーは感じたのだろう。

 しかし、野球を始めてきてずっと持ち続けていた信念を否定されたように感じた平間には初めメンタルトレーナーのアドバイスが入っていかなかった。しかし、マウンドに登れば打たれを繰り返し、後輩たちが自分を抜いていくのを見ていた平間は、そのアドバイスを受け入れた。

「常に50%の力で練習を続けましょう」。トレーナーの言葉はシンプルだった。

「それまでは常に疲れてる感じでした。大体ゼロか100だったので。そのゼロっていうのも、パフォーマンスがはまらないっていうゼロで、練習はその分無茶苦茶するんです。それでいて、その中間がなかった。そんなだから肉体的な疲労も考慮してなかったし、あと自分にプレッシャーかけまくってたんです。もう相手バッターと対戦するより自分でかけたプレッシャーと戦っているような状態でした。だからその中間をつくりましょうからスタートしました。先生の話を受けて、まず50%から。そこから60、70っていうふう上げていく。そうやっているうちに自信が芽生えてきたんです」

 しかし、この「50%」が、指導者には「手抜き」に見えた。がむしゃらさを売りにしていた平間は、「体育会系」の指導者には「かわいい」存在だった。試合に出せないのは結果が出なかったからだが、素直に指導に従い、便利屋的な役割もいとわず、黙々と練習していた平間がペースダウンする姿を指導者は快く思わなかったようだ。平間が手ごたえを感じるのとは裏腹に、出番はなくなっていった。

「監督からするとものすごく不満だったみたいです。一生懸命やって、しかも自分の言うことなんでもハイハイ聞いてたのが、いきなり言うことを聞かなくなったんで。ちょっとギクシャクするようになって…」 

 3年目、平間は全く試合で使われることがなくなった。秋の日本選手権に向けた予選終了後、平間は退団することにした。

「秋にシーズンが終わって、正直、クビになると思ったんです。もうあがれ(引退しろ)って。大卒3年目で年齢もが上から2番目でしたし。でもそれはなくて。じゃあ何を期待されてるのかってなると僕は分かんなかったんです。ベンチ入りもほとんどしてないのに。だから自分から辞めました。まあ、どちらにせよ自分では覚悟を決めてたんで、あがれって言われても、同じ結果だと思うんですけど。そっちの方がたぶんスムーズに辞めれたのかなと思います。それで本社の関連会社に勤めていたんですが、そっちも退社しました。正社員待遇であがった(引退した)後は、東京に本社があるんで、地元に帰れる約束だったんですが」

 二人三脚で野球の手ほどきをしてきた父親は当然のごとく反対した。

「反対されるのは分かってたんで、ほんと、退社の直前に言いました。『何考えてんだ』って雷落とされました」

 一方の母の「自分の夢は最後までやり続けなさい」の言葉で親子喧嘩は収まった。

 決して、円満な退団ではなかったが、実業団時代は自分の野球人生にとって大事な期間だったと平間は言う。

「多分、僕の場合実業団に3年いたからこそ今も野球やってるんだと思います。だから東海REXっていうチームにはすごく感謝してるんです。周りの方ものすごく応援してくれましたし、辞めた理由は自分が試合に出れなかっただけなんで。だから今でも当時のマネジャーさん、今監督されているんですけど、その方とも定期的に連絡を取らせてもらって、応援してもらっています。あのチームにいたからこそ今があるし、頑張れてるっていうのはあります」

高知ファイティングドッグス時代の平間
高知ファイティングドッグス時代の平間

 一介の浪人になった平間は、次のプレー場所を独立リーグに求めた。いくつかのルートから話があったが、その内、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスを選んだ。

 個人トライアウトのため出向いたのは、高知市街から車で小一時間のところにあるグラウンドだった。

「びっくりしましたよ。グラウンドに石ころがむちゃくちゃ転がっているんですから。こりゃひどいわって(笑)。社会人の時は当たり前のようにグラウンドは整備されていましたから。だから僕、今も毎日練習前には必ずグラウンドの石を拾ってから、自分の練習に入るっていうルーティンを守っています」

(つづく)

*写真は筆者撮影

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

阿佐智の最近の記事