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バレンティンもメキシカンリーグ入り。移籍先のサルティージョ・サラぺロスってどんなチーム?

阿佐智ベースボールジャーナリスト
サルティージョ・サラペロスのホーム球場、フランシシコ・マデロ球場

 14日、NPB通算301本塁打、2013年にはシーズン記録の60本塁打を放ったウラディミール・バレンティンのメキシカンリーグ入りが報道された。

 カリブ海に浮かぶオランダ領キュラソー出身のバレンティンは、18歳の時、ルーキー級アリゾナリーグのマリナーズでアメリカでプロデビューを飾り、2007年にメジャーの舞台に初めて立った。この年のオフにベネズエラのウィンターリーグでプレーしたのを皮切りに、以降3シーズンにわたってラテンアメリカでプレーしている。今回11年ぶりにラテン球界に戻ってきたかたちだ。彼が今シーズンプレーするチームはサルティージョ・サラペロスというチームで、昨シーズンは北地区9チーム中3位でポストシーズンにコマを進めている。

サルティージョ・サラぺロスとは?

 サルティージョは、メキシコ北東部・コアウイラ州の州都で周辺の衛星都市を含めた人口は100万を超える大都市である。野球の盛んなメキシコ北部の都市は、近代的なビルの並び建つ無機質な印象を受けるところが多いが、独立前の16世紀からの歴史をもつこの町のセントロ(中心街)には、コロニアルな街並みや豪壮な教会が残り、工業都市とともに観光都市としての性格もあわせもっている。工業都市としての発展は、アメリカを中心とする外資系の重工業に負うところが大きいが、伝統的には繊維工業が盛んで、ラグショールの一種である「サラぺ」が特産品である。この町の野球チームの名はこれに由来している。

 1925年創設のメキシカンリーグにあって、サラぺロスは新興チームと言っていいだろう。リーグ加入は1970年。初年度は地区最下位に終わったが、翌年には地区優勝を飾り、メキシコシリーズに進出している。以降、ポストシーズンの常連チームとなり、チーム創設11年目の1980年にはついに初優勝を飾った。但しこの年のシーズンはストライキによる短縮シーズンで、フルシーズン戦っての「本物」の優勝は2009年まで待たねばならなかった。チームはその翌年のメキシコシリーズも制し、黄金時代を現出している。

 本拠地球場フランシスコ・I・マデロ・スタジアムの名は、20世紀初めの地元コアウイラ州出身の大統領の名にちなむ。1963年建造と年季が入っているが、1999年と2011年に改築され、大きな液晶ビジョンを備えた近代的なスタジアムに生まれ変わった。1916年にメキシコで開催され、NPBの若手選手で編成された日本代表が優勝を飾ったU23ワールドカップでは、その会場のひとつとしても使用され、日本代表も2試合をここで戦っている。

マデロ球場での試合風景
マデロ球場での試合風景

 メキシカンリーグ北地区は、例年、通算リーグ優勝10回を数える人気ナンバーワンチーム、モンテレイ・スルタネスとサラぺロスと同じコアウイラ州の鉄鋼の町に本拠を置くモンクローバ・アセレロス、カリフォルニアに接した国境の町に本拠を置き、近年強豪の仲間入りを果たしているティファナ・ブルズとこのサラぺロスを軸にペナントレースが展開されている。とくに、隣州の古豪・スルタネスとの対戦は北地区の看板カードとなっており、収容1万6000人のスタンドはファンで埋まる。日本で名を馳せたスラッガーの加入は地元ファンの興味を引くことは間違いなく、「黄金カード」の際には球場は満員に膨れ上がるだろう。

サルティージョでプレーした「助っ人」たち

 メキシカンリーグは、MLBから独立したリーグであるが、その傘下のマイナーリーグ組織には加盟し、3Aのランキングが与えられていた。そのプレーレベルから、主力選手はNPBの助っ人として頻繁に来日している。サラペロスでプレーした選手の中にも、海を渡って日本野球に挑戦した選手は多数いる。昨年まで阪神のクローザーを務め、今シーズンメジャーへと旅立ったロベルト・スアレスもサルティージョでプロキャリアを始めている。

 オリックス・ブルーウェーブ草創期の長距離核弾頭、タイ・ゲイニーは、メキシカンリーグでの47本塁打が目に留まり1993年に来日し、2シーズン日本でプレーしたが、その後、メキシカンリーグに復帰、台湾球界でのプレーを経て、現役最晩年の1999年シーズンをサルティージョで送り、ここでも23本塁打を放っている。

 メキシコ代表チームは、近年何度も来日しているが、その代表チームで度々投手コーチを務めているリーゴ・ベルトランは、MLBを経て2002年広島に入団した。ナックルボーラーとして話題を呼んだが、1年限りで退団した後、MLB復帰を果たし、現役最後の2シーズンをサルティージョで送っている。

 2000年代から2010年代初めにかけてパ・リーグ4球団でプレーした「野球渡世人」、ホセ・オーティズは、オリックス退団後アメリカ独立リーグを経て、2007年にこのチームに籍を置き、リーグ3位の4割をマークすると、翌年はロッテで日本球界に復帰した。ロッテでも内野のユーティリティプレーヤーとして規定打席不足ながら打率.288を残すが、オフにはリリースされ、サルティージョに「出戻る」が、翌シーズンも4割を超える打率を維持すると、今度はソフトバンクが触手を伸ばし、シーズン途中に引き抜いてゆく。オーティズは、シーズン途中加入ながら20本塁打を放ちチームのリーグ優勝に貢献している。ソフトバンクでは3シーズンプレーし、その後またもやリリースされ、メキシカンリーグに戻るが、この時もサルティージョでプレーしている。そしてその後3度目の日本球界復帰を西武で果たした。

 2010年から2シーズン広島で、2012年にはDeNAで先発投手として活躍した長身右腕ジオ・アルバラードは、2013年のWBCで母国プエルトリコの準優勝に貢献した後、サルティージョでプレーしている。

 そして、2014年から2シーズン広島でプレーしたドミニカ人選手、ライネル・ロサリオは、広島退団後、レッドソックス傘下のマイナーを経て2017年からサルティージョで主力打者としてプレー、昨シーズンも.323、20本塁打で2度目のホームラン王に輝いている。  

 また、2015年から17年に中日で計17勝を挙げ、昨年の東京五輪ではドミニカ代表の一員として来日したベテラン左腕、ラウル・バルデスは、日本を離れた翌年の2018年前期(この年のメキシカンリーグは前後期を完全に別のシーズンとして実施)にエースとしてチームの勝ち星の4分の1以上にあたる7勝を挙げた。

 その他、2012年に楽天でプレーしたドミニカ人外野手、ルイス・テレーロも2015年に、2014年シーズンを日本ハムで過ごしたキューバ人スラッガー、ホアン・ミランダはその翌年の2016年にサルティージョでプレーした。そして2015年にミランダと同じく日本ハムでプレーしたベネズエラ人左腕、ビクター・ガラテは、サルティージョから台湾球界を経て日本ハムに入団、シーズン途中にリリースされると再度台湾に戻った後、翌2016年にはサルティージョに復帰している。このシーズンの途中までは、メジャーでプレーした後、オリックスで2005年と翌年シーズンを送り、代表チームの主力としても活躍したカリム・ガルシアも在籍し、その後メキシコシティ・ディアブロスロッホスに移籍して、現役生活にピリオドを打っている。

カリム・ガルシア(メキシコシティ時代)
カリム・ガルシア(メキシコシティ時代)

 以上、サルティージョ・サラペロスだけを見ても、メキシカンリーグには日本球界経験者が多数いることがわかる。彼らの多くは日本球界を「お払い箱」になったものだが、中にはここからMLBやアジア球界でのより良い契約を勝ち取った者もいる。難しいとは思うが、全面的な指名打者制採用が噂されている中、メキシコでのプレーぶり次第で、MLB復帰ということがあるかもしれない。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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