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今やキャンプ銀座、沖縄の野球の歴史

阿佐智ベースボールジャーナリスト
沖縄セルラースタジアムでは、沖縄出身の現役一軍プロ野球選手の写真を展示している

 コロナ禍はいまだ止みそうにないが、今年のプロ野球春季キャンプはコロナ対策を行った上での有観客の途を選んだ。キャンプ地の経済効果を考えると、ある意味の英断と評価できる。

 かつては、プロ野球のキャンプ地といえば、宮崎と高知というのが定番だったが、現在では、沖縄がそれに代わって「キャンプ銀座」の名をほしいままにしている。現在、沖縄でキャンプを張る球団は9。この中には他県で1次キャンプを張った後に2次キャンプだけを行う球団やファームキャンプは他県で行う球団もあるが、実戦重視となり、キャンプ前半の2月前半から練習試合が行われるようになった昨今において、「チームがチームを呼ぶ」状況になってきている。

 沖縄に初めてプロ野球キャンプがやってきたのは1979(昭和54)年のことである。この時、名護を投手陣のキャンプ地に選んだ日本ハムファイターズは、その後、野手陣の鍛錬の場もここに移し、現在に至るまでここを春のホームとしている。これをきっかけとして、その後の室内練習場の整備など県内の設備の拡充が決め手となって、現在の沖縄のキャンプ隆盛が現出することになった。そのベースに、そもそも沖縄が「野球県」であった事実があることは言うまでもない。

「帝国」日本の形成と野球の拡大

 沖縄は、近代を迎える前は「日本」ではなかった。中世以来「琉球王国」という独自の国家を築き、近世に入って、江戸幕府配下の島津・薩摩藩の事実上の支配を受けながらも、清国の冊封体制下にも入り、独立国の体面を保っていた。実際、幕末にペリーが日本=江戸幕府に開国を迫った際、琉球にも同様の目的で来訪している。

 その琉球も、日本が明治維新を迎え、近代国家への道を歩んで行く過程で内国植民地化を余儀なくされてゆく。1872(明治5)年の「琉球藩」の設置を経て、1879年には琉球は「沖縄県」として正式に近代日本の版図に組み込まれていった。

 その沖縄に野球が伝わったのは、琉球の日本への併合に反対していた清国との戦争が始まる1894年のことである。現在の首里高校の前身である沖縄中学が「日本」への修学旅行を行った際、その行き先であった京都で三高(のちの京都大学)の学生から野球を学び道具を持ち帰ったのが、沖縄における「野球事始」である。日本に野球がアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンによって伝えられたのが、琉球藩設置の1872年。それから実に22年の月日を経て、日本が新たに版図に加えた沖縄に野球が伝わったのである。

 沖縄の少年たちは、那覇港近くに流れ出る川の下流部の「漫湖」と呼ばれた干潟で野球に興じるようになった。貧しく娯楽が少ない沖縄にあって野球は、本土以上に浸透し、やがて「ナショナル・パスタイム」化してゆく。

米国支配の下、醸成された「野球愛」

 太平洋戦争中の沖縄の惨禍については、いまさら述べるまでもないだろう。米軍の上陸を許した沖縄は、敗戦後、1951(昭和26)年のサンフランシスコ条約によって日本が独立を取り戻した後も、米国の「施政権」下に置かれ、その支配を受けることになる。

 そんな中、1948年に始まったのが、「沖縄大リーグ」である。その後、「職域野球」と呼ばれるようになった沖縄の社会人野球は、県民の「ナショナル・パスタイム」として定着していった。ここからは沖縄初の野球選手、安仁屋宗八(琉球煙草→広島)が生まれている。

沖縄セルラースタジアム那覇内にある野球資料館に展示されている安仁屋の広島時代のユニフォーム
沖縄セルラースタジアム那覇内にある野球資料館に展示されている安仁屋の広島時代のユニフォーム

 1958年には、第40回全国高校野球選手権大会に首里高校が沖縄から初めて出場した。この時、球児が思い出にと持ち帰った「甲子園の砂」が、当時アメリカの施政権下にあったという政治的理由から、検疫にかかり破棄されたという逸話が残されることになる。

首里高校が甲子園初出場の試合で使用したボール(沖縄セルラースタジアム那覇内野球資料館)
首里高校が甲子園初出場の試合で使用したボール(沖縄セルラースタジアム那覇内野球資料館)

 そして、1960年には「野球事始」の時代、少年たちが手製のグラブ片手に野球に興じていた漫湖に浮かぶ小島に奥武山球場が開場する。12月に社会人野球の名門・日本石油を招いて杮落とし試合を行ったというのがいかにも南国・沖縄らしい。そして翌年5月には、西鉄(西武)対東映(現日本ハム)の2連戦で初めてプロ野球の試合が行われる。さらには、1962年10月には、日米野球にさきがけて、デトロイト・タイガースが沖縄を訪れ、沖縄県人4人を加えた米軍チームとの試合を行った。そして、東京オリンピックが行われた1964年には、全早慶戦もこの球場で行われている。

1964年に行われた全早慶戦のチケット。料金がセントで示されている。(野球資料館内の展示)
1964年に行われた全早慶戦のチケット。料金がセントで示されている。(野球資料館内の展示)

 それでも、沖縄野球の中心はあくまで高校野球だった。県を代表するチームが「やまとぅんちゅ(本土人)」のチームと戦う姿に「うちなーんちゅ(沖縄人)」のアイデンティティは触発され、熱狂を帯びる。春夏の甲子園のため、人々は旅の準備をし、それが叶わぬ者は、仕事を休んで喫茶店のテレビで県を代表するチームに声援を送るという。そんな野球熱の高い南国・沖縄にプロ野球のキャンプがやってきたのはある種の必然であったといえる。

 そんな沖縄の野球の歴史は、奥武山球場が改装されてできた、巨人の第2次キャンプ地である沖縄セルラースタジアム那覇のメインスタンド下にある野球資料館で偲ぶことができる。スタンド内にあるため、巨人のキャンプ開始後は訪問できないが、それまでにキャンプ巡りをするファンには、その前に一度訪れてほしい。

沖縄セルラースタジアム那覇と名前を変えた奥武山球場のスタンド内の野球資料館
沖縄セルラースタジアム那覇と名前を変えた奥武山球場のスタンド内の野球資料館

 残念ながら、コロナ禍にあって各キャンプ地は例年の賑わいを取り戻すに至っていない。それでも、この野球愛あふれる島に有観客のキャンプが戻ってきたことに、「アフター・コロナ」の野球界の光明を見ずにはいられない。

(文中の写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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