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未完の大器はメジャーリーガーに生まれ変わるのか?アマチュア・独立リーグからMLBに挑戦した選手の系譜

阿佐智ベースボールジャーナリスト
ドジャースタジアム(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

松田康甫投手がMLBの強豪、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだことが報じられた。石川県の金沢高校から拓殖大学に進んだ松田の大学時代の公式戦登板は肩の故障もあって1試合のみ。卒業後、独立リーグへ進んだものの、ここでも1年目の昨季の登板は3試合にとどまっている。しかも7月に肘にメスを入れ、今季はリハビリに専念の予定。それでもドジャースは193センチの身長から繰り出されるMAX155キロの速球に将来性を見たようだ。

「野球留学」から出現した日本人メジャーリーガー第一号

 MLB傘下のマイナーリーグでプレーする日本人選手は、すでに1960年代から出現している。ただしこれは日本のプロ球団が若手選手に試合経験を積ませるための「野球留学」で、メジャーに上がってアメリカで一旗揚げようというものではなかった。シーズンオフの日米野球では、物見遊山の観光気分でやって来たメジャーの単独チームに日本勢は「全日本軍」で臨んでも全く歯が立たず、トップ選手でさえメジャーリーグでのプレーなど及びもつかなかった時代に、一軍でのプレーもままならなかった若手選手が「メジャーリーガー」などという大それた夢を抱くことはなかった。

 しかし、その中からメジャーリーグの舞台に立つ者が現れた。日本人初のメジャーリーガーとなったマッシーこと村上雅則だ。1964年シーズンに南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツに預けられた村上はシングルA、つまり四軍でプレーすることとなったのだが、マイナーとはいえ、公式戦に出場するからには契約を交わさねばならない。その契約書にはメジャー昇格に関する事項も含まれていたのだが、日本でもろくに戦力になっていない選手が、まさかメジャーに引き上げられることはないだろうと、本人も南海球団も夢にも思わなかった。しかし、マイナーのシーズンが終わると、その活躍が認められて村上はメジャー契約を結ぶことになる。これに及んで、有望な若手選手を取られては大変と、南海球団は抗議。契約書をたてに村上の保有権を主張するジャイアンツと両国のプロ野球連盟を巻き込んだすったもんだの騒動の末、結局、村上は翌年もメジャーでプレーしたのちに日本に戻ることになった。

 以後、同様の事例が起こらないようにと、NPB、MLB間で協定が成立。その後もNPB球団からの「野球留学」は平成の初めまで続いたが、日本の野球レベルが上がり、ファームの体制も整備されたせいか、「野球留学」はオフシーズンのウィンターリーグへの派遣へとシフトしていく。

レジェンドと同時代に太平洋を渡ったアマチュア選手

 2人目の日本人メジャーリーガーが出現したのは、1995年のことである。日本球界となかば喧嘩別れしてドジャースとマイナー契約した野茂英雄が、シーズン開幕後ひと月でメジャーに昇格、その後の活躍はご存知のとおりだろう。この「パイオニア」によって、NPBからMLBへの道が開かれ、移籍制度が整備されてゆくのであるが、その後、NPBに所属するいわゆる「プロ」の選手だけでなく、アマチュア選手も夢を抱いて次々と太平洋を渡るようになった。

 その先駆者と言っていいのがマック鈴木だ。本名・鈴木誠は、野茂に先立つこと3年前に太平洋を渡っている。兵庫の高校野球の名門・滝川第二高校に1991年に入学したが、いささか暴れん坊過ぎた。甲子園を目指す球児でありながら警察のお世話になり、結局、高校は1年途中で「自主退学」となった。しかし、その才能を惜しんだ代理人のダン野村が、当時A級カリフォルニアリーグに参加していた独立球団・サリナス・スパーズへの橋渡し役を買って出る。1992年に渡米した鈴木は、練習生としてチームの雑用をこなしながら1イニングだけ登板のチャンスをもらったが、これが球団のお眼鏡にかない、正式に選手契約を結ぶこととなった。翌1993年には、若干18歳でチームのクローザーとして12セーブを挙げ、シアトル・マリナーズとの契約を勝ち取った。高卒で言えばルーキーシーズンに当たる1994年シーズンを2Aで過ごした鈴木は、翌年にはついにメジャーのベンチ入りを果たしたのだった。この時は実戦登板のチャンスは巡ってこなかったが、野茂に遅れること1年、1996年にはついにメジャーデビューを果たし、日本でのプロ(NPB)経験のない初めてのメジャーリーガーとなった。

 このような時代の流れの中、1990年代半ばから日本のアマチュア球界からMLB傘下のマイナーに飛び込む選手が増えてゆく。

野茂の渡米と同じ1995年には、関東学園大でプレーしていた浜田典宏投手がカリフォルニア(現ロサンゼルス)・エンゼルスと、横浜東高校を卒業した篠塚岳大がモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)と契約した。ともに配属先はマイナー最底辺のルーキーリーグで、とくに篠塚はラテンアメリカの選手を養成する野球アカデミーのあるドミニカでプレーすることになった。結局、目立った成績を残せないまま、浜田は1シーズン、篠塚は2シーズンでリリースされることになるが、その後も、MLB球団による日本ではドラフトにかからなかった選手の獲得は続き、1990年代が終わるまでに計16人がマイナーに身を投じている。彼らがプレーした最高レベルは、3段階あるA級の最高位であるHI-A。メジャー予備軍が集まると言われている2Aまで届く者は現れなかった。

 しかし、彼らの中からは、吉田好太(桐蔭学園高→オークランド・アスレチックス→近鉄)、辻田摂(PL学園高→タンパベイ・デビルレイズ→中日)、金谷剛(中野実業高→ボストン・レッドソックス→近鉄)ら、帰国後にドラフト指名を受け、NPB入りを果たした者が出た。

 名門・PLではメジャーでもプレー、現在も現役を続けている福留孝介(中日)と同級生だった辻田は、1998年にテレビのオーディション番組がきっかけで大学を中退して渡米、ルーキー級ガルフコーストリーグで41試合に出場し、打率.288、本塁打3本と好成績を残したが1シーズン限りで帰国。浪人期間を経て1999年ドラフトで8位指名を受け中日入りした。

 無名校出身の捕手であった金谷は当然のごとくNPBドラフトにはかからなかったが、日本でダメならと、単身渡米。野球アカデミーに入学し、そこから1999年にマイナー契約を勝ち取った。彼もまたガルフコーストリーグに配属されたものの、技術よりポテンシャル重視のルーキークラスでは、出番はなかなか巡って来ず、3割を超える打率を残しながら14試合しか出場の機会は与えられなかった。彼もまた1年限りで退団、浪人期間を経て2000年ドラフトで近鉄から6位指名を受けている。  

 ただし両名とも、NPBでは目立った活躍をすることなくプロ生活を終えている。

有望株へシフトしたMLB

 その後、2000年代初めまで日本人アマチュア選手のマイナーリーガーとしての渡米の流れは続く。この時期には、のちNPBでも主力として活躍するG.G.佐藤(法政大→フィラデルフィア・フィリーズ/2001-03年)、山口鉄也(横浜商高→アリゾナ・ダイヤモンドバックス/2002-04年)などメジャーでの昇格はならなかったものの、帰国後、日本で成功を手にする者が出てきた。

日本人野手メジャーリーガー第1号の期待もかかっていた根鈴雄次(四国九州アイランドリーグ・長崎時代)
日本人野手メジャーリーガー第1号の期待もかかっていた根鈴雄次(四国九州アイランドリーグ・長崎時代)

 また、2000年にエクスポズと契約を結んだ根鈴雄次(法政大)、翌年にアトランタ・ブレーブス入りした竹岡和宏(近大→IBM野洲)は、メジャーまであと一歩の3Aまで昇格した。そうなると、MLB側の日本人選手獲得熱も高まるように思えるのだが、2004年以降、MLB球団による日本人アマチュア選手の獲得数は激減してしまう。そして時を同じくして、NPB選手のメジャー契約での移籍が増えている。

おそらく1990年代後半から2000年代初めまでのMLB球団による日本人アマチュア選手はある意味、実験的なものだったのだろう。そして、日米間の「紳士協定」の下、NPBのドラフトから漏れた選手を獲得してもメジャーレベルの戦力にはならないと結論付けたのだろう。アマチュアの育成システムが整っている日本の選手はアメリカに連れてきても、その高いポテンシャルに比して技術が追いついていないラテンアメリカの選手に比べ、伸びしろが知れているということなのかもしれない。そのことは、先述の金谷が当時語っていた言葉に現れている。

「いくら試合で結果出しても、監督はドミニカンばかり使うんですよ」

 仮にメジャーで活躍するポテンシャルをもっている選手がいても、佐藤や山口のようにある程度まで力量を上げるとNPB球団に進んでしまう。層の厚いアメリカでメジャーを目指すより、日本に帰ってドラフト指名を受ける方が現実的なのだ。

 それに初期のころは日本人アマチュア選手の獲得は、たとえ戦力補強にはプラスにならなくても、報道により球団の認知度を高める広告効果があったが、MLB人気が定着すればそれも不要になる。実際2004年は、ダイヤモンドバックスが小松島西高校卒の投手、米澤孝祐を獲得したのみで、それ以降2007年まではアマチュア球界からMLB傘下のマイナーリーグへの移籍は年1人ずつという状態が続く。2008年に独立リーグから獲得した選手を含め4人と持ち直したものの、その後NPBを経由しないMLB傘下のマイナーリーグという選手の流れは低調となっていった。

アメリカでのプレーからのMLBドラフト指名

 2000年代以降の日本からアメリカへの選手の移動のパターンとして新たに出現したのは、アマチュア段階でアメリカへ移動。その上で、MLBのドラフトにかかるというものである。

 その最初の選手が、坂本充だ。アメリカへ留学し野球を続けていた元高校球児に思いもかけないコロラド・ロッキーズからの24巡目指名があったのは2002年のこと。翌2003年シーズンにショートシーズンA級でプロデビューした彼は、その年の内に3Aに昇格したもののここでは1試合しか出場できず、翌シーズン限りでリリースされてしまった。引退後は、マイナーでの経験と英語力を買われて、ソフトバンクからシアトル・マリナーズに移籍した城島健司のサポート役を務めた。

 坂本が指名された8年後の2008年には、駒澤大学附属苫小牧高校からデザート短大に進んだ鷲谷修也がナショナルズから42巡目指名を受けるが、元々勉学のため留学したこともあり入団は拒否。しかし、翌2009年も14巡目指名を受けるとナショナルズと契約。ルーキー級ガルフコーストリーグで1シーズンプレーするが、2010年開幕前に解雇されてしまう。高校時代のチームメイト、田中将大がメジャー契約でニューヨーク・ヤンキース入りする4年前のことだった。帰国後、鷲谷はBCリーグでプレーを続けるが、2011年開幕後に引退。その後は日本の大学に入りなおし、現在はビジネスマンとして活躍している。

 2013年には、現在もプレーを続けている加藤豪将(トロント・ブルージェイズ傘下)がヤンキースから2巡目指名を受け話題となったが、彼は両親が日本人のため、日本国籍をもつものの、アメリカ生まれのアメリカ育ち。つまりは「日系2世」選手というべきだろう。

アマチュア有望株を標的にし始めたMLB

先述のように、村上雅則を巡る騒動以降、NPBとMLBは「紳士協定」を結び、互いのエリアのドラフト候補には触手を伸ばすことはせず、プロ選手の移籍についてその方策を整備してきた。しかし、その力関係は当然のごとく、MLB有利であった。そして2000年代終わりになると、MLB球団の中には明文化されていない「協定」を無視し、日本のドラフト候補に触手を伸ばす球団が現れ始めた。

 2008年ドラフトを前に、その年の目玉であった田澤純一が、NPB各球団に指名見送りを求め、MLB球団と契約を目指すことを表明。レッドソックスとメジャー契約を結んだ。これに対し、NPBはドラフトを拒否して国外球団と契約した者に対し、帰国後、一定期間NPB球団との契約を禁じるいわゆる「田澤ルール」をもって「ドラフト破り」を防止しようとした。

 それでも、2013年9月には、ドジャースが大学を中退してクラブチームでプレーしていた19歳の沼田拓巳投手と契約する。ドラフト対象となるにはもう1年待たねばならない社会人野球1年目で、しかも登録を抹消する前にプロ球団と契約した沼田に対し、日本野球連盟は規則違反として除名処分を下した。沼田は翌2014年シーズンからアメリカでのプロ生活を始めるが、ルーキー級を出ることなく、2シーズン目のシーズン開幕直後に自由契約となり、BCリーグでのプレーを経て、「田澤ルール」解禁後の2017年ドラフトでヤクルトから指名を受けてNPB入りを果たしている。

 沼田の場合、NPB側からすれば、当時はまだドラフト候補でもなかったので大きな問題にはならなかったが、2018年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約した吉川峻平のケースは、彼はその年のドラフト上位指名候補ということもあって再び大きな議論を巻き起こした。

 関西大学から社会人野球の名門・パナソニックに進んだ吉川にとって、8月末に行われたアジア大会は、ライバルの韓国がオールプロで臨んだこともあり、ドラフトへの大きな試金石になるはずだった。しかし、いざ大会が始まると、彼の名は選手名簿から外れていた。すでにダイヤモンドバックスと契約を交わしていたのだ。当然のごとく日本野球連盟は吉川を除名処分とした。

 今年27歳になる吉川は、今年もマイナーで投げることになっている。

 また、同じ2018年には、当時16歳の結城海斗が地元・大阪府内の有力校からの誘いを振り切ってカンザスシティ・ロイヤルズと中卒で7年のマイナー契約を結んだが、肘の故障のため公式戦で登板することなく、昨年退団している。これまでに10代でMLB球団とマイナー契約を結んだ選手は19人。そのうちルーキーリーグから1Aに昇格したのはわずか2人というのが現実である。

独立リーグからのメジャー挑戦

 今回松田は、独立リーグからのメジャー挑戦となるが、この最初のケースは、2008年松尾晃雅(てるまさ)とレッドソックスとの契約である。日本に独立リーグが誕生した2005年に大阪教育大学から四国アイランドリーグ(当時)の香川オリーブガイナーズに入団した彼は1年目から主戦投手として活躍。3年目には先発投手として15勝を挙げ最多勝に輝くが、ドラフトで指名されることはなかった。そこにレッドソックスが触手を伸ばし、マイナー契約。香川で調整を行った松尾は4月に渡米し、A級でシーズンを送った。ここで7勝を挙げ、シーズン後、香川に戻ってNPBとのフェニックスリーグにも参加したものの、この年もドラフトにかからなかった松尾は、27歳という年齢も考えて、ここで引退を決め、サラリーマンとして第2の人生を歩むことになった。

 2012年には、PL学園高や阪南大(ともに中退)でプレーし、関西独立リーグ(初代)の神戸サンズに所属していた橋本直樹投手が、クリーブランド・インディアンスと契約、翌年ルーキー級でデビューを飾るが、勝ち星なしの防御率9.50という成績に終わるとリリースされた。

元ドラ1、北方も独立リーグからMLB球団との契約を勝ち取ったが、コロナ禍もあり、十分な登板機会なく退団となった。(BCリーグ栃木時代)
元ドラ1、北方も独立リーグからMLB球団との契約を勝ち取ったが、コロナ禍もあり、十分な登板機会なく退団となった。(BCリーグ栃木時代)

 2019年のシーズン途中には、BCリーグ・栃木ゴールデンブレーブスの北方悠誠がドジャースと契約し、海を渡った。北方はDeNAが球団を買収した2012年シーズンを前にドラフト1位で入団したものの、ここでは芽が出ず、ソフトバンクの育成選手を経て独立リーグ4球団を渡り歩いた末の「メジャー挑戦」となった。制球が課題だったが、ドジャースはその速球に可能性を見出して獲得し、当時28歳だったが、ルーキー級で育成する道を選んだ。オフもオーストラリアのウィンターリーグ(所属球団はニュージーランドのオークランド・トゥアタラ)でプレーするなど、翌シーズンに期待を持たせたが、アメリカ2年目となるはずの2020年シーズンはコロナ禍でキャンセル。結局、古巣の栃木に戻ることになり、ドジャースの契約も解除されてしまう。それでも北方は現役を続け、今シーズンは故郷九州のヤマエ久野九州アジアリーグの新球団、福岡北九州フェニックスでコーチ兼任というかたちでプレーすることが決まっている。

 また2000年代にモントリオール・エクスポズなどで活躍した大家友和も、選手生活晩年を日本の独立リーグで過ごし、そこから2度にわたってマイナー契約からメジャー復帰に挑戦している。

BCリーグ加入後、ナックルボーラーに転身し、メジャー復帰を目指した大家(BCリーグ・富山時代)
BCリーグ加入後、ナックルボーラーに転身し、メジャー復帰を目指した大家(BCリーグ・富山時代)

 こうやって、アマチュア球界や独立リーグからMLB球団と契約し、マイナーリーガーとして海を渡った選手の系譜をたどってみたが、メジャーへの道は限りなく険しいものであることがわかる。そんなことは、松田も承知の上だろう。27年前、ドジャーブルーに袖を通したあの投手の挑戦も、当時は無謀だと言われていた。その無謀な挑戦は、重い扉を開き、多くのベースボーラーたちが太平洋を渡る橋を架けた。その橋を渡ろうとしている未完の投手の今後を見続けていきたい。

(文中の写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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