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BCリーグチャンピオンをかけてマウンドに登る、滋賀ブラックスの異色のサブマリンエース吉村大佑

阿佐智ベースボールジャーナリスト
12勝で今シーズンのBCリーグ最多勝投手となった吉村大佑

 独立リーグ界で今もっとも熱い球団と言えば、オセアン滋賀ブラックスだ。去る16日、親会社のオセアン主導の新リーグの概要が発表され、これまで所属していたルートインBCリーグからの「独立」が宣言されたが、今、ブラックスはBCリーグでの有終の美を飾るべくプレーオフを戦っている。

 2017年に滋賀ユナイテッドとして参入して以来、最下位がほぼ指定席となっていた弱小チームだったが、昨シーズン終了後から抜本的なチーム改革を実施した。新監督には、プロ(NPB)では無名だった柳川洋平を中学生への指導経験を買って採用。目線を下げる指導によって選手のモチベーションを高めた。そして、メンバーは3人を除いて総入れ替え。チームから「負け犬根性」を払拭した。その改革は結果となってすぐに表れ、初の地区優勝に続き、先日行われた準決勝プレーオフでは、東地区優勝の埼玉武蔵ヒートベアーズに引き分けの後、先勝を許しながら、22日の第3戦で大差をつけて圧勝し、見事決勝シリーズに駒を進めた。

 このチームを支えたのが、ドラフト候補の菅原誠也と並ぶ12勝で最多勝に輝いたサブマリン・吉村大佑投手だ。アンダースローという「絶滅危惧種」の彼はまた、農大出身という異色の経歴をもつ。

ホームゲーム最終戦の際インタビューに答えてくれた吉村投手(守山市民球場)
ホームゲーム最終戦の際インタビューに答えてくれた吉村投手(守山市民球場)

投手不足からサブマリンへ

 アンダースローで投げ始めたのは、本格的に投手を始めた高校2年の時だと言う。

「元々ずっと内野をやっていたんですけど、高校の時代の同期にピッチャーが3人しかいなかったんです。それで、誰かいないかってなった時に僕が手を挙げたんです。小学生の時にやったことがあったんで。監督さんがじゃあやれってなったんですが、背も低いんで(166cm)、アンダースローでやってみろって」

 晴れて投手となった吉村だったが、いかんせん、アンダースローがピンとこない。いまや日本球界では「絶滅危惧種」となった投げ方をいきなりやってみろと言われても、どう体を動かしていいのかわからない。渡辺俊介(元ロッテ)、牧田和久(楽天)の存在は知っていたが、まさか自分があの変則フォームでマウンドに立つとは思いもよらなかった。

 悩む吉村に救世主が現れた。母校・藤嶺藤沢学園高校のOBで元西武のエース、石井貴(楽天投手コーチ)が、臨時コーチとして指導に来るようになったのだ。石井は、西武のコーチ時代、牧田を指導した経験をもっていた。

BCリーグに爪痕を残すべく、ポストシーズンもフル回転を誓った
BCリーグに爪痕を残すべく、ポストシーズンもフル回転を誓った

コロナ禍をチャンスにフォーム固め

 「理系と言っても、文系との中間みたいな学部だったんで」と吉村は大学時代を振り返る。

 文武両道の高校から指定校推薦で進学した先は、東京農大オホーツクキャンパス。あのスピードスター周東佑京(ソフトバンク)を出した北海道の大学野球界の強豪で、吉村が3年の時には全日本大学野球選手権大会で準決勝まで駒を進めている。しかし、大学時代、プロを意識することはほとんどなかった。

 「大学時代は、やはり勉強が第一で、野球と半々ぐらいで頑張っていました。野球の練習は講義の入っていない時間にやる感じでしたが、結構やりましたよ。中身も濃かったと思います」

 強豪にあって、高校時代から投手になったという吉村にはなかなか出番は回ってこなかった。3年になってベンチ入りできたものの、基本はブルペン待機。結局、公式戦のマウンドには、一度しか立てなかった。同期生からブランドン(西武6位)、中村亮太(ソフトバンク育成8位)と2人が昨年のドラフトで指名されたが、それを自身に投影することもなかった。

 そんな吉村だったが、BCリーグのトライアウトを受ける。

「NPBというのを考えてのことではなかったです。大学時代が不完全燃焼だったというか、なかなか試合にも出れていませんでしたから。もう少し高いレベルで野球がしたかったというのが独立リーグにチャレンジした動機ですね。だから就職活動もしていましたよ。トライアウトに受かるかどうかもわかりませんので。大学4年の去年はコロナでの活動自粛期間が結構あって、その間に自分なりにフォームをチェックしたんです。それで結構いい感触をつかんだんで」

薄給の独立リーグへの「就職」にも両親はとくに反対はしなかった。「好きなところに行きなさい」。その言葉に背中を押され、吉村は滋賀へと向かった。

チームの躍進と共にエースに

 いざ独立リーグの世界に足を踏み入れたものの、メンバーには大学時代主力として名を馳せた者も少なくない。大学時代の実績がゼロに等しい吉村の脳裏に自分がマウンドで躍動する姿は浮かぶことはなかった。それでもキャンプ、オープン戦を経ていくうちに、もしかしたら通用するかもしれないというほのかな自信が芽生え始めた。

 その芽に水を撒いたのが監督の柳川だった。柳川は吉村が思いもよらなかった言葉を投げかけた。

「NPBを目指すのだったら先発もリリーフも両方できるところを見せておかないと」

 自身も独立リーグからNPBへ進んだ柳川の言葉に吉村はその気になった。先発投手として吉村を起用することにした柳川は、オープン戦が終わった後、吉村に新チームの開幕戦を任せることを決めた。吉村のストレートは、いつの間にか大学時代より7、8キロも速くなっていた。慣れない下からの速球に独立リーガーたちのバットは空を切った。シーズンが終わってみれば12勝4敗の最多勝。これは両輪としてチームを支えた本格派エースの菅原と全く同じ成績だった。完投も菅原と同じ6を数える。防御率は3.14。投球イニングは菅原に次ぐリーグ2位の実に152回に達した。大学で控え投手だった吉村がなぜここまで躍進できたのだろう。本人は、なにかが大きく変わったわけではないと話す。

「大学時代に結構走っていて、こっちに来てからも結構厳しい練習してきたんで、その成果が出てきたのかなとは思います。そのおかげで自分が成長しているのは感じました。それに監督のアドバイスはやっぱり大きいですね。あとは、打線がすごく頼もしいので、自分が最低限の仕事ができればと、気持ちに余裕をもてて投げられているので、投げるたびに成長できたかなとは思います」

8勝目を挙げ、ヤクルトなどで活躍した埼玉武蔵ヒートベアーズの由規投手と並んだときに最多勝が頭をよぎった。先発の柱としてシーズンを乗り切るのも初めての中、自分が最多勝争いをするなどとはシーズン前には想像もつかなかった。

「なかなかそういう方と競えるところもないと思うので、負けてもともとなんで食らいついていきたいなという感じで頑張りました」

チャンピオン、そして「最多勝」目指して

 チームは9月11日、悲願の地区初優勝を決めた。吉村は胴上げ投手となるべく先発マウンドを託されたが、シーズンの疲れがたまっていたのか、2回3失点でマウンドを降りた。その翌々日のホーム最終戦の先発マウンドにはライバルの菅原が立ち、凱旋の勝ち星をファンに捧げた。ここで両エースの勝ち星が並び、15日の最終戦には、プレーオフに備えて吉村がリリーフのマウンドに立ったが、勝ち星はつかなかった。「できれば単独で(最多勝を)獲りたい」と言う吉村だったが、監督の柳川は「あいつもその前にやらかしているんで。ふたり仲良くでいいでしょう」と優勝決定戦のマウンドを引き合いに出し、わざわざ勝ち星をつかせることはしなかった。

 そして、プレーオフ、柳川監督は吉村を第1戦の先発に起用した。対する埼玉の先発は最多勝争いを演じた由規。西地区球団は今シーズン、他地区球団との対戦がなかったので、憧れの投手との初対戦となった。NPB復帰を狙う剛球投手相手に吉村は一歩も引かず、由規が6回1失点でマウンドを降りるのを尻目に8回までゼロを並べた。しかし、9回に埼玉打線の猛反撃にあい、2アウトから同点に追いつかれ、降板となった。試合はこの後、両者抜きつ抜かれつの死闘を演じ、延長12回5対5で引き分けに終わった。第2戦は、もうひとりのエース、菅原で落としたが、第3戦に大勝を収め、総得失点差で上回り、決勝プレーオフに駒を進めることになった。

 ブラックスは明日26日から、リーグ優勝4回の強豪、群馬ダイヤモンドペガサスとリーグチャンピオンシップを戦う。準決勝プレーオフではダブルエースにはともに勝ち星はつかなかった。延長戦となった「最多勝」争いにピリオドをつけるべく、そしてBCリーグを「黒く染める」ため、吉村はマウンドに登る。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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