Yahoo!ニュース

トミー・ラソーダ氏死去。イタリア系移民2世がアメリカと太平洋、カリブ海にかけた「多様性」という名の橋

阿佐智ベースボールジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

 アメリカ民主主義の象徴である合衆国議会議事堂が、大統領選挙の結果を受け入れない「トランプ支持派」によって一時的だが占拠された1月6日の翌7日、元ロサンゼルス・ドジャース監督のトミー・ラソーダ氏の逝去が発表された。

 トランプ政権下で、アメリカがそれまで世界のリーダーとして体現してきた国際協調と多様性が減退し、「アメリカ・ファースト」、「排他的白人至上主義」が台頭した結果、アメリカ社会の分断が進んだ帰結とも言える大事件が起こる中、野球界においてその国際協調と多様性を推し進めたラソーダ氏の死が報じられたのは、皮肉な偶然である。

イタリア系移民2世という出自

 移民国家アメリカ合衆国の歴史は、差別と融合、多様性の承認のせめぎあいの歴史でもあった。アメリカにおける差別問題とは、ヨーロッパ系の「白人」と、ネイティブ・アメリカンである「インディンアン」、奴隷としてアフリカから連れてこられた「黒人」との問題ととらえられがちだが、実際は、白人コミュニティ内でも、いわゆる「WASP」(イングランド系)を頂点とする厳然たるヒエラルキーが存在していた。その中において、イタリア系移民が下層に位置することは、禁酒法時代のアル・カポネや映画「ゴッド・ファーザー」に代表されるイタリアン・マフィアのイメージに象徴される。スポーツの世界においても、ハングリースポーツであるボクシングとイタリア系移民のイメージが重なることは、ボクシング映画の名作、「ロッキー」が、イタリア系の主人公と有色人種のライバルボクサーの対決という構図で描かれていることからうかがい知ることができる。

 その白人マイノリティであるイタリア系移民1世の子としてラソーダが生まれたことは、長じての野球人としてのキャリアに影響を及ぼしたことは想像に難くない。

大成しなかった現役時代と指導者として積んだ国際的キャリア

 1944年、16歳で投手としてフィラデルフィア・フィリーズと契約したラソーダは、翌45年、マイナーリーグのD級ノースカロライナステートリーグでプロデビューを飾ものの、このマイナー最底辺クラスで3勝12敗に終わる。

 その後、1949年に当時ブルックリンに本拠を置いていたドジャースに移籍すると、翌年以降は3A級の主戦投手としてカナダ・モントリオールでプレーする。そして1954年にはついにメジャーリーグ昇格を果たした。しかし、結局メジャーには定着できず、3シーズンで勝ち星なしの4敗という成績で、再びマイナー生活に戻ることになる。その中で、1957年には、パシフィックコーストリーグのロサンゼルス・エンゼルスでプレーすることになるが、このチームはこのシーズン限りで消滅。皮肉なことに、ラソーダと入れ替わるかたちで翌年からはドジャースがこの町をフランチャイズとすることになる。ラソーダ自身は、この後、革命前のキューバでもプレーした後、1960年シーズンをモントリオールで送った後、32歳で引退する。

 引退後、ドジャースはラソーダをスカウトとして雇うことにした。そしてラソーダはこの仕事に5年間従事した後、マイナーチームの監督となり、指導者としてのキャリアをスタートさせる。マイナーの最下層、ルーキークラスから始め、1972年までに3Aまで昇格し、その間、のちドジャースが選手獲得地として力点を置くことになるドミニカでも監督を務めた。この国のウィンターリーグの名門・リセイを率いたラソーダは、1972-73年シーズンタイトルを獲得。その後に行われたカリビアンシリーズも制した。

このようなマイナーでの指導者としての実績を買われて、ラソーダは現役時代1シーズンだけ過ごしたロサンゼルスに帰ってくる。

指導者として偉大な功績を残したラソーダは、勇退の翌年には早くも野球殿堂入りも果たしている
指導者として偉大な功績を残したラソーダは、勇退の翌年には早くも野球殿堂入りも果たしている写真:ロイター/アフロ

 ドジャースのベースコーチを1973年から務めた彼は、1976年のシーズン最終盤に前監督ウォルター・オルストン監督の勇退を受けて、その座を受け継ぎ、1996年シーズン途中に健康上の理由から勇退するまでに監督として1599の勝ち星を積み上げ、ドジャースを8回リーグ優勝に導き、そのうち2度のワールドシリーズを制した。

メジャーリーグの国際戦略の中で生かされた国際性と多様性

 ラソーダがドジャースの監督を務めた時期は、メジャーリーグでフリーエージェント制が採用され、その結果選手報酬が高騰したため、各球団が安価な好選手を求めて中南米カリブ地域にスカウト網を本格的に広げていった時期と重なる。その潮流の先頭を切っていたのが、ほかならぬラソーダ率いるドジャースであった。

 現役時代のキューバでのプレー経験やドミニカでの指導者経験からか、彼は北米以外の「外国人」選手の起用に長じていた。マイノリティの文化、習慣に敬意を表し、「角を矯めて牛を殺す」ことなく、彼らの特性を最大限に生かすその起用法は、まさに「人種のサラダボウル」たるアメリカの多様性を具現化したと言っていい。

 その彼の最初の「作品」が、1980年にメジャーデビューを飾り、一大ブームを巻き起こした「エル・トロ」ことフェルナンド・バレンズエラである。かれがメジャーリーグで挙げたメキシコ人投手最多の173勝なしには、メキシコ野球の現在の発展はなかっただろう。彼の母国メキシコは、昨年のプレミア12でアメリカとの死闘を制し、東京五輪への切符を手にしている。

2018年のセレモニーでマウンドに立ったバレンズエラ氏。彼の偉業もラソーダのサポートあってのものだった
2018年のセレモニーでマウンドに立ったバレンズエラ氏。彼の偉業もラソーダのサポートあってのものだった写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

 そして、我々日本人にとって忘れてはならないのが、1995年の野茂英雄のメジャーデビューである。バレンズエラの熱狂的なファン、「フェルナンド・マニア」になぞられた「ノモマニア」のブームを巻き起こした彼がルーキーイヤーに挙げた13勝は、ラソーダのサポートなしにありえなかった。そして野茂の成功なしに、その後に続いた日本人選手のメジャー挑戦もまたありえなかったことを考えると、ラソーダは広い太平洋に長く太い橋を架けたと言っていいだろう。

 そして彼はまた、アメリカのナショナルパスタイム(国民的娯楽)を世界に広めるため、労を惜しむことなく世界中に足を運んだ。

 オフの日米野球にはたびたび来日。1993年には、新興球団のダイエーホークスの招聘に応じて、台湾遠征の帰途、福岡にドジャースを引き連れ、親善試合を行っている(日本側はダイエー・巨人連合軍)。そして、2000年シドニー五輪では、マイナーの有望株で構成されたアメリカナショナルチームを率い、「アマチュアの雄」・キューバの牙城を崩し、金メダルを手にしている。

シドニー五輪ではアメリカに金メダルをもたらした
シドニー五輪ではアメリカに金メダルをもたらした写真:ロイター/アフロ

 2001年には今はなき大阪近鉄バファローズのアドバイザーに就任。ドジャース傘下の選手の移籍に尽力し、近鉄最後のリーグ優勝に貢献している。

 このような彼の功績は、各国球界に足跡を残している。母国アメリカでは、ドジャース監督退任の翌年に野球殿堂入りを果たしている。彼が現役生活の大半を過ごしたカナダでも2006年に野球殿堂入りが発表された。日本でも2008年に旭日小綬章が贈られている。

 そしてドジャースがドミニカにおいて先鞭をつけ建設した野球アカデミーにも彼の足跡が残されている。100名を超える選手、スタッフの胃袋を満たしている食堂には、彼の名がつけられているのだ。現在ドミニカのアカデミーには世界中の選手が集まり、野球の頂点であるメジャーリーグへの長い道のりのスタートを切っている。ラソーダの体に流れている「ドジャーブルーの血」は彼らを介して世界中の野球選手に受け継がれてゆくことだろう。

ラソーダ・ダイニングホールと名付けられたドミニカ・ドジャースアカデミーの食堂(筆者撮影)
ラソーダ・ダイニングホールと名付けられたドミニカ・ドジャースアカデミーの食堂(筆者撮影)

 野球の母国アメリカがなぜゆえに世界中の人をひきつけてきたのか。それはその多様性を認める懐の深さゆえだったのではないだろうか。ワシントンで起こった愚行とラソーダ氏の死を思うにつれ、世界中の若者の夢を受け入れてきたメジャーリーグが、多様性を受け入れる懐の深さをなくさないことを願ってやまない。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

阿佐智の最近の記事